第六章 その1
建物の大広間のあちこちに黒板に似た板が置かれていた。
そしてそれに向かって大勢のディーラーが屯していた。
「へえ、ここが取引所なんだ」
「『取引所』とはこの建物のことです。ここは『立会所』ですわ」
「競り市とは雰囲気が違うのです」
「そうですわね。競り市ですと売り手は一人ですからね」
レオナは壁際に張られた『板』の一つを指さした。
その『板』では『塩』の取引が行われていた。
売り手側の商人が木札に金額と購入希望数を記して場内の係員に渡す。
すると係員がそれを『板』の売り注文欄に掲げる。
売り注文欄には様々な金額と数量の木札が何枚も何枚も掲げられている。
それらは無秩序に並べられているわけはない。上下の高さが価格を表す。そして同じ金額の桁には早い者勝ちの順番で、注文札がズラリと横に並んでいた。
買い注文の欄にも、同じような札が、金額と数量、注文の順番で整理されている。
それらは『板』に次々と掲示され、時に移動され、あるいは取り除かれていった。
「競り市とは、売り手がつけた始め値を基準に、買い手側が買い値を競うことです。必然的に一方的に値上がりしやすくなります。しかしここでは売り手も複数人。売り手が他人に先んじて在庫を売りさばくには、買い手が現れる値段まで値を下げなくてはなりません。そして、買い手側も、競争相手に負けないよう早め早めに買い値を上げなければなりません。すると、その両者の真ん中辺りに値段が落ち着くのです」
しかし現在の『板』の上では買い注文、売り注文の双方がつけた値段に開きがあった。
これが一致しなければ取引は成立しない。
一致するには売り手側の誰かが抜け駆けてして値を下げるか、買い手側の誰かが抜け駆けてして値を上げるしかない。
「ちっ、誰か値下げしろよ」
「ケチケチしてないで、買い値を上げろよな」
売り手も買い手も互いに相手よ折れろと祈る。
そして双方共に、同じ側の人間に抜け駆けする者が表れないことを祈る。
我欲にまみれた利己心むき出しの欲望が異様な熱気で渦巻くのが立会所なのだ。
疑心暗鬼の待ち状態は続く。
ディラー達はこの状況を黙ってただひたすら見守っていた。
そんな中、係員が『板』の前へと進む。そして板の買い注文の札を一枚移動させた。
「おっ!」
値段が上がって売り注文と同じ高さに並ぶ。塩一梱が四ナットで十梱。約定が成立。
立会所にどよめきと舌打ちと、罵声が飛び交った。
しかしみんな、すぐに気を取り直して注文札を書き直し、立会人に差し替えを求めた。
変更した数値での取引はすぐに成立して取引価格がまた移動していく。するとさらに皆が札を書き換えるのだ。
取引が成立してまたまた取引価格が変化する。
「なるほど、これがひたすら繰り返されるんだね」
フォクシーが何かに納得したように頷くと、レオナもそれに同意したのだった。
フォクシーが尋ねる。
「で、何しにここに来たの?」
「ちょっと確かめたいことがあるのですわ」
「生ゴムのスモークシート。一梱一六ビスで十玉、買い注文いたします」
レオナは必要事項を書き込んだ注文札を係員に差し出す。すると係員はそれを受け取って立会人のところへと持っていった。
「生ゴムの相場は一五ビスではなかったですの?」
板の上では生ゴムの値段は、買い注文が一五、売り注文が一六ビス二ナットと間が開いて、約定が成立してない状況がしばらく続いていた。
「まあ、見ていてくださいまし」
生ゴム『板』の買い注文欄の一番上一六ビスにレオナの注文札が表示される。
すると突如として売りポジションのディーラーの一人が一六まで下げた。
レオナの買い注文はたちまち成立。約定を示す札が係員の手で運ばれてきた。
それ以降は生ゴムの価格は一六ビスが上下動の中心となってそれ以下にならなかった。
売り手はもう一六ビス以下の値での取引を損と思うようになるからだ。
すると今どうしても生ゴムが必要な者、あるいはこの勢いで値段が騰がったら明日にはもっと高い値になってしまうから今買わないと損だと考えた者が、さらに高い値段で買い注文を出していった。
たちまち取引が成立していく。
