第35話 再び老人
式町家で着慣れた服を着て、つむぎは術師会合の屋敷を後にした。
すでに日が沈みかけていて、町は橙色に染まっている。
つむぎは、とぼとぼと足取りが重く歩いていた。式町家に戻ったところで元の生活に戻るだけだが、それでもつむぎが行く宛なんて、そこしかなかった。
ーーあまねさん、瀬戸さん。さようならを言いたかったです。
道中、つむぎはポツリとそう思った。優しくしてくれたあまねや瀬戸、屋敷の人たちにせめて一言別れを言いたかった。
俯いているとそんな事ばかり考えてしまう。
けれどくよくよしてもしょうがないとつむぎは前を向いた。
いつもは人通りの多い道だが、さすがに夕暮れ時になると、人はまばらであった。その中で仲睦まじく歩いている恋人同士の姿を見かけた。
ーーリヒト様……。
きっとリヒトは今頃きよと運命の再会を果たしている頃だろう。
もし今まで愛情を注いでいたのが運命の相手ではないと分かったら、リヒトはどう思うだろうか。
騙していた相手なんて信用ならないと思うだろうか。そうしたらリヒトと二度と会う事なんて出来なくなるのではないか。
そう考えると自然と涙が溢れて来た。
ーーずっと貴方のそばにいたかったです。
寄り添う恋人同士を羨ましく思う。そしてきよとリヒトがあんな風に寄り添い愛し合う姿を想像すると、心がざわつく。
考えたく無い。
想像したく無い。
引き裂かれるような思いでつむぎはその場にうずくまってしまった。
『おや。お嬢さん』
その時、聞き覚えのある穏やかな声で話しかけられた。涙を擦り、ゆっくりと顔を上げると、そこには不思議なおじいさんの姿があった。
「貴方は」
彼は、つむぎが金城家に嫁いだ日に出会ったお爺さんだった。
いつのまにか現れて、煙のようにいなくなった不思議なおじいさん。あの時と変わらない穏やかな笑顔で、おじいさんはつむぎに微笑みかけたのだった。
『久しぶりじゃの。金城家はどうかな』
「あ」
楽しそうにそう問いかけられ、つむぎは一瞬戸惑った。見ず知らずのおじいさんだが、金城家との結婚を喜んでくれたというのに、それが身代わりだと知ったら失望させるだろう。
本当のことを言うべきなのだろうが、何となく言い出しにくかった。
「すみません。私はおじいさんの思うような方ではないんです」
『おやおや?』
おじいさんは首を傾げた。
けれどこんなところで嘘をついても仕方ない。
つむぎは正直におじいさんに話した。
「私はかりそめなんです」
『かりそめ?』
「おじいさんには親切にしていただいたのに申し訳ありませんでした。でもこのかりそめももう終わりましたから」
自分で言っていて、心が苦しくなる。しかしおじいさんはどうも納得していないようで眉間に皺を寄せて首を捻っていた。
『ふむ。お嬢さんはリヒトからの愛情は感じなかったのかな?』
「あれは私が受けて良い愛情じゃありません。別の方に向けられるべきものなんです」
かりそめなのにリヒトの溢れんばかりの愛情を受けていた。本当ならば拒否しなければならないはずなのに、あまりにも心地よくて受け取り続けてしまった。
「私は……私は狡い人間なんです」
それが今になって離れがたくて苦しいなんて、自業自得だ。
寂しそうなつむぎの表情を見たおじいさんは優しく声掛けした。
『お嬢さん。わしだって伊達に年とっとらん。リヒトとお嬢さんは間違いなくお似合いじゃ。お嬢さんとリヒトが過ごしてきた時間は誰のものでも無い、二人だけの時間じゃろ?』
「リヒト様と過ごした時間」
それは確かにリヒトとつむぎだけの時間だ。リヒトが勘違いしていたとしても。
まだ暗いつむぎの表情を見て、おじいさんは再び首を捻った。
『ふむふむ。お嬢さんはあちらの方角が良いようじゃな。悩んでいるようならあちらに行ってみると良い』
それは式町家の方向だった。どうせそこしか行くところがないのだ。
つむぎは素直に頭を下げた。
「ありがとうございます」
そして頭を上げると、そこには誰もいなかった。
ーーまた、いないです。
本当に不思議な方である。
つむぎはゆっくりと式町家の方へと歩き始めたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます