11ページ マオ

 地面が熱を帯びてきた午前7時。アパートの階段を駆け降り、放り投げられるように外へ出た。隣にあるビルの自動ドアを最短で開け、登りのエスカレーターに駆け込む。1階の天井を見送って2階につくなり、向こう側の見えないガラス扉を抜けてオフィスに入ると、青い軍服を身にまとった短髪の女性が既にデスクで待ち構えていた。群青は最年少で、未だに1番で出勤したことがない。


「日黒さん、おはです」


 日黒先輩はモニターを見たまま釈迦のように掌だけ向けて「おは」という。慣例化したあいさつだが、休み明けなので彼女は「お久」とも付け足した。なぜだかそこだけ息が荒かった。


「おひさしぶりです」



 群青の席は扉の正面で彼女の隣。側面に”柊”と書かれたデスクの前でスマホをいじっていると、「なにしてるの」と聞かれた。


「新しく入軍する人とLINEしてます」


「え、私そんなん聞いてないけど」


 そうか、先輩は聞いていないのか。群青は蓮さんのアイコンが小さく映った画面を先輩に差し出した。


「どれどれ……えらい若いね、まさかこれが本人?」


「はい、なんでも既に大学院まで出てるらしいですね」


「ひええ」


 先輩は動揺して机を大きく揺らし、群青の机に乗っていたコップを落とした。


「あっぶな、空っぽでよかったわ」


 先輩は額を拭いながらコップを拾って、わざとらしく乱雑に投げる。笑顔のまま、群青の首から血管が浮き出た。


「あー……。明日からこの人と……もうひとり来ます。この人は技術部に行くそうで、実動隊に入るのはもうひとりの方ですね。馬鹿強いので、ここ1班に来るのは確定でしょう」


「へえ、2人組なんだ……どっちとも女の子?」


「はい」


「ふー……ん」先輩はなにか考え込むように掌を見つめていた。


 先輩から視線を切ってスマホをデスクにたたきつけると、群青はようやく椅子に腰を下ろした。あくびをかみ殺して頬杖をつく。


「先輩もマジで気をつけたほうがいいですよ。明日から来る彼女ひと、洒落にならないくらい強いんで」


「なんじゃあそりゃ」先輩は小声で笑い飛ばす。


「なんじゃあそりゃ!」


 先輩の反応に呼応して、今度は正面から大きな声がした。無意識に顔を上げると、体格のいい糸目の男性が腕組みをして歩いてきた。


「よっす柊、今の話はマジか」


「マジです」


 業田ごうだ先輩は今年で30。日黒先輩の5つ上で、とにかく人がいい。職権乱用して夜の街のスカウトマンを片っ端からボコボコにする日黒先輩そいつとは比較する事がおこがましいくらいには聖人である。


 彼はそうかそうかと言って笑いながら僕の右隣に荷物を置いて座った。この班には20人がいるのだが、初めに揃うのは決まってこの3人である。


 仕事をするわけでもない。始業までの日黒先輩は無作法に友人らしき人と通話しているし、業田先輩は荷物だけ置いてトレーニングに行く。稀に群青も誘われるが、何かと理由をつけて断ってきた。