「頃合いですね」
レオナは係員を呼んで注文札を渡しながら何かを囁いた。
しかし『板』にはあちこちの商人の出した注文札が掲示されるので、この時のレオナの注文がどんなものかは当人と係員にしかわからない。
「一七ビス!」
立会人が約定金額を告げた。
こうして見ている間に一五ビスだった生ゴムの値段は二ビスも騰がったのである。
やがてレオナの元に係員がやってきて取引が成立したことを示す約定札を差し出した。
「一七ビスで買ったですの!?」
「違います。先ほど買った生ゴムを売ったのです」
ミミは驚いたように目を瞬かせた。
「なんで!? 折角買った物をどうしてすぐに売ったりするですの? ってかどうしてそんな値段で買う人がいるのです!?」
「生ゴムの値が今よりももっと上がると予測している者が多いからですわ」
レオナはそう言いながら受付へと赴き、二枚の約定札を差し出す。
「手仕舞いします。精算してください」
「はい。本日の買い約定が一六ビスで十玉。合計して一六〇ビス。そして売りの約定が一七ビスで十玉。合計して一七〇ビス。それぞれの取引手数料がそれぞれ二ナットずつですから――」
受付の娘はレオナに差引残高九ビスと六ナットを差し出した。
「えっ――これだけ!? たったこれだけで九ビス儲けたですの?」
ミミやカッフェは目を丸くしていた。
しかしフォクシーはひたすら何かを考え込んでいた。
自分が見聞きした事象、出来事を咀嚼してその味覚をよく吟味理解し、飲み下そうとしている。そんな顔つきであった。
そしてフォクシーは目をキラキラと輝かせ声も高らかに宣言した。
「あたしも挑戦してみる!」
§ §
ここまでのあらすじ――。
戦車に乗って戦うケモミミ傭兵少女のフォクシー・ボォルピス・ミクラは、お金を稼ぐためデイトレードに挑戦した。
そして『ぬ』と『ね』の区別がつかなそうな顔になった。
「どうして塩相場に有り金全部突っ込んだのですか? わたくしのことを見てましたよね? まんま真似るんなら生ゴム相場一択ではありませんか?」
レオナは詰った。
「だって、今なら塩は底値だから後は騰がるしかないって思ったんだもん」
「だから、どうして今が底値だって思えたのですか? 十二梱を一〇ビスで買うて貰ったことがあるなんて何の根拠にもなりません。知り合いのご店主が厚意でちょっと高い値で買うてくれただけでしょう? その目でしっかりと世間様をご覧なさいませ。世間様に流れている噂にその狐耳をよっく澄ませてご覧なさい。塩相場はまだまだ下がっていく兆候でいっぱいじゃないですか?」
「わ、わかんない」
「わからなかったら買ってはいけません! いいですか? 塩の値はまだまだ低いまま。下手するともっともっと下がるかもしれません」
「なんで?」
「そもそも、物の値段が上がったり下がったりする仕組みがお分かりですか?」
「需要と供給の関係?」
「わかってるじゃありませんか!?」
フォクシーの問いにレオナは説明を開始した。
「以前、バラクレル周辺では塩の値が異常とも言えるほど高騰しておりました。それを見たキャラバンの商人達が、バラクレルに塩を持ってくれば高く売れそうだと目論み、塩の産地でたくさんの塩を仕入れて運んでくる。この理屈はわかりますね?」
「わかる。あたしもやらかしたから」
「でも、実際に塩がバラクレルに運び込まれるまでには時間がかかります。今、バラクレルに来ているデイトン・キャラバンのような大規模な隊商ですと、この荒茫大陸のあっちこっちを長い時間をかけて巡り歩くので一周するにも半年はかかります」
「でも、中小規模の隊商なら数日から一ヶ月くらいで」
「その通りです。普通ならばまず中・小の隊商の手で少量の――市場全体の規模から見れば少量って意味ですよ――塩が運び込まれます。大抵はそこで塩の値段は騰げ止まるのです。それに遅れて大規模な隊商によって『大量』の塩が運び込まれてきて今度は値が下がりだすのです。そうして塩値の需給格差は解消され庶民の懐に痛くない程度に安くなっていくのです。これが自然の働きなのです。けれど、今回に限ってはそうはなりませんでした。そもそも塩が高騰していたのは、フレグ家のマ・ゼンダが暗躍していたからです」
