第十話 樹官長としての覚悟

 アムルの思いがけない言葉に、イサールが息を飲む。


「なっ、何言ってるのよ。怖いことなんてあるものですか。

 ただ、苦行が嫌だっただけよぉ~。髪と肌のお手入れが出来ないんですもの。

 私は、何ものにも縛られない自由を愛しているだけぇ〜」


 イサールは、笑って答えた。

 それでも、アムルの視線は、揺るがない。


「嘘。だったら、ここに戻って来ない。

 本当は、ウィンガムの街が大好きだから、気になって戻って来たんでしょう?

 怖くて逃げ出しちゃったこと、ずっと後悔してる。だから……」


 アムルの言葉に、イサールの顔色がみるみる変わっていく。

 貼りついていた笑顔は失われ、翡翠色の瞳に怒りの感情が露わになった。


「……あんたにっ、あんたなんかに何が分かるって言うのよ?!

 勝手な憶測でものを言わないでちょうだい!」


 ユースティスが、背後からアムルの袖を引いた。振り返るアムルに向かって、ふるふると首を横に振って見せる。


「だって、本当のことだもんっ!」


 アムルは、イサールを振り仰いで言った。

 イサールの表情に、嫌悪感が浮かぶ。


「自分は、世界のために犠牲になるから偉いとでも思っているの?

