ショッピングデート
――翌日。
昨日は一日中、ホテルでのんびりと過ごしていたが、今日は朝食を済ませるや否や、ホテルの近くの繁華街へとアレスと共に赴いていた。
一昨日、リヒャルトたちと話し合った結果、明日集まり、一度今後について話をしようということになったのだ。そして、その話し合いの場を、リヒャルトの勤務先でもあるオフィスに決めたため、レナータたちはフォーマルな服を買いにきたのだ。
一昨日は緊急事態だったため、カジュアルな格好でも許されたが、さすがに今回みたいに余裕がある場合は、それ相応の身だしなみをしていくべきだろう。
「ったく……なんで、わざわざリヒャルトの職場になんざ、こっちから出向かなきゃならねえんだ」
「しょうがないでしょ、リックは忙しいんだから。その忙しいのだって、クーデターの後処理も含まれているんだから、私たちが文句を言ったら、駄目だよ」
現在、リヒャルトが多忙を極めているのは、クーデターの影響も非常に大きい。しかも、そのクーデターにより、レナータたちは救われたようなものなのだ。
だから、そんな忙しい中でも、レナータたちのために時間を作ってくれたリヒャルトに、感謝しなければならないくらいだ。
「それに、これを機会にスーツを買うのだって、悪くないでしょ。アレス、スーツ一着も持っていないんだもの」
今までの環境では、スーツを着る機会は巡ってこなかったから、アレスはスーツを持っていない上、そもそも身に纏った経験もない。もしかしたら、これから必要に迫られて着る機会があるかもしれないのだから、一着くらい買っておいても損はない。
「……物は言いようだな」
アレスはやや不機嫌そうに眉間に皺を刻んだものの、それ以上の反論はしてこなかった。だから、今のうちにと、スーツ専門店へとアレスを引っ張っていく。
「いらっしゃいませ」
店の中へと足を踏み入れれば、スーツに身を包んだ男性が丁寧に出迎えてくれた。レナータは笑顔で応じると、アレスの手を引いたまま、さっさと男性向けのスーツ売り場に足を運ぶ。
「アレス、今までスーツ着たことないからね……。やっぱり、スタンダードなのをまず試着してみようか」
遊び心を出した、洒落たスーツもたくさん見かけたが、こういう時は最初に王道を選んでおくべきだろう。試着してみた結果、もしアレスに似合わなければ、別のデザインのものを試せばいい。
シンプルな黒いスーツ一式に、白いワイシャツを手に取り、アレスへと振り向くと、翡翠の眼差しと琥珀の眼差しが絡み合う。
「どうかした?」
「いや……正直、どういうのを選べばいいのか見当もつかなかったから、レナータがいてくれて、助かったなって思っただけだ」
「昨日とは、立場が真逆だね」
昨日のカクテルの一件を思い出し、微かに苦い笑みを零しながら、アレスにスーツとワイシャツを差し出す。
「でもまあ、スーツはカクテルほど選択肢があるわけじゃないから、とりあえず自分に似合いそうなものを選んでおけば、間違いはないよ」
遊び心を感じられるデザインのものもあるとはいえ、スーツがフォーマルな服装であることには変わらないためか、さすがに場違いなデザインのものは置かれていない。この店の商品の中から選べば、まず間違いはないだろう。
レナータからスーツとワイシャツを受け取ったアレスは一つ頷き、足早に試着室へと入っていった。
(アレスのスーツ姿って、どんな感じなんだろう……)
試着室のカーテンが閉まり、大人しく待っている間、ふとそんなことを考える。
アレスがスーツを身に着けた経験がないということは、すなわちレナータがその姿を目にした機会もなかったことを意味する。
だから、純粋に好奇心が疼き、そわそわと落ち着かない気持ちでアレスを待っていたら、やがて試着室のカーテンが開かれた。
「レナータ。ネクタイの締め方、ネットで調べながらやってみたんだが、おかしいところはないか……って、レナータ?」
カーテンが開かれた先で姿を現したのは、当然のことながら、黒いスーツと白いワイシャツを身に纏ったアレスだ。ネットで調べ、即席で締めたとは思えないほど、アレスの不安とは裏腹に、ネクタイの形は綺麗に整えられている。やはり、アレスは手先が器用だ。
だが、今はそんなことはどうでもいい。アレスのスーツ姿に目が釘付けになったまま、レナータは数歩よろよろと後退し、両手で口元を覆い隠した。
「……い」
「あ?」
「……いい! すっごく、いい! アレス、格好いい!」
レナータは歓喜の声を上げつつ、ついその場に蹲ってしまった。
アレスはパーカーを好み、いつも似たり寄ったりな格好をしている。もちろん、パーカー以外の服も持っているが、やはりカジュアル路線のものばかりだ。
だからなのだろうか。アレスのスーツ姿は、普段の印象とは大きく異なり、ストイックな色気が醸し出されている。
(これが、ギャップ萌え……?)
