三章 幻影に、さよならを
距離感
――翌日。
昨日買ったばかりの服を身に纏い、薄く化粧を施したレナータは、スーツ姿が新鮮なアレスと一緒に、リヒャルトの勤務先であるオフィスに赴いていた。
オフィスに入る前に、何となく目の前の高層建築物を仰ぎ見ると、その高さに思わず目を細める。
このビルは十階建てなのだが、一つ一つのフロアの天井が高いため、高層建築物というよりも、超高層建築物と呼んだ方がいいのではないかと思ってしまう。
「レナータ? どうした」
オフィスを振り仰いだまま、茫然と突っ立っていたレナータは、低く美しい声によってはっと我に返った。慌てて隣へと振り向くと、アレ スが怪訝そうにレナータを見下ろしていた。
「ううん、何でもない。……リックを待たせたら悪いから、そろそろ行こっか」
「ああ」
互いに頷き合い、オフィスの中へと足を踏み入れれば、アレスと共にまっすぐにフロントへと向かう。すると、華のある雰囲気の受付嬢がにこやかに対応してくれた。
「リヒャルト=ヴォルフと今日のアポイントを取っている、アレス=ヴォルフとレナータ=アードラーだ。取次ぎを頼む」
「ヴォルフ様と、アードラー様ですね。お話は、事前に伺っております。今、内線で担当の者を呼びますので、あちらのソファに腰かけてお待ちください」
本人の言う通り、前もって話が通っていたからか、受付嬢は淀みなく言葉を紡いだ。そして、会社専用と思しき携帯端末をすぐに取り出すや否や、素早く操作していく。さすが大企業の受付嬢というべきか、仕事が早い。
(ここ……どう考えても、大企業……だよね)
レナータは人間として生まれ変わってから、会社員になったことはない。アレスは第三エリアに移り住んでから、技術職員として会社に所属していたものの、レナータはただの一度もそこに足を運んだことはない。
だが、それでも人工知能だった頃の記憶があるから、リヒャルトの勤務先が相当な規模を誇る企業だと、何となく分かる。
受付嬢に促されるがまま、アレスと一緒に近くのソファへと移動し、そこに腰を下ろす。
「……ねえ、アレス」
「あ?」
「ここって、確か軍事メーカーの会社だよね」
三日前、リヒャルトからはそう説明を受けている。
確認のためにそう問いかければ、アレスは浅く頷いてくれた。
「ああ。軍用機や艦船、戦車を製造している会社だ」
「リック、 楽園の特殊部隊に配属されている軍人なのに、よくここでも働けているね」
「いや。あいつ、軍は辞める予定だぞ」
「え? そうなの?」
リヒャルトはクーデターの主犯の一人なのに、そんなにあっさりと軍隊から抜けられるものなのだろうか。
目を瞬かせるレナータから視線を外したアレスは、淡々と言葉を続けた。
「まあ……クーデターの事後処理があるから、そんなにすぐには辞められねえとは思うが、元々、そういう取引だったらしい」
話がよく見えなくて首を傾げると、アレスは横目にレナータを捉えた。
「あいつ、随分と前からあのクーデターの計画を練っていたみたいでな。それで、せっせと人脈作りをしているうちに、何故かここの社長に気に入られたらしい。で、クーデターにこの会社の軍用機を使っていいから、クーデターが成功した暁には、ここの社長秘書になれって取引だったんだと」
「じゃあ……リックがここの社長さんと懇意になって、ここで働くって条件を呑んだから、あのクーデターは成功したってこと?」
「それだけが勝因じゃねえだろうが、まあ、そんなところだろ」
アレスの返答に、つい唇から吐息が零れる。
レナータは、リヒャルトたちが起こしたクーデターの詳細は一切知らされていない。アレスも詳しい説明は受けていないのか、それともレナータに聞かせる話ではないと判断したのか、多くは語らない。
しかし、リヒャルトが並大抵ではない熱意を持ち続け、努力を積み重ねた結果、楽園に連れ去られたレナータが助けてもらえたことは、充分理解している。
リヒャルトが起こした行動が、そもそもレナータが楽園に連れていかれた原因ではないかという思いも、あることにはあるが、どうせそのうちエリーゼへの妄執を捨てられなかったルートヴィヒに誘拐されていただろう。だから、クーデターを起こしたリヒャルトを責めるつもりは、毛頭ない。
(そういえば……ルーイは、あれからどうなったのかな……)
アレスもリヒャルトも、レナータを回収するなり、即座に撤退してしまったため、ルートヴィヒがあの後どうなったのか、分からない。もしかしたら、クーデターの事後処理に追われているリヒャルトならば知っているのかもしれないが、知ってどうするのかという思いもある。
悶々とした気持ちを振り払うように軽く頭を振ると、また低く美しい声が耳朶を打つ。
「それに、今の楽園はろくに機能できてねえ状態らしいからな。特に、軍は。だから、リヒャルトの奴も、そんなにしつこく引き留められず に済むだろ」
「そっか……」
そこまで聞いたところで、ふとある疑問が胸中に芽生えていく。
「……そういえば、アレス。いつの間に、リックのこと、あだ名で呼ばなくなったの?」
幼少期のアレスは、兄のことを愛称で呼んでいた。でも、リヒャルトと再会してから、少なくともレナータの前では、アレスは兄を愛称で呼ばなくなっていた。というよりも、名前を呼ぶこと自体、そんなになかった気がする。
疑問をそのまま口にすると、アレスは何故かきつく眉根を寄せた。
「……別に、特に意味はねえよ。何となくだ」
「ふうん……」
元々、アレスとリヒャルトはとりわけ仲がいい兄弟というわけではなかった。だが、再会してからの二人は、仲が良くないを通り越して互いに不干渉を決め込んでいるように見える。言葉を交わすのも、必要最低限という印象だ。
(大人になった男兄弟って、そんなものなのかな……?)
かつてのレナータには兄弟なんているはずもなかったし、人間になってからは一人っ子だった。
しかし、アレスが兄のように面倒を見てくれていたから、兄弟というものはこういうものだろうという、レナータなりの考えは持っていた。
レナータにとって、兄としてのアレスは、たまに意地悪になるものの、基本的には慈しみ、守り、導いてくれた存在だ。時々、過保護になるのは玉に瑕だと思っていたが、甲斐甲斐しく世話を焼いてもらえたことは、素直に嬉しかった。だから、恋人としてのアレスが大好きであることはもちろんのこと、兄であるアレスも愛しく思っている。
(まあ……弟と妹じゃ、違うよね)
レナータは三千年の時を生きてきたが、べたべたと仲良くしている男兄弟というものは、あまり見た記憶がない。それに、アレスとレナータは仲が良過ぎると度々評されていたから、世間一般の血が繋がった兄妹とも違うのかもしれない。
そんなことを考えていたら、規則正しく響く靴音が次第にこちらへと近づいてきたことに、気づく。そちらへと目を向ければ、ちょうどリヒャルトがレナータたちの元へと歩み寄ってきたところだった。
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