 ……私はね、自分の命を大事にしないやつが一番嫌いなのよっ」


 次の瞬間、後ろで話を聞いていたシンが、イサールの肩を掴んで振り向かせると、思い切り、イサールの頬を殴り飛ばした。

 地にお尻をつけて、自分を見上げるイサールに向かい、低い声で言い放つ。 


「……言いすぎだ。

 お前こそ、彼女の覚悟ことを何も分かっていないだろう」


 イサールの翡翠色の瞳が、動揺で揺れている。殴られた頬の痛みよりも、胸の方が痛かった。


「…………ここには、何もいなさそうだな。もう少し上へ登ってみよう」


 ぐるりと辺りを見回し、シンが言う。

 皆、無言でそれに従った。


 一行は、黙々と風樹を登り続けた。

 しかし、登っても登っても、聖獣どころか、黒い影らしきものも見えない。


 いつも好き勝手に飛び回っているマルメロは、不穏な空気を察しているのか、アムルの傍から離れようとしなかった。

 アムルの表情からも、笑顔が消えている。先のイサールとの一件が尾を引いているのか、それとも単に疲れが出ているのかもしれない。

 それだけ足元の傾斜は、登り始めた時よりも急勾配になっていた。


 次第に、ユースティスは、どんどん皆から離されていった。

 しばらく経って、ユースティスの姿が見えないことに気付いたシンが言う。


「俺が様子を見てくる。少し、ここで休憩していてくれ」


 イサールとアムルが何か言い返す前に、シンは、颯爽と今登って来た道を駆け降りて行った。

 アッと言う間に、二人の視界から、シンの後ろ姿が見えなくなる。

 取り残された二人は、互いに視線を合わせないよう、少し離れた場所に腰を下ろした。


 アムルは、視線を風樹の外へと向けた。眼下には、夕陽に照らされるウィンガムの街が小さく見える。それを見ていると、何故かアムルの胸が、きゅーっと締め付けられた。


 気まずい空気に耐えきれなくなったイサールが、ため息をつく。


「……さっきは、ごめんなさいね。

 ついカッとなっちゃって……大人げないわねぇ」


 アムルは、驚いてイサールの方へと視線を向けた。イサールが困ったように笑っている。


「でも、さっき言ったことは本当よ。

 私は、自分のことを大事にできないやつが大嫌いなの。

 、ね。

 ……ま、私は、自分が一番可愛いから、逃げ出したんだけど」


「でも、戻ってきたよ」


 間を空けず、アムルが答えた。

 イサールの表情から笑みが消える。伏せた長い睫毛が、頬に影をつくる。


「……戻って来なきゃ良かったかしら」


「どうして?」


「だって、私みたいないい加減なやつに、樹官長が務まるとは思えないもの」


 イサールは、自嘲するかのように笑った。

 その様子を見て、アムルの中で、何かがストンと落ちていく気がした。


「イサールは、ワトル樹官長のこと、大好きだったんだね」


 気が付けば、アムルは、そう口にしていた。

 その言葉に、イサールが目を丸くして顔を上げた。アムルを見つめ、その表情が真剣なことに気付くと、ふっと目を細めて笑みを漏らす。


「やだ……そんな風に言われるとは思わなかったわ。

 んー……どうかしらねぇ。まぁ、嫌いではなかったわよ。

 私がワトルに会った時には、もう身体のほとんどが木化しちゃってて、ベッドから立ち上がることすら出来なかった。

 枯れ木のようになった姿を見て、ああ自分もいつかこうなるんだなー……って考えていたら……そう、あんたの言ったとおりよ。私、怖くなったのね。だから、逃げ出した」


 イサールの視線が、宙を見上げた。そこにあるのは、風樹の木陰から見える茜色の空と、薄く引き伸ばされて千切れた雲ばかり。それでも、イサールの目には、アムルの見えない何かが映っているようだった。


「だって、考えてもみてよ。風樹と一生添い遂げるなんて、まるで風樹と結婚するようなものでしょう?

 私には、まだその覚悟が足りない……」


 イサールの翡翠色の瞳に、思い詰めたような色が浮かぶ。


 アムルも、〝結婚〟という言葉が何を意味するかは知っている。だが、モリス樹官長のことを思い出しても、イサールが思い詰めるほどのものがあるようには思えない。神樹と聖樹では、樹官長としての心得も違うのかもしれなかった。


「……でもね。言い訳すると、私が逃げようと思ったキッカケは、シンなのよ」


 イサールが、にやり、と笑う。


「えっ?! どうして??」


 アムルが驚いて声を上げた。


「シンはね、ある日突然、ウィンガムの街にやって来たの。

 それまで私の中にあった、色んな違和感にシンは答えをくれた。

 例えば……なぜ私が樹官長にならなければいけないのか、とかね。

 それまで当たり前だと思っていた世界が全てひっくり返った気がしたわ。

 そうか、私は、私の意志で道を選んでいいんだって思えた」


 イサールは、そこで一呼吸を置くと、少しだけ声のトーンを落として続けた。


「……そして、シンは突然消えた。出逢った時と同じように。

 それで、私は、シンが自分の道を選んだんだって、思ったの。

 だから……」


 イサールは、そこまで言いかけて、ふっと笑みを漏らした。あとは知っているでしょ、と肩をすくめて見せる。


「あんたは、どうして<クラヴィス>なんかやってるのよ?

 無理やり……じゃ、ないわよね。それなら、とっくに逃げ出しているでしょう。

 それに、<クラヴィス>は、自ら望んでならなければ意味がないって、ワトルが言っていたわ」


 その時のワトルを思い出しているのか、イサールは、少し寂しそうに言った。

 アムルは、膝を抱えて俯く。


「あたしね、魔法が使えないの。ゆーくんみたいに、賢くもないし、いつもみんなに迷惑かけてばかりで……だから」


「恩返しがしたい、なんて言ったら、怒るわよ。

 そんなものは、恩返しでも何でもないわ。

 あなたは、たくさんの人から愛情をもらってそこまで育ったんでしょう。

 ……ふふ、あなたを見ていれば分かるわ。

 でもね、あなたに愛情をくれた人たちは、あなたにそんなことをして欲しいと望んで愛情を注いでいたわけじゃあない。そんなことをされたって、残された人たちはどうなるの?」


 アムルは、黙ってイサールの言葉を聞いている。頭の中に、<エルムの里>のみんなが自分に向けてくれていた優しい笑顔が浮かぶ。アムルは、みんなのことが大好きだ。それは、みんながアムルを愛してくれていたから……だからこそ、アムルは〝愛〟が何かを知っている。


「みんなのことを、世界のことを大事に思うのはいい。

 でもね……あんたも、その大事な世界の一員だってこと、忘れちゃダメよ」


 アムルの蜂蜜色の瞳が、揺らめく。


「あたしも……世界の一員……?」


「そうよ。

 ……まぁ、風樹なんて知ったこっちゃいないって、自分を優先した私が言うんだから、説得力あるでしょ?」


 そう言って、イサールは、アムルに向かって片目をつぶって見せた。


「それに、あんたがいなくなったら、ユウくんだって、悲しむでしょう。

 あの子、あんたの背中に隠れてたけど、怒ってる私に向かって、ずっと飛ばしてたわよ」


 イサールが、おかしそうに笑い声をあげる。


 そんなイサールを、アムルは、きょとんとした表情で見つめていた。いつもユースティスの考えていることは、自分のことのように伝わってくる。だが、これまでユースティスから〝殺意〟なんてものを感じたことは一度もない。