 しかし今日ばかりはそういうわけにもいかない。業田先輩が席を立ったタイミングで「僕も行きます」と声をかけた。便所だった。



 ひとり顔を赤くして訓練場の前に行き、座り込んで待っていると、業田先輩が2本のエナドリを持ってやってきた。そのうち開いていない方を群青の胸元に投げる。


「悪い悪い。これは詫びだ。……にしても珍しいな、お前からここ来るなんて。さっき言ってた新入隊員のせいか?」


「ええ」手をついて立ち上がる。「魔法だけじゃなんもできませんわ、このご時世」


 先輩はエナドリが噴き出そうになった口を押さえ、咳込んでから豪快に笑った。


「めっちゃ凹んでる!何があったんだよ」


 群青は尖った耳をかいて渋い笑いを返す。


「体動かしながら話しましょ」


「はは、それもそうだな」


 ふたりはサンドバッグやら鉄棒やらが転がる訓練場の外側をうろつく。いざ走り出した矢先、群青は先輩にペースを合わせてもらっていることを肌で感じた。


「いつも走ってるんですか?」


 息切れを隠して聞き、答えを待つ間に深呼吸する。


「持久力は大事だからな。魔法でもそれは同じだろ」先輩は迷いなくそう言った。


「っすね……。魔力ってのは一度使い切るとなかなか回復しないんで」


「その辺は、俺にはよくわからないな」


 そりゃあそうだろうな。腰に携えたエナドリを走りながら飲むと、よけいに息苦しくなった気がした。


「それで?さっき言ってたのはどんな奴なんだ」


「あー、20メートルくらいジャンプするし、キック力がなんかの重機でした」


 信用されるかは棚上げでとりあえず言ってみると、先輩は顎髭をいじりながら「ふーん」と呟いた。


「驚かないんすね」


「そりゃあ、お前がいる時点でなあ」


 なんじゃそりゃ。群青は転びそうになって、前のめりで走りながら腕をぶんぶん振った。


「僕そんな風に思われてるんすか?」


「……もの珍しく思われてるだろうなあ」先輩の口角から白い奥歯が見えた。


「まー……いいですよ。彼女に会えば僕なんかよりよっぽどヤバい事が肌身で分かりますから……」群青は低めの声を絞り出した。


「楽しみだな!」先輩は今日イチ大きい声を飛ばした。訓練場に反響して群青の耳をくすぐる。


 先輩は新しい仲間を迎えることがシンプルに嬉しいと見える。群青は彼を見上げるのをやめてじわじわとペースを落としていった。


「どうした?きついのか?」2馬身ほど遅れたところで、先輩が振り返ってくる。


「いえ、スマホ置いてきたんで」


「なる。いってら」


 先輩に踵を返して訓練場から足早に立ち去る。鉄板の階段を駆け上がってオフィスに戻ると、ガラスの向こうに見える影が一挙に増えていた。


 音を立てて扉を開けると、群青の顔に幾多の視線が集まってくる。そのうち何人かが手招きしてきた。


 急いで中に入る。群青のスマホを勝手に使う日黒先輩と、画面を見にたむろする10人ほどが目に入った。追及の叫びを上げるより前に、画面を凝視していたひとりの先輩に肩を叩かれる。


「柊くん!日黒から聞いたんだが、この子が新しく入るってほんまか!?」


 先輩の手元に目を移すと、スマホの画面には、天夢の横顔がアップで映っていた。そんなもの撮った覚えも送付された覚えもないが。場に流されないようひと呼吸おいて、群青は目の前に座る日黒先輩を全力で睨みつけた。


「その前にいい、なんでパスワード知ってるんすか!」


「え、いや、つけっぱだったしィ……」先輩は舌の先を出して隅に隠れた。


 なんっ!でやねん。群青は最優先でスマホをひったくり、泣く泣く軍服のポケットに突っ込んだ。


「で?その子名前なんていうの」苦笑に包まれた場の中、先程の先輩が訊いてくる。


「本人から聞けばいいじゃないですか……」


「あっ、柊さん拗ねちゃった」誰かがおかしそうに言いながら立ち去っていった。



 ああもう……。群青は頭を片手で掻きむしってオフィスから出る。ずいぶんと待たせてしまっているな。


「長かったな、なんかあったか?」


「すいまッせん、ひと悶着あって」


 訓練場に戻ると、業田先輩のエナドリは既にゴミ箱の中だった。自分から誘っておいて先輩だけ筋トレに励んでいたことを想像すると、サボったみたいでバツが悪かった。


 気合を入れて隅に転がるダンベルに手を伸ばすと、横腹あたりでスマホが暴れるように震えた。


「なんだ?」さっさと確認しようとポケットに差し込んだ手を引っ張り出す。通知の一番上に出ていた文章に、群青は思わず吹き出した。


「どした?」


「いや……日黒さん、最近のトークで本当にごめんなさい!としか言ってなくて」


 ひもすがら、彼女は反省しているのかまるでわからない。群青は明日のことも忘れ、土下座する先輩を思い描いて自分の太ももを叩いた。



「やぁっと終わった」


 群青は本日最後の作業にキリをつけてパソコンを落とし、体が捻じ切れそうな力で背伸びした。もうすぐ19時か。オフィスには15人ほどが残っており、残りの人は軽い夜勤のために休憩していた。


「じゃ、お先に上がります」


「お疲れ」


「お疲れ様です」


 扉を抜けて部屋の外の空気を思い切り吸い込み、群青はエスカレーターに駆け足で向かった。


 1階につくなり、窓口で寝息を立てていた上官に「また明日!」と叫ぶ。飛び起きた彼を尻目に自動ドアを抜けて外に出ると、青い街灯に目を細めながら、すぐ隣にあるアパートへ駆け込んだ。


 ポストの横にある螺旋階段をのぼり、見慣れた廊下を通って帰宅する。


「ただいまー」ドアを開けると、飼いならしたゴミ袋が丁重に出迎えてくれた。


「うげ」飛び跳ねながら袋を避けて進み、唯一汚れの少ないソファへ身を投げる。置いた鞄の上に長袖の軍服を脱ぎ捨て、力の入らない手を伸ばしてテーブルの荷物を払い落とした。


「首いってー……もっと筋トレしないとだめかなやっぱ」


 とは言ったものの疲労感に勝てそうもないのでソファの上で寝ようかと迷ったが、流石に駄目だろうと起き上がる。明日も出勤、明日も出勤。


 夕食は昨日の残りでいいか。テーブルに空いた僅かなスペースを無理矢理広げ、よろめきながら冷蔵庫の方へ歩いていく。


 亀裂の入った冷蔵庫に手をかける。殆ど何も入っていないことに舌を打ちながらタッパーを引きずり出すと、背後からインターホンの高音が響いてきた。


「なんだこんな時間に」群青はタッパーをテーブルに置き、足元に散乱したジャケットを急いで羽織ると、一目散に玄関へ向かった。


「はい、どちら様で!」できればドアは開けたくない。祈りながらドアスコープで壁の向こうを覗くと、群青は腕を組んで首を傾げた。


「三極院さん?なんのご用ですか」そもそも家を教えていないのだが、頭が酸欠の群青はそういう事もあるだろうと割り切った。


「部屋借りようとしたら、あたしらだけじゃ入居できないと言われて!」隣の部屋にも聞こえるほどのボリュームで、壁の向こうの蓮は声を荒げる。


「話がつくまで、ここで泊めてもらえませんか!」


 群青は唖然として、おもむろにドアを開けた。


「はァァァ!!!!?」

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