13ページ ビフォーアフターと地獄絵図
薄暗い部屋に響く、朝4時を知らせるスマホのアラーム。カーテンを開けると、昇ってきたばかりの朝日が群青の頬を照らした。床には10時間の掃除によって生まれたゴミ袋の山ができ、埃やら空き缶やらが透けて見えていた。
群青は上げた布団によりかかって周りを見渡す。あまりに広く感じられ、自分が5年かけて汚しに汚してきた部屋とは思えなかった。群青は口が半開きのまま軽く感動していた。
「ふぅ……こっちもあらかた片付きましたよ」油汚れを服に張り付けた蓮がキッチンから出てくる。リビングよりよほど大変だっただろうに、笑顔を崩さない彼女を見て少しだけ尊敬した。
「ホントありがとうございます……ひとりだったら一生掃除しなかったと思います……」群青は眠気にギリギリ勝っているうちにこれだけ伝えておこうと急いで口走った。
親指を立てる蓮を薄目に見ながらふらつき、柱によりかかる。体の力が抜け、寝不足による疲労と吐き気が一気に群青の体へ押し寄せた。
「うゥ、おえェッ……」胸に熱く酸っぱいものを感じて口を押さえる。
「あっ、大丈夫ですか」
蓮の細い手が伸びてくるが、群青は首を振ってそれを制した。
「寝させてください……しにそう」
群青は蓮からの反応も待たずにソファの上めがけてぶっ倒れた。横になってもしばらくは気分が良くならなかったが、眠気に押し流されているうちにやがて意識は飛んでいった。
「もう、いい事したんだか迷惑だったんだか分からないな……」蓮は失笑して頭を掻く。扉のきしむ音がして、そこからは天夢が顔を出した。
「ああ、天夢。そっちの作業も終わったか?」
「はい。モノを片付けるのはヒトよりも楽ですね」
「はは、お疲れ様」
連は壁沿いに座る。窓の外を見ているうちに沈黙が流れ、気付けば天夢が隣に座っていた。
「……天夢。大阪はどうだい」しばらくして群青の寝息が聞こえるようになると、蓮は視線を動かさずに小声で問いかけた。
「いい人ばかりですね。飴ちゃんくれます」
「そうか」蓮は吹き出した。「その調子で頑張ろう。今度の職場では人間関係ってもんを大事にしないとダメだからね」
「その話ばっかりですね。まあ、頑張りますよ」
*
群青は鼓膜を引きちぎろうと部屋の中を暴れるアラームで跳ね起きた。視界を覆う天井の木目はいつも通り不規則で、寝起きで空っぽの頭とは対照的な見てくれをしている。
起き上がって目をこすると、左右にカップ麺のゴミ山がないことに異様な違和感を覚えた。まるで馬小屋から宮殿に放り込まれたような気分だ。
時間は朝8時40分。始業時間ギリギリで鳴る最終アラームに引っかかったようだ。群青は死に物狂いで服を脱ごうとしたが、昨日からスーツのままであることに気付くと少しだけ襟を正してそのままの服装で玄関に走った。
「やべ、カーペットしまってねえ」
まあいいか、と群青はドアから出た。天夢と蓮の存在を思い出したのもその時だったが、初出勤でもある彼女らが早めにオフィスに行っているだけだろうと推量した。
1分もしないうちにオフィスのすぐ前まで辿り着いた。息は切らしていたが、挨拶はいつも通り声を張ろうと群青は力一杯扉を開けた。
「おはようござ――」
「し!!!ね!!!」
足を踏み入れた瞬間、胸に鉄球が衝突したような痛みが走った。足を踏ん張ろうという脊髄反射が起きるよりも先に、わけもわからず後方へ吹き飛ばされる。
肺を潰された群青は地面を這ってもがいた。視界の隅に、頬を腫らした天夢の姿が見えた。
「すいませ……」天夢は尻餅をついた状態から、膝で立ち上がって頭を下げた。
徐々に肺へ酸素が戻ってくると、群青は腹ばいのまま視線を上方に走らせた。
扉の向こうに、数人に腕を掴まれ取り押さえられる日黒先輩の姿が見えた。彼女は剝きだした歯の隙間から荒い息を吐いて、猛獣のような表情をしていた。
「クソ外道!!!今すぐ死ねよ!」
「落ち着け日黒!」
天夢を見下ろす先輩の目には涙が浮いていた。群青は立てないまま一歩下がって目を泳がせたが、誰も状況を教えてくれることはなかった。
