9ページ 奈良の鹿は意外と怖いです。

「じゃあな」


「天夢さん!さよならっ!」


 3日後。千牙に加え、なぜだか名前をおぼえられていた女子大生に大声で見送られた。慣れない白衣を身にまとった天夢は少しだけ手を振って応え、大学を後にした。


 春の訪れを感じる晴天の日。外で待っていると、サングラス姿の蓮がひとりで巨大な白いリュックを背負い、正門から出てくる。ふたりはそわそわしながらビルだらけの路上を進み、駅の人混みに入って手を繋ぎながら電車を待った。


 風を吹かせて電車が到着する。ふたりはアナウンスが途切れない駅に告別し、急いで快速に乗り込んだ。電車の中は案外空いていて、ふたりで横に並んで座る事ができた。


「さよなら、首都」


 間もなくして、窓の外で景色が流れ始める。窓側の天夢は、地平線に見える電波塔から目をそらさない。


「……天夢、起きてる?」互いに肩の力が抜けた頃、蓮はようやく話を切り出した。


「ええ」


 大阪までは8時間ほどある。蓮はサングラスを取り、パンフレットを天夢の眼前で扇子のように開いた。天夢は大阪観光かと目星をつけたが、穏健派事務局の求人だった。


「穏健派として受け入れてもらうためには、身分証明と……面接が必要らしいな。どうする?君の身分証なんてないが」


 蓮は眉間にしわを寄せ、頭を悩ませているようだった。天夢は肩を寄せてパンフレットを覗き込む。青色の文字を目で追っていくと、ふと気になる文章に目が留まった。


「特別採用もあると書いてありますよ?基準を満たしていなくても、突出した技能があれば採用してくれるらしいです」


「マジで!?」


 頭を抱えていた蓮が飛ぶように顔を上げて目を見開いた。ぎょっとした周りの乗客から視線が集まる。


「あたしも君も、それならなんとかなるかもね!ちょっと調べておかなきゃ」


 蓮はリュックからとてつもなく薄いパソコンを取り出してなにやら打ち込み始めた。


「……穏健派かぁ、どんな軍なんだろうな」打ち込みながら、ぼそりと呟く。


「みな、排斥派の事をクズだカスだ言っていました」そういって天夢は窓の外に視線を戻した。


「事実、クズだったからいいじゃないか。人々を守るとかいっといて、結局は少数派をいたぶって殺すのが楽しいだけだ」


「穏健派も同じような集団だったらどうします?」


「それは流石にあってほしくないな。なんの罪もない魔人を保護しようとする理念はお人よしの考え方だろ」


 それもそうかと天夢は納得して、あれこれ考えるのをやめた。窓の外で、景色が止まっては動き出す。


 通り過ぎた駅の数を忘れた頃、ふたりに眠気が舞い降りてきた。連はパソコンもまぶたも閉じて、天夢に肩の重さを預けた。



『次は奈良ー、奈良ー』


 天からの声のようなアナウンスが鼓膜に響く。そろそろ大阪だとぼんやり考えながら、蓮は夢から覚めた。


 背伸びをしようとすると、うなじの右方が変に痛んで顔をしかめた。目を大きく開けて痛みのする方向を見る。


「うー……ん」天夢が寝たまま首を左右に振っていた。


 銀色に光る彼女のロングヘアを目で追っていくと、先の方が自分の二色髪と深く絡み合っていた。


「あ……」突然、蓮の脳内に紙屑が舞った。


 それは猛吹雪の朝、16歳の誕生日のことだった。思えば3人が顔を合わせたのはあれが最初で最後。光に会ったのもあれが最後。母さんも父さんも娘も、誰も愛せず失ってしまった。どうして、生まれて間もない娘ふたりを危険な場所に送り込んでしまったんだろう。アレは人生最大の過ちだったと、今では痛感する。


「光……」


 力が抜けて座席から滑り落ちる。からまった髪を引っ張られた痛みで天夢まで目を覚ました。ふたりの目が合う。


「痛いですよ……。って、なんで泣いているんですか」


「昔のこと思い出しちゃったよ、君の前では大人らしくいたかったのに」


「はじめに会ったときから、自分のこと子供と言ってたじゃないですか……」


 蓮は拗ねたのか恥じらったのか顔をそらした。


「これからは……ずっと一緒にいてほしい。こんなあたしにも必要なんだ」


 天夢には、その言葉に何重もの意味が込められていることがわかった。だから――言葉では返さず、ただ優しく頭を撫でてやった。

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