悠久の少女 After Story

小鈴莉子

一章 蜜月

眠り姫

 ――無事、楽園の塔に囚われていたレナータを救出し、飛行船のデッキから船内へと移動したアレスたちは、一室の部屋で休んでいた。


 アレスに宛がわれた船室に入ってすぐ、長椅子の上で横になるように勧めたのだが、レナータは頑として首を縦に振らなかった。夜明け頃まで寝ていたし、今は眠れる気がしないと言い張ったのだ。

 だから、しばらくの間、二人並んで長椅子に腰かけ、ぽつぽつと言葉を交わしていたのだが、いつの間にかレナータはアレスの肩に頭を預け、控えめな寝息を立てていた。


 きっと、ずっと気を張っていたのだろう。アレスの肩から慎重に頭を離して膝に乗せても、レナータが目覚める気配は一向になかった。万が一、エンゲージリングに傷がついたら大変だからと、レナータの華奢な薬指から指輪を抜き取っても、ぴくりともしない。

 そっと頭を撫でれば、ふにゃりと幸せそうに薔薇色の頬を緩めた。アレスの膝に頬を擦り寄せ、むにゃむにゃと言葉になっていない声を漏らすレナータは、ただ可愛いだけだ。


 レナータに毛布をかけ、その穏やかな寝顔を見守り始めてから、どれほどの時間が経過したのだろう。それほど時間は進んでいないはずなのだが、長くて豊かな睫毛に縁取られた瞼がふるりと震えたかと思えば、ゆっくりと翡翠の瞳が姿を現していった。

 寝起きがいいレナータにしては珍しく、すぐには意識が覚醒しなかったみたいだ。緩慢な動作で瞬きを繰り返し、視線を彷徨わせていたレナータは、やがて寝返りを打ち、仰向けになった。


 翡翠の眼差しと琥珀の眼差しが絡み合った途端、寝ぼけ眼のままではあったものの、レナータはふわりと微笑んだ。


「……アレスだ」

「俺以外の誰だと思ったんだ」

「そういう意味じゃなくてアレスに助けてもらったの、やっぱり夢じゃなかったんだなあって、改めて思っただけ」

「あれだけ大変な思いをしたのに、夢であってたまるか」

「そうだね。アレス、大活躍だったもんね」


 アレスの言葉に、くすりと笑みを零したレナータは、もう一度寝返りを打ち、横向きになった。

 膝の上に散ったダークブロンドを一房掬い、指先で弄んでいたら、何が楽しいのか、レナータは再びくすくすと笑みを漏らした。


「どうした」

「ううん……アレスに膝枕してもらうの、初めてだなあって思っただけ」

「……確かに、今までしてやったことねえな」


 アレスが幼い頃は、よくレナータに膝枕をしてもらったものだが、逆の機会はなかった。レナータが人間として生まれ変わり、成長し、アレスと恋人同士となってからも、一度もしたことがない。


(付き合ってからは、レナータに膝枕してもらったことは、何回もあったが……)


 レナータの太ももは、昔から柔らかく弾力があり、非常に寝心地がいいが、アレスの硬い感触しかない太ももを枕にしたところで、気持ちよくも何ともないだろう。それに、レナータからして欲しいと、強請られたこともなかったから、別に求められていないのだろうと思っていた。

 だが、この様子からすると、本当はアレスの膝を枕にしてみたかったのだろうか。


「して欲しかったのか?」

「うーん……そこまでじゃないよ。いざやってもらうと、新鮮だなあって、ちょっとわくわくしただけ」


 また寝返りを打ったレナータは、アレスを見上げると、にっこりと笑みを浮かべた。


「アレスは私の膝枕、大好きだけどね?」

「文句あるか」

「ないよ。可愛いなあとは思うけど」


 昔から思っていることなのだが、レナータの可愛いと感じる基準が、アレスにはよく分からない。かつては人工知能だったから、レナータの感性は一般的な人間に比べて、もしかしたら独特なのかもしれない。


 寝返りばかり打ったせいで、すっかり乱れてしまっているダークブロンドを、せっせと両手を使って揃えていたら、ブリッジを走っていく音が聞こえてきた。そして、その足音が次第に大きくなっていき、こちらに近づいてきたかと思えば、突然部屋の扉が勢いよく開け放たれた。


「アレスさーん、レナータさーん! そろそろ、着陸します……よ……」


 黒髪とダークブラウンの瞳の持ち主である青年が、満面の笑みを浮かべて船室に飛び込んできたのも束の間、闖入者はアレスたちの姿を目 の当たりにした瞬間、笑顔のまま微動だにしなくなった。いきなり部屋に入ってこられたものだから、レナータも驚いてしまったらしく、目にも留まらぬ速さで起き上がり、そそくさとアレスの背中に隠れ、闖入者の様子を窺っている。


「……おい、カイ。人が使っている部屋に入る前にはノックをするもんだってマナーは、てめえの頭には入ってねえのか」

「俺、アレスさんみたいに口が悪い人が、マナーって言葉を使った方が、驚きっす!」


 地を這うような低い声で凄むと、闖入者――カイの口から、失礼極まりない言葉が返ってきた。


「十年も女と一緒に暮らしていれば、嫌でも身につく」


 そうしなければ、互いに気まずい思いをする羽目になるのだ。相手のプライベートゾーンを越境しても構わないかと、事前にお伺いを立てるようになるのは、ごく自然なことだ。


「アレスさん、意外と紳士なんですねー」

「……たまに、そうじゃないけど」


 前からも後ろからも、大変失礼な感想が聞こえてきた。レナータは聞こえないと思って発言したのかもしれないが、先程からアレスの背中にぴったりと張りついているのだ。アレスがグラディウス族でなくても、はっきりと聞こえる距離だ。

 アレスがちらりと背後を見遣り、軽く睨むと、レナータはこちらからそっと目を逸らした。


「……で、そろそろ着陸するんだったか。分かった、降りる用意をしておく。 報告、わざわざご苦労だったな」


 アレスが溜息を吐きながら視線を正面に戻せば、カイは笑顔で頷いた。


「いえいえー。それにしても、アレスさん。俺、アレスさんの部下でも何でもないのに、よくそんな偉そうにできますねー」

「てめえの上司の弟なんだから、このくらいいいだろ」

「そういうもんですかね? まあ、いいや。それじゃあ、お邪魔しました!」


 本当に邪魔だったと、心の中だけで吐き捨てる。

 カイが軽やかな足取りで退室し、扉が閉まった直後、アレスの背中から離れたレナータが、再度隣に戻ってきた。


「さっきの人……カイさんだっけ? リックの部下なの?」

「ああ見えてな。あれでも、有能な飛行船の整備士だぞ」

「ああ見えてとか、あれでもとか……失礼だよ、アレス」

「紛れもない事実だろうが。それに、さっきあいつもレナータも、俺に対して充分失礼なことをほざいていたじゃねえか」

「それこそ、紛れもない事実です」


 そう言い合いつつも、互いに長椅子に取り付けられているシートベルトを装着し、アレスはレナータにかけていた毛布をさっと畳む。それから、まだ少し乱れているレナータの髪を、改めて手で整えていく。

 そうこうしているうちに、飛行船は着陸態勢に入っていき、久方ぶりの地上への帰還を果たそうとしていた。

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