18ページ 影武者

 ランサイアは不安定な瓦礫を駆けてこちらに向かってくる。群青に、立ち向かうだけの力はなかった。


 眼前でナイフが振り上がる。群青は腕をだらりと垂れ、力なく片膝をついた。


「グゥッ!」右肩を切り裂かれる。避けたつもりもないが、どうやらこいつは僕をじわじわと殺す気らしい。


「がっ……ああ!」今度は脇腹を切られる。落下の傷が開き、鮮血が一気に流れ出た。


「次は何処ドコがいい?喉?耳?苦しまずに首?」


「ガアッ……」


 群青は口を固く結んでランサイアを睨んだ。この女は自分がなにを奪ったのか分かっていない。全身から血を噴き出したまま、怒りの全てを眼球に込めた。


「死ねよ……ゴミはお前だろ……なんでだよ、こんな時に……」なんとも情けない声だと自分でも感じた。


「その、諦めた言葉も素敵よ」ランサイアはかがんで群青の頬を撫でた。その顔には、仮面越しでもわかる狂気があふれ出ていた。


 人間とはここまでの屈辱を感じることが出来るのかと、群青は疑問にさえ思った。目の前にいる外道の心変わりで消える自分の命が、腹立たしくてしょうがなかった。


「あら?泣いてるの?もう終わりなの?」


「喋るな……」睨んでいるつもりだったが、群青の視界は段々と歪んでいく。


「ああ、泣いちゃった。面白くない」ランサイアはつまらなさそうにナイフを納めた。代わりに背中から出てきたのは、人を殺すためだけに作られた――やけに柄の長い――短剣だった。


「平和ボケして忘れたみたいね。穏健派は魔人の強さに溺れて惰性で活動しているのに……肝心の魔人がこんな腑抜けで大丈夫なのかしら?」


 ランサイアは一転して冷たい声になった。刃物を振り上げる動作にも、一切のあそびがない。


「君の死体を見たら、あのクソガキはどんな顔をするのかしら」


 容赦の粉塵もなく、短剣が首筋に向かって振り下ろされた。


 大丈夫だ。まだ死なない。群青は思い込んで祈ることしかできなかった。走馬灯など流れない。思い出すな。まだ死なない。まだ死ねない。


 銀閃を見ないように、群青は涙を隠してそっと目を閉じた。



「破ァァッッッ!!!」


 首元から聞こえてきたのは血飛沫の音ではなかった。どこか聞き覚えのある猛りと、可聴域を超えた鋭すぎる金属音だった。


「——――!」突風がその人の声を掻き消す。群青が顔を上げた向こうには、肩から瓦礫に埋もれたランサイアと、拳を血で濡らした天夢が土煙の中にいた。



「あら、初めまして、ミス・アンドロイド」立ち上がったランサイアの嘲笑は痛みで歪んでいた。


「間に合わなかった……最悪です」天夢は軽口を完全に無視して現場を見回した。人間の血だけがやけに目立つ空間に舌を打ち、ようやくランサイアに向き直った。


「大阪の監視カメラだけ生かしておいたのは、私をおびき出すため、と。用意周到なんですね。爆破を見るなり飛んできましたよ」


「わかってくれた?さすが優秀ね」ランサイアは嬉々として、血のこびりついた短剣を拾う。柄に埋め込まれたルビーを押し込むと、その刀身は倍ほどに伸び、長剣へと変貌した。


