第十三話 風が止んだ理由
「まさか……本当に会えるなんて……」
イサールが、震える声でつぶやいた。かつてワトルから、風樹の守護聖獣は、鷲の姿をした見上げるほどの巨人だと聞いたことがあった。
でも、話に聞くのと実際に目の当たりにするのでは全く違う。そもそも守護聖獣は、滅多に人前に姿を現さない。自分の目で見るまでは信じられなかったし、想像すらつかなかった。まるで想像上の生き物のような存在が、今自分の目の前にあることに、イサールは、得も言われぬ高揚感を抱いていた。
アムルが一歩前へ出る。
その時、イサールの頭に、シンの言葉がはっと浮かんだ。
『お前なぁ……守護聖獣が何のためにいると思っているんだ?
聖樹を外敵から守っているんだぞ。それなのに、禍々しい気配を放つ何かがいた……ということは、だ。外敵を追い払えないくらい守護聖獣が弱っているか、もしくは、守護聖獣本人か……の二択しかないんだよ』
『それって……守護聖獣が〝闇落ち〟しちゃったかもしれないってこと?
確かに、野生の獣が〝魔獣〟になるって話は、聞いたことがあるけど……守護聖獣もだなんて……そんなことって、あるのかしらぁ』
『……さあな。そうでないことを祈るよ』
もし、シンの予想したように守護聖獣が闇落ちしていたら……自分では太刀打ちできない、とイサールは、己の死を予感してぞっとした。
何せ相手は、遥か昔から風樹を外敵から守ってきた聖獣なのだ。人間の手でどうにか出来る相手ではない。
せめてアムルだけは逃がそうと思うものの、恐怖で足が地に貼りついたように動かない。それだけ目の前にある聖獣の存在は、イサールにとって圧倒的で、見る者を畏怖させる威圧感と神々しさを放っていた。今すぐにでも、地に膝をつきたくなる気持ちをぐっと堪えるだけで精一杯だ。
しかし、アムルは、そんなイサールの胸中など知る由もなく、飄々とした声で聖獣に向かって話し掛ける。
「あなたが守護聖獣なの?
それなら、ウィンガムの風を元にもどして」
イサールは、口をあんぐりと開けたまま、声が出ない。
伝説に近い守護聖獣に向かって、気安い口をきけるのは、アムルくらいなものだろう。無知とは恐ろしい……怒らせてしまったらどうするのか、とイサールは目を白黒させた。
ところが、イサールの心配に反して、闇の中から静かで穏やかな声が返ってくる。
『それはできない』
「どうして?」
アムルが質問を続ける。
この娘は、思ったことをすぐ口に出さねば気がすまない性質なのだろうか、とイサールは、ハラハラしながら眉をひそめた。
「あなた、風樹を守っているんでしょう?
ウィンガムは、風がなくなって大変なの。パイが食べられないのよ」
アムルは、自分の腰に手をやり、怒った口調で言った。
さすがのイサールも、これには口を出さずにはいられない。
「ちょっとあんた! 守護聖獣に何て口の聞き方を……!」
『……パイ、とは何だ』
今度こそ殺されると思ったイサールは、守護聖獣の落ち着いた声に、ひとまず言葉を飲み込んだ。そこに僅かな希望を見た気がしたからだ。守護聖獣は、闇落ちしておらず、正気を保っているのではないか、と。
ここは一歩引いて、アムルに任せて成り行きを見守ることにする。
「パイを知らないの? こう丸くて、てらてら光ってて、中に木の実や甘い果実が入っているのよ。一口食べれば、さくっと香ばしい匂いに、甘い味が口中に広がって、すーーっごく美味しいんだから!」
アムルは、パイの味を思い出して恍惚とした表情を浮かべた。
『……ほぅ。それは、我も一度、口にしてみたいものだ』
イサールは、つい目の前にいる守護聖獣がパイを食べる姿を想像して顔をひきつらせた。どうやら想像していたよりもずっと気さくな性格らしい。
「じゃあ、風を吹かせてよ。そうしたら、パイが作れるんだって、シンが教えてくれたわ」
アムルの言葉に、守護聖獣が推し黙る。
やはり怒らせてしまったのだろうか、とイサールが焦り始めた頃、守護聖獣がつぶやいた。
『ヴェズルフェルニル……』
「……むむ。それは、なんの呪文?」
『呪文ではない。古の言葉で、〝風を打ち消す者〟という意味だ。
黒い鷹のような姿を
ふーっと、聖獣が嘴から熱い鼻息を吐く。その風を顔に受けながらイサールは、自分たちがこの樹洞へ来ることとなった元凶を思った。
「黒い鷹って……まさか、上で私たちが会ったやつのこと?!
