思い出との乖離

「何だか、まだ足元がふわふわする気がする……」


 飛行船が無事目的地に着陸し、昇降口へと向かう途中のブリッジを、レナータはアレスに支えられながら歩いていた。


 楽園へと連行するための交通手段の一つとして、飛行船に乗せられた時にもそうだったのだが、長時間浮遊感を味わっていると、レナータの場合、下船する際、足元が覚束なくなってしまうのだ。所謂、陸酔いだ。

 とはいえ、それほど症状が重いわけではないから、一応一人で歩けるのだが、傍から見ていると、危なっかしくて仕方がないのだろう。楽園に連れていかれた時には、さすがに気の毒に思ったのか、それとも単にさっさと歩いて欲しかったのか、脇に控えていた軍人が腕を差し出してくれ、エスコートしてくれた。そして今は、アレスに腰を抱き寄せられ、ぴったりと寄り添って歩いている。


「レナータ、気分は悪くねえか」

「うん。頭が痛いわけじゃないし、吐き気もないよ」


 本当に大したことではないのだと、アレスを安心させたくて、淡く微笑む。


「もう少ししたら、このふわふわした感覚もなくなると思う。 楽園に着いた時も、そうだったから、そんなに心配しなくて大丈夫だよ」

「そうか。けど、少しでも体調が悪くなったら、すぐに言うんだぞ」

「うん、そうする。心配してくれて、ありがとう。アレス」


 とはいえ、この飛行船に乗船していたのは、当然ながらレナータたちだけではない。先刻から、レナータたち同様、下船しようとしている乗組員たちから、ちらちらと好奇の目を向けられ、居たたまれない気持ちにさせられる。その中には、先程顔を合わせたばかりの、カイという青年も含まれていた。

 しかし、恥ずかしいからといって、ここでアレスを突き放したら突き放したで、注目を浴びる結果には変わらない気がする。


(みんな、さっさと降りてくれないかな……)


 レナータの足取りが危なっかしいからか、アレスは決して急かそうとはしない。だから必然的に、他の乗組員たちに先に下船してもらっているのだが、その分視線を集めてしまっているのではないかと、思えてきた。

 気恥ずかしさから目を伏せようとした矢先、見知った顔を見つけた気がして、ふと視線を上げる。すると、ハニーブロンドの美女と視線が交錯した。


(――ロザリーさん?)


 ロザリーとは、レナータがスラム街で暮らしていた頃の、職場の同僚だ。あれから、三年近くの月日が経っているが、ロザリーの美貌に陰りは見受けられない。むしろ、また一段と色気が増した気がする。

 どうして、ロザリーがこんなところにいるのかと、忙しなく目を瞬かせていると、緩く弧を描いたふっくらとした唇から、ある意味懐かしい、ふわりと匂い立つような色香を纏った声が零れ落ちてきた。


「――お久しぶり、お姫様。相変わらず、番犬くんとは仲良しなのね」

「はあ、まあ……」


 なんて答えたらいいのか分からなかったレナータの唇から咄嗟に零れ落ちてきたのは、何とも曖昧な言葉だった。

 五年前、一度だけ敵愾心を向けたことがある相手とはいえ、今ではもう何とも思っていない。あれから、これといった接点もなかったし、元々親しい相手でも何でもない。レナータがロザリーに向ける感情は最早、無だ。


「お久しぶりです、ロザリーさん。お元気そうで何よりです」


 だから、無難な挨拶の言葉を口にして、軽く会釈すると、ロザリーは何故か軽やかな声を立てて笑った。


「相手が誰でも、礼儀正しいところも、相変わらずなのね。……ねえ、お姫様。隣の番犬くん、すごい顔をしているから、どうにかしてもらえないかしら?」


 すごい顔とはどんな顔なのだろうと思いつつも隣を見遣れば、ロザリーの言う通り、すごい顔と形容するに相応しい顔が、そこにはあった。

 きつく眉根を寄せている姿は、レナータにとって見慣れたものではあるが、ぎりぎりと奥歯を食いしばりながら、ロザリーを鋭く睨み据えているアレスは、さながら飛びかかる寸前の猛犬だ。低い唸り声が聞こえてきても、不思議ではない有様だ。ついでに、レナータの腰を掴んでいる手にぐっと力が込められ、少し痛い。でも、おかげで、レナータたちに向けられていた好奇の目は、さっと勢いよく逸れていった。


(アレス、ロザリーさんに無理矢理キスされたこと、まだ根に持っているのかな……)


 レナータとて、思い出すと非常に腹立たしいものの、終わったことだからと、既に水に流している。だが、アレスは他でもない当事者だから、そう簡単には割り切れないのかもしれない。


「アレス、手の力、もうちょっと緩めてもらえる? これだと、痛いよ」


 とりあえず、レナータに差し迫って実害がある部分を指摘するや否や、はっと我に返ったらしいアレスが、即座に腰を抱く手の力を少しだけ和らげてくれた。おまけに、眉間に寄せられていた皺も消え、歯を食いしばるのもやめたみたいだ。先刻とは違い、レナータに注がれる琥珀の眼差しは、どこまでも優しい。


「悪い、レナータ」

「ううん、もう平気」


 首を横に振り、視線を戻せば、いつの間にかロザリーの姿は消えていた。レナータがアレスとやり取りを交わしている間に、さっさと下船してしまったようだ。

 気づけば、飛行船の中に残っているのは、レナータたちだけになっていた。もしかすると、レナータたちの目が届かないところに、まだ誰か残っているのかもしれないが、少なくとも見える範囲には乗組員の姿はない。

 アレスに付き添われつつ、ゆっくりとボーディングブリッジを降りていくと、レナータたちの方へと歩み寄ってくる、眼鏡の男性の姿が目に留まった。


 その男性は、アレスと同じ濡れ羽色の髪と琥珀の瞳を持つ、甘い顔立ちをした美形だった。アレスよりも背が高く、驚くほどスタイルにも恵まれている。

 アレスと同じ色彩を有し、ミナーヴァの面影が色濃い相貌に、もしかしてという思いが脳裏を過るが、確信を抱くまでには至らない。それだけ、レナータたちに近づいてくる男性からは、思い出の中の少年とはかけ離れているように感じられた。

 だから、未だにレナータの腰を抱えているアレスを、咄嗟に振り仰ぐ。


「あの、アレス――」

「――久しぶりだな、レナータ」


 しかし、アレスに問いかけようとしていた言葉を、低く甘い声が遮ってきた。その声に吸い寄せられたかのように顔を向ければ、すぐ目の前に立ち止まった男性が、薄く形のよい唇に魅惑的な微笑みを浮かべた。

 きっと、大抵の女性ならば、こんなにも整った甘い顔立ちをした男性に微笑みかけられたら、うっとりと夢見心地を味わったに違いない。リアクションが激しい人ならば、黄色い悲鳴を上げていたかもしれない。


 でもレナータは、アレスみたいな精悍な顔立ちの男性が好みであるためか、自分でも驚くくらい、心動かされなかった。それよりも、この人は誰なのだろうという疑問の方が、余程強い。


「……リック……?」


 だから、思い出に残る少年の名を口にしたレナータの声は、明らかな困惑に彩られていた。それとなく、不安そうにも聞こえるかもしれない。

 思わず眼鏡の男性から視線を外し、もう一度アレスを仰ぎ見れば、浅く頷いてくれた。

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