「でも、むざむざと殺されに来るのは優秀じゃないわね」


 その言葉を契機に、銃弾の豪雨が天夢に降りかかった。


「危ない!」天夢は群青の襟を掴んで飛びのいた。かつて2人がいた場所で、鉛玉が火花を散らして跳ねる。


「姑息な……」


 天夢が隙を見て見上げると、上空のヘリから顔を出したスナイパーがコンマ数秒見えた。群青をその場にそっと降ろして、冷徹に目標飛行物体ヘリコプターへ人差し指を向ける。


「電空砲……0.2パーセント」


 陽光を遮っていた機体のうちひとつが、一瞬で赤い稲妻に消え、群青は唖然とした。


「ドコを見てるのかしら?」ヘリを撃ち落されてもランサイアは顔色ひとつ変えず、不意打ちの銃弾を飛ばしてきた。


「全部です」天夢は爪先で弾き返した。


「最高ね!」ランサイアは銃を投げ捨て、長剣を片手に突っ込んできた。


「最低ですね」天夢は群青の盾になるように低く構えた。


「ハァッ!」


 ランサイアのひと薙ぎを、天夢は避けなかったように見えた。だが、確実に脇腹をロックオンしていた剣先は空気の中を滑っていくのみ。


「速いわ……!じゃあこれは!?」


 翻された長剣が、今度は足首を狙う。天夢は躱すどころか難なく踏みつけ、きつめのパーカーについたポケットへ両手を突っ込んだ。


「なにが面白いんですか?」天夢は剣を引き抜こうとするランサイアを見下した。憐みの粉塵さえない、機械油の中で蠢くゴキブリを見る目で見下した。


「理解できません。この私から生き延びようとする、その脳髄が」


「その顔は素敵じゃないわね」


 ランサイアの声を掻っ消し、天夢は拳を一直線に振るった。肩の砕ける音がしたが、致命には至らない。それでもランサイアの顔からは一切の余裕が消えた。


「なるほど、それだけ強いのに……裏切ったのね」


「私の力は私と蓮のものです。罪のない人々を虐殺する人間のためにはありません」


「敵軍にそれを言うのね!?」ランサイアの首筋から血管が浮き出る。


「そうです!あなた達は救いようのない敵軍です!!」天夢もまた怒りをあらわにし、地面を蹴り飛ばして殴りかかった。


「ヒャアア!!」ランサイアは無心で逃げるように後ろへ下がった。


「無意味!!」天夢は目を臨界点まで開いてさらに踏み込んだ。


 風が煙を巻き上げていく。その先で、金属が岩を砕く音がし、群青の肌を痺れさせた。


 煙が音波で分散していくと、そこでは天夢が女の首元を押さえ付けていた。


「……ッ」群青は天夢のもとまで這っていった。


 なんとか立ち上がって彼女の顔色を伺う。どうしてだか紙のように白くなっている天夢の横顔に、群青はぞっとした。天夢の指先が押さえる首の上では、女が死の間際とは思えない笑みを浮かべていた。


「その諦めた顔が素敵よ」


 そう残して、ランサイアを名乗る仮面の女は息絶えた。


 天夢は怒りに打ち震えて女の遺体を投げ捨てた。


「こいつ、偽物……」なにが問題なのかと問う前に、天夢が呟いた。その時、空から甲高い嘲笑が降ってくる。


「見守ってあげたわよ!影武者まで倒すなんて律儀ね、三極院天夢!おかげで戦闘データまで頂いたわ!!」


 最も大きなヘリのドアが開き、同じ仮面をつけた”本物”が顔を出した。


「この……」天夢は悲壮感のある顔で見上げた。群青は歯を食いしばりながら見上げた。


「私に盾つくなんざ1兆年早いのよ!諦めてもういちど裏切ってみなさい!!」拡声器を通した声が一帯に響く。


 無数の徹甲弾を置き土産に、”本物”は空の彼方へ消えていった。



 茫然と立ち尽くしていると、かつて事務所の玄関だった方向から蓮が走ってきた。


「天夢!柊さん!大丈夫か!!」


「えぇ……と。彼は出血多量……大人数が瓦礫に埋もれています!ランサイアは逃がしました……」天夢ははっとして状況を伝えた。


「なんだって――」蓮は血の気を失くしてスマホを取り出し、すぐさま怒鳴るように通報し始めた。


「クッソ……」群青は視線を落として足元の瓦礫を眺め、悔し涙を味わいながらばたりと倒れ込んだ。

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