そいつの所為で、ウィンガムの風が止まっているのね?」
当初の目的であった、風が止んだ理由を知ることができかもしれないという想いが、イサールを前のめりにさせていた。
だが、アムルはきょとんとした顔で首を傾げている。どうやら風樹から落ちる途中で気を失った所為か、直前にあった記憶が曖昧なようだ。
『貴様は、継承者だな』
突然、聖獣の注意が自分に向けられたことを知り、イサールは、ひっと声にならない叫び声を喉の奥であげた。
どうして自分が継承者であることを知っているのか、イサールが不思議に思っていると、言葉にしてもいないのに、守護聖獣がそれに答える。
『……ふんっ、そんなものは貴様の中に眠る種の匂いからわかる。腹立たしいことに、それは、まだ貴様を見捨ててはおらんようだな。
……なんのことか、分かっておるであろう。風樹の種のことよ』
「タネ? なんのこと?」
アムルが首を傾げる。
イサールは、真っ青な顔で自分の胸元を抑えたまま答えられない。
代わりに守護聖獣が答える。
『次の樹官長となる者は、自らの身に風樹の種を取り込む。そして、風樹に認められた時、体内に取り込んだ種が芽吹くのだ。だから樹官長になった者は、身体の一部にその証が現れる。確か人間たちは、それを〝木化〟と呼んでいたか……』
アムルは、モリスの長い髭の先が枝のように木化していたのを頭に思い浮かべた。モリスも、ハルニレの樹の種を身体に取り込んで、あのような身体になったのだろうか。
エルムの里では、ある時期になるとリスたちがハルニレの種を食べる姿がよく見られる。アムルは、モリスがリスのようにハルニレの種を食べている姿を想像して、思わずぷっと吹き出した。
そんなアムルの考えを読んだかのように、守護聖獣が補足する。
『取り込むというのは、食べるという意味ではない。それに聖樹は、他の樹と違う。
種は、一世代に一つだけ。それも先の樹官長自身から継承される』
「ふーん……先の樹官長って……ワトル樹官長のこと?」
『そうだ。先代の
故に我も……風樹から力を得ることが出来ず、あのような
守護聖獣は、憎々し気に言う。どうやら、黒い鷹の存在は、守護聖獣にとっても疎ましい存在のようだ。
「そのせいで、風が止まっちゃったの?」
アムルの悪意のない言葉に、それまで穏やかであった守護聖獣の赤い目が、はじめて怒りの色を浮かべた。その視線がイサールへと向けられる。
『元はと言えば、次の樹官長となる貴様の役目なのだ。
風樹への祈りを集めるため、人心を掌握し、人と風樹の繋がりを守護することこそが樹官長に課せられた真の役目。それを貴様は、放棄した……っ!
イサールが息を飲む。
樹官長としての真の役目。それは、本来イサールがワトルから引き継ぎ、決して絶やしてはならないものだったのだ。
イサールは、かつてワトルが言っていた言葉を思い出す。
――風樹への祈りを絶やしてはいけない。樹官長とは、人と風樹の架け橋にならねばならぬのだ。よいか、常に感謝の気持ちを忘れるな。
口癖のようにワトルは、そうイサールに繰り返し伝えていた。
だが、それがまさか、ウィンガムから風を奪うことになるとは知らなかったのだ。
今更ながらに己の犯した罪の重さを知り、イサールは、後頭部を強く殴られたような衝撃を受けた。忘れかけていた肩の痛みが、ここにきて急に自己主張を始める。
眩暈がした。もうこれ以上耐えられそうにない。
『愚かな人間どもよ……自らの首を絞めていることに気が付かぬとは……』
守護聖獣は、空を見つめながら言った。
それは、信仰を失った全ての人間たちに向けた言葉であったのかもしれない。
だが、イサールは、その言葉が自分に向けて言われているのだと思った。
「えー……よくわかんないけど、みんなでお祈りすれば、風は戻るってこと?
