終章

 仔牛は無事生まれた。濡れた体を藁でぬぐってやる。見ているうちに立ち上がり、初乳を飲んだ。ぼくは乳搾りの時に使ってる低い木の椅子を引き寄せると座った。ほっとして肩の力が抜けていく。


 いや、力が抜けたのはほっとしたからだけではなかった。今この瞬間バックアップが上書きされたのだった。息が荒くなる。新たな記憶が前から知っていた事のように思い出せるようになり、ここで経験していないのにいきなり増えた過去に軽いめまいを感じた。じっとしていると心の安全装置がそれらをきちんと仕分けし、落ち着いて呼吸できるようになった。


 うす暗い牛舎に朝日が差し込む。埃が幾本もの筋を引く。母牛と共に仔牛の様子を見守りながら、経験に裏打ちされていない記憶をあたかも報道の見出しを拾っていくように思い出す。


 核融合発電所一号炉および併設の蓄電施設の完成と、キロワットに裏打ちされた新円の発行。それが大きな変化だった。『大分裂』によって生まれた多数の微小国家のほぼ全てが新円を採用した。まだ残っている日本政府は認めなかったが、だからどうだというのだろう? 旧円は旧政府と共に、すでに人々の信用を失っていた。


 小さな変化もある。島のチーム『カクブンレツ』は解散した。インフィニティ・マザーは分裂した本土の懸念を無視し、続々と生み出す新型のオートマトンを従え、人造人間を必要としない体制を作り上げた。自分で自分を保守できる原子炉だった。そして、バックアップを取った島の人造人間たちは耐用年数が過ぎるのをじっと待つのみとなった。それまでの暇つぶしに様々な趣味の活動を行っている。

 元のぼくを含む旧『カクブンレツ』のメンバーは菓子作りを始め、オリジナルレシピのライセンスを売っている。アップルパイが評判いい。作ったばかりの生地と少し置いたものとの配合に工夫があるのと、シナモンを入れないのがアイランド風なのだと言う。


 ぼくは光の筋を見上げた。これは演算によって作られた光であり、そのエネルギー源は核分裂から来ている。

 本土や世界はどうか。新たなエネルギーの源として核融合が加わった。地上に降りた太陽が分裂しきった世界を照らしている。


 結局、ぼくは彼岸には達する事はできない。いつまでも此岸、こちら側にいないといけないんだろうなと思う。でも、それは人間全てもそうなんだろう。それから人造人間も、人工知能もそうだ。


 この世はどこもかしこも此岸で、神も仏もいない。いないんだけれども。


 願わくはあらゆる種類の人間が進む道を明るく照らし給え。


 ぼくは、光の筋に手を透かして見た。


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