分からない。今は、何も分からない。ただひたすらに、鼓動が高鳴っていることしか分からない。
口元を覆っていた両手を外し、高鳴る胸をそっと押さえる。
「何やっているんだ……」
そうやってしゃがみ込んでいたら、呆れを多分に含んだ低く美しい声が、頭上に降り注いだ。
一度深呼吸をしてから、おずおずと視線だけを上げれば、案の定、呆れ顔のアレスがレナータを見下ろしていた。
「店の中で大声出してんじゃねえよ、他の客に迷惑だろ」
「……そうだね。うん、ごめんなさい」
「で、変じゃねえか」
アレスのスーツ姿に悶え殺されそうになっていたあまり、レナータらしからぬ非常識な行動を取ってしまっていた。
胸を両手で押さえたまま、のろのろと立ち上がると、アレスがネクタイの裾を摘まみ、ぴらぴらと振った。
「うん。初めてとは思えないくらい、しっかりネクタイ結べているよ。アレス、本当に器用だね」
もしネクタイの結び方が不格好になってしまっていたとしても、レナータの手先が器用だったならば、恋人らしく直してあげられたのだが、現実はそうはいかない。仮にそういう事態になってしまっていたとしたら、手先があまり器用ではないレナータには、手の施しようがない。手直しを入れようものなら、かえって事態は悪化の一途を辿っていたに違いない。
だから、アレスの手先が器用で本当によかったと、心の底からそう思っていたら、アレスはスーツに視線を落とした。
「レナータのさっきの反応を見る限り、この格好に変なところはねえようだから……これにするか」
「え、もうそれに決めちゃうの?」
「俺、別にそこまでこだわりねえし。あ、でも他のスーツと値段を比べてから、決めるか」
そう告げるなり、アレスはさっとカーテンを引き、着替え始めてしまった。そこで、はっとあることに気づく。
「アレス、待って! まだ着替えないで!」
「あ?どうした」
「さっきのスーツ姿、写真撮らせて!」
そして、あわよくばレナータの携帯端末の待ち受け画面に設定したい。
しかし、次にカーテンが開かれた時には、アレスは既に白いカットソーの上に黒いパーカーを羽織り、黒いスラックスを穿いているという、スーツを試着する前の格好に戻ってしまっていた。その上、渋面を作っている。
「……レナータ、あれはまだこの店の商品だ。買ってもねえのに、写真撮るなんざ、非常識だろ」
「うっ……」
今日のアレスは、やたらと正論で論破してくる。それだけ、レナータが常識のある言動を取れていない証でもあるため、何だか徐々に興奮している自分が情けなくなってきた。
先程、咄嗟にショルダーバッグから取り出した携帯端末を握り締めて俯くと、アレスが溜息を零す音が耳朶を打つ。
「だから、写真撮るなら、買ってからな。そうしたら、好きなだけ撮らせてやるから」
その言葉に勢いよく顔を上げ、思わずまじまじと見つめていたら、アレスにもう一度溜息を吐かれてしまった。
「ったく……俺がスーツを着たところで、何がいいんだか……」
「……いいよ、無理に理解してくれなくて」
むっと唇を尖らせるレナータを意に介さず、アレスはスーツ売り場にまた足を向け、先刻試着したばかりのスーツと他のスーツの値札を確かめ、価格の比較を始めた。
念入りに値段を比べているアレスの様子を見守っていると、琥珀の眼差しがレナータへと向けられた。
「やっぱり、このスーツにする。特別高いわけでもねえことが分かったし、あんまり安過ぎてもすぐにくたびれそうだからな」
吟味した結果、どうやら先程試着したスーツを購入することに決めたらしい。
(アレスの買い物って、早いな……)
でも、それはレナータにも言えることなのかもしれない。
長年のスラム街での生活が影響しているのか、アレスもレナータも、長々と買い物に時間を割くことは滅多にない。そもそも、外での所用にはなるべく時間をかけないように、手早く済ませる癖がついてしまったのだ。
「あとは、靴を買えばいいんだな」
「あ、うん。そうだね。あっちで試し履きしてみよっか」
そんなことを考えていたら、アレスはさっさと次の行動を決めてしまっていたから、慌ててついていく。
スーツに合わせた革靴選びは、スーツを選んでいた時よりもさらに早く終わり、あとは会計してもらうばかりになった。
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