それなら簡単だね♪」
アムルの頭の中には、エルムの里で皆と神樹に向かって祈りを捧げていた光景が浮かんでいる。ドラゴンの炎に焼かれたエルムの里は、皆の祈りによって蘇った。それと同じことをすれば良いのだ。
だが、イサールは、同じように思わなかったようだ。
「……はは……やっぱり、私には、できそうにないわ……」
イサールが、渇いた声で笑った。
アムルは、イサールを振り返って言う。
「できるよ! これから街に戻って、みんなにお願いしてみよう。風樹が力を取り戻すには、みんなの祈りが必要なんだって。だから一緒に祈ってって言えば、きっとみんな分かって」
「だからそれが出来ないって言ってるのよっ!!」
アムルの必死の説得を、イサールの荒げた声が遮った。
真っ青な顔で、自分のしてしまったことを今初めて悔いるように、歯を喰いしばる。
「…………二年よ。私が街を離れてから、二年…………その所為で、みんなから風を奪うことになってしまったというのに…………人心を掌握? そんなこと、出来るわけないじゃない!
今更どの
全てを諦めたように力なく俯くイサールに、アムルは、真正面から見上げる。
「あたしは、イサールのこと大好きだよ。まだ会ったばかりだけど、イサールと一緒にいれば、みんなも分かるよ。イサールのこと、きっと大好きになる」
「……私は、あんたにひどいことを言ったわ」
「でも、あたしのこと助けてくれたっ」
「そりゃ、誰だってあの場面に出くわしたら助けるわよ……べつに私じゃなくたって……」
アムルがぶるぶると大きく首を横に振る。
「あたしには、できないもん! あんな高い所から飛び降りることも、洞の中に飛び込むことも……だからあたしは助かった、そうでしょう?
だからイサールは、すごいんだよ!!」
アムルの蜂蜜色の大きな瞳が、きらきらと輝き、真っすぐイサールを信じて見つめている。
しかし、イサールは、その眼差しから目を逸らし、力なく首を振る。
「はっ、なによそれ……あんた基準に言われてもねぇ……。
私はねぇ、あんたが思ってるよりも、ずっとちっぽけで何の力もない、卑怯で臆病な、汚い大人なのよ」
イサールが吐き捨てるように言った。
自分のことしか見えていなかった。ウィンガムの街のみんながどうなるかなんて、考えもしていなかったのだ。知らなかった、知らされていなかった、というだけでは許されない。
そして、そんな自分の身勝手さと弱さを知りながらも、その事実から目を逸らし続けてきた。そんな自分をイサールは今更ながらに悔やみ、許すことが出来ない。いや、許してはいけないのだ、と思った。
自分の言葉が伝わらないと知ると、アムルは、ぷーっと頬を不満げに膨らませた。
そして今度は、くるりと反対を向き、守護聖獣に向かって叫ぶ。
「ねぇ、守護聖獣さん。みんなが祈ってくれたら、風樹に力が戻って、ウィンガムに風が戻るのよね?」
『ただ形だけの祈りでは意味がない。自然への感謝と、信じる心が必要なのだ。
それに……〝
「じゃあ、そのことをあたしが戻って、みんなに伝えるわ。それで、お願いしてみる。いっぱいいっぱい自然に感謝して、風樹を信じてって。
それで風樹に力が戻れば、あなたがその黒い鷹をやっつけて。
だってあなた、すっごく強いんでしょ?」
『……本来の力を取り戻せれば、な。
だが、一度離れた人の心というものは、そう易々と取り戻せるものではないぞ……』
「そんなの、やってみないとわからないじゃない!」
暗い樹洞の中に、アムルの明るく快活とした声が響く。
「あたし、やるっ! あたしがウィンガムに、風を取り戻して見せる!」
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