「えっと、いったい何が……」どうやら修羅場らしいが、空気を読み外さない程度に群青は問いかけた。
「そいつは、そいつは――」日黒先輩が裏返った声で叫ぶ。「東京の事件を起こした本人!もうッ最悪!!お前のせいで!!お前のせいで!!!」
再び暴れ出した先輩を、数人が慌てて押さえ付ける。群青は彼女の言っていることに現実味を見いだせなかったし、彼女がここまで怒り狂うまでのいきさつも分からなかった。ただ落ち着いて話が出来ればいいんだろうが、それが許されるような時局ではなかった。
群青は膝に手をついて立ち上がった。
「先輩……すいません」
指を鳴らすと、先輩ははっとしたように息を吸い込んでそのまま口を閉じ、意識を失った。空間が一気に静かになる。
「すまない……」彼女を押さえていた先輩のひとりが申し訳なさそうにいった。群青は首を振って天夢のほうを振り返った。
「それで……さっきの話は真実なんですか?」
天夢は頬を押さえ、視線を落とした。返事を待っているうちに、騒ぎを聞きつけた他の班も隣の部屋から踊り出てきた。
ざわめきが廊下に響き始めた頃合いで、いよいよ天夢は口を開いた。
「嘘をつく気はありません。全て本当のことです」
そんな危険人物だったとは。群青は耳を疑った。
近くにいた皆が黙り込み、ざわめく野次馬の声がよく聞こえるようになった。
「なんでそんな事が……」群青はとにかく説明してほしかった。
業田先輩が一歩前に出た。
「さっき、1通のメールが届いた。差出人は、東京排斥派」重々しい声色で続ける。
先輩の話によれば、そのメールに貼ってあった動画には司令官を名乗る男が映っており、三極院天夢というテロリストがここにいることを指摘していたという。はじめは誰の事かわからなかったが、出勤してきた天夢が自己紹介で名前を出したその瞬間、日黒先輩が彼女の頬をぶん殴ったという話だ。
「なるほど……」群青はなんと言えばいいかわからなかった。
日黒先輩は排斥派に、親友を殺されたと言っていた。どうして殴ったかは察するに余りある。だが……ここにいるという事は、天夢だって軍を裏切ったんじゃないのか?僕らは、思ったより複雑な状況にあるんじゃないか?
「いちど、上官と皆さんで話したほうがいいのでは」群青は当たり障りない案を投げた。そこから話し合いが始まると悟ると、野次馬たちはつまらなさそうにその場から去っていった。
「……さて、どうすんだ嬢ちゃん」業田先輩が太い腕を組み、天夢の声をかけた。
「蓮を……連を呼んできてください」
「あたしはここだよ。で?なんだ、何があったんだい天夢」噂をすればなんとやら的タイミングで蓮が顔を出した。
「君のツレが騒ぎを起こしたから行ってやれと言われて来たけど……天夢、誰かに怪我でもさせたのか?初日から?」
「いえ、そうではありませんが……」天夢は心外といいたげに否定した。
「じゃあなんで?」
「排斥派が私達をかぎつけて脅迫メールを送ってきました。もう全てバレています」天夢はきっぱりと説明した。
途端に、蓮の顔が青ざめる。その場にいた群青や先輩たちを見回して、茫然と口元を押さえた。
「落ち着いて」群青がなだめる。「とりあえず、上官に相談しませんか」
「そうだなぁ……」
「そうねぇ……」
みなが黙って天夢をじろじろ眺めていた。一連の絵面は、まさに修羅場であった。
*
「あのアンドロイドが裏切った。やつを敵に回すと厄介だ。穏健派の内部であいつを殺してくれれば、それが最もいい。だからメールを送った。それだけだ」
「しかし、そう上手くいくかしらね。なんだかんだ受け入れられる可能性もおおいにあるわ。もし失敗したら責任はあなたが取るのよ」
「貴女がいればなんとかなるさ。今回もこうして、あいつらの居場所を突き止めてくれたんだから」
「私はそんな安い女じゃないわ。今回だって観光気分で日本に来たのに、あなたのせいであんなクソガキの情報を調べ上げる羽目になったのよ」
「はは。いいさ、いくらでも積むよ。ランサイア」
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