 不思議そうに首を傾げるアムルの視界が、ふと暗くなった。 

 何だろう、と視線を上げた先に、真っ黒な影の中からこちらを見下ろす、金色の二つの目玉があった。真ん中に、黒く大きな湾曲した嘴がある。


 鷹だ。


 いや、鷹にしては、ものすごく大きい。人の背丈ほどはある。

 風樹の枝に、一羽の黒い鷹が留まっているのだ。

 それも、全身から禍々しい気配を発している。


 驚いて、口をぱくぱく開け閉めするアムルを不信に思い、イサールが頭上を振り仰いだ。

 その時、黒い鷹は、両翼を広げて、羽ばたかせているところだった。そこから巨大な竜巻が二つ現れ、驚いて動けないでいる二人に向かって襲い掛かる。


 イサールは、咄嗟に竜巻から身をかわそうと腰を浮かせた。

 しかし、驚いたアムルが、け反った拍子にバランスを崩し、風樹の外側へと放り出されてしまう。

 視界から消えゆくピンク色の髪に向かって、イサールは反射的に手を伸ばした。


「……~~~っ?!」 


 声にならない悲鳴が、アムルの口から発せられた。

 宙に投げ出される浮遊感が、アムルに耐えがたい恐怖を与える。

 このまま自分は、落ちて死んでしまうのだろうか――――そう考えて、戦慄せんりつした。

 絶望で、視界が真っ白になる寸前、アムルは、イサールの必死な形相ぎょうそうを垣間見た気がした。



  §  §  §



 その頃、ユースティスの様子を見に行ったシンは、ほとほと困り果てていた。

 地面に座り込んでいたユースティスを見つけたところまでは良かった。

 だが、シンが背負って行こうとするのに、ユースティスは、頑として首を横に振って聞かない。どう優しく言い聞かせても、シンの背中に乗ろうとしないのだ。


「一体、何が不満なんだ?

 男の俺に担がれるのが嫌なのか?」


 シンの質問に、ユースティスが首を横に振る。

 アムルがいないので、ユースティスの言葉が分からない。

 とりあえず、ユースティスの体力が回復するのを待つしかないか、とシンが思い始めていたところに、上の方から、猛禽類の鳴き声のような音が聞こえてきた。


「なんだ……?」


 はっと振り仰いで頭上を見るものの、風樹の枝葉が邪魔をして、視界に鳥の姿は見えない。

 ところが突然、それまで地面に座り込んでいたユースティスが、何かに気付き、さっと立ち上がった。シンが声を掛けるよりも早く、慌てた様子で上へと駆けてゆく。


「……お、おいっ。もう走れるのか?」


 何が何だか分からないまま、シンも、ユースティスの後を追った。

 すると、視界の片隅に、ピンク色の何かが落ちてゆくのが見えた。

 鳥……ではない、人だ。


 それを見たユースティスが、落ちてゆく何かに向かって手を伸ばし、跳びかけた。


「危ないっ!」


 咄嗟に、シンが追いついて、落ちそうになっていたユースティスの両腕を羽交い絞めにして捕まえた。ここから落ちたら、生きてはいられない。……普通の人間なら。


 しかし、ユースティスは、シンの腕の中で暴れてのがれようとする。

 そんなユースティスの想いを直に感じ取ったシンは、安心させるように言い聞かせる。


「大丈夫だ。イサールがついていれば、アムルは大丈夫。

 だから、落ち着け」


 シンの視界には、ピンク色の何かを追うように、翡翠色の何か、も見えていた。

 何があったのかは分からない。けれど、落ちていくアムルをイサールが追っていた。それだけで、シンには、アムルは大丈夫だと確信することができた。

 そんなシンの気持ちが伝わったのか、ユースティスは、暴れるのを止めた。

 ただ震えて、声もなく泣いているのが、シンの掴んだ腕を通して伝わってきた。

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