「暗躍?」
「彼は塩を買い集めて、バラクレルに流通する塩の量を減らしたのです。そのせいで塩の値が騰がってしまいました。塩は人間が生きるために必須な物。多少高くつこうとも買わないわけには参りません。そのため小商いの店主達は塩の高騰に困った庶民の怒りを真っ向から浴びることになりました。どうしても塩が欲しいという欲求を強く抱えることになります」
「ふむふむ」
「そんな時に、マ・ゼンダは商店主達のところに赴き内緒話を持ちかけます。今ならば塩をお安く譲ることも出来ます、と。これは日頃お世話になってる貴方だけの特典です。ただし、我々は小商いはできないので取引の単位は百梱からになります。それでも良かったらいかが? という感じですね」
レオナはここで皆を見渡す。フォクシー達は興味を掻き立てられたように身を乗り出した。
「商人は考えます。今、安い値で塩を仕入れることができたら大きな儲けになるはずだと。お客からも毎日塩はまだか、何故入荷しないのかとせっつかれています。ですからついついその話に飛びついてしまったのです。しかしマ・ゼンダの阿漕なところは、この話をバラクレル中の商人にもちこんだことです」
「あれ、あなただけの特典――じゃなかったの?」
「そう。そこに嘘があったのです。たちまち市場には大量の塩が氾濫して相場は大暴落します。結局大儲けしたのはマ・ゼンダとフレグ家で、商人達は大損してしまったのです」
「う、うわー」
「今はその余波が続いています。大暴落の情報はそう簡単には広がりません。高値を当て込んで遠いところ塩を運んできた商人が大損しています。デイトン・キャラバンも、フォクシーさん、あなたもです。そして塩を運んでくるキャラバンはまだしばらくは止まりません。この噂が広まりきるまで毎日毎日、どこかのキャラバンが高値を当て込んでこのバラクレルに塩を運んでくるのです」
「あああああ――」
塩相場暴落の理由を理解したフォクシーは頭を抱えながら呻いた。
しかしひとしきり呻き終えるとレオナに生ゴムを買った理由を尋ねた。
「理由は二つあります。一つは生ゴムが軍需品だからです」
「……??」
小さく嘆息したレオナはこの場に同席しているカッフェとミミをちらりと見て、分かっていそうな顔つきをしている方を指さした。
「ミミさん。説明してあげてください」
「ゴムは戦車、トラックのタイヤ、燃料のパイプ、各種の部品に使うものなのです」
「正解ですね。生ゴムは最近急騰しています。つまりゴムの消費量が急激に増えているのです。きっとどこかの誰かがこれまで以上の勢いで戦車やトラックを大量に準備ししているのでしょう。ちなみにどこかの誰かの一角は我がミグルン家です」
「えっ!?」
「我が家は戦争に備えて保有戦車を増やし戦車傭兵をかき集めています。おかげで、生ゴムの需要は急騰しそれが相場に反映されているのです」
「あ、あああ……ああああああ、そう言う仕組みか!?」
カッフェが唇を尖らせミミが不満そうに頬を膨らませると、レオナは同意するように首肯した。
「そう、ズルです。けれどそれを禁じる規則はありません。だからこの取引は合法です」
「なんと言うか……」
「阿漕なのです……」
「今回注目すべきはそこではありません。実は、生ゴムは以前から不自然な値上がりをしていました。バラクレルでの生ゴムの需要は戦車やトラック、タイヤとかそんなもの。そして、それらの日産量はここ数ヶ月、数年間ずーっと同じです。もちろん生ゴムの供給量もずうっと安定していました。なのに値が上がる理由は何でしょう?」
「ナルホど。誰かガ買い占めヲシテイタ、と?」
「そう言えば、似たような形で値段が上がり下がりした品物があったことを思い出しませんか? それを考えたら裏で誰が暗躍しているのか見えてくる気がいたしませんか?」
レオナはそう言いながら塩の値段の上下を示したグラフに視線を向けた。
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