第26話 side:天羽優衣
ちゃぽん、と浴室に音が響く。
慎一郎との外出から帰った後、優衣は母から体調を心配された。それについてはなんとか誤魔化すことができたが……この時間に母が家に居ることは珍しいのでつい油断してしまった。
いくら多忙とは言え、優衣の両親に休日がないわけではない。そして少ない休日で両親は自分との時間をとても大切にしてくれている。それはありがたいことなのだが……今だけは、少し、ひとりで居たかった。
優衣はまずお風呂に入ることにした。『ちょっと汗かいちゃって』と言えば母は納得してくれる。優衣は活発な少女だ。友人とスポーツを楽しむことは少なくない。実際、優衣が汗をかいていたことは嘘ではなかった。それはスポーツによって出た汗ではなかったが、確かに汗はかいていた。
「……はぁ」
入浴して、優衣は大きく息をつく。う〜んと腕と脚を伸ばして、脱力。ぱしゃり、と飛沫が弾ける。ぼーっとそれを見つめている。
意識は目の前になく、もっと遠く。
――デートだなんて勘違いしてないでしょうね。
自分で口にした言葉を思い出す。そう……そうよ。デートだなんて、そんなことはないんだから。
いくら斎賀くんがそう言っていたとしても、デートだなんてことはない。これは契約だ。私を甘やかしてくれるっていう契約。それだけで。
――今日はもらえない。俺も楽しかったし……もらったら、デートじゃなくなるだろ?
「……だから、デートじゃないって」
思わず声に出す。そして、どう返されたかも思い出す。
――じゃあそれでいい。……でも、俺も楽しかったのは本当だ。友だちと遊びに行って金をもらったら、それも嘘になっちゃいそうだろ?
「……ずるい言い方して」
ぱしゃ、と水飛沫が上がる。水面を軽く叩いたからだ。慎一郎はわざとああいう言い方を選んだ。そう言われたら渡しにくい。だって。
(……私も、それを嘘にはしたくなかったから)
だが、その後にお願いしてしまった。『甘やかし契約』の中に含まれるようなことを――それは、ずっと興味があって、でも、ずっとお願いできなかったこと。
――私のことを、抱きしめてほしいの。
「あー……何言ってるのよ、私は」
なんて恥ずかしいことを言ってしまったのだろうか。興味があったことは嘘じゃない。異性に抱きしめられると違うと聞いた。彼氏が居る友人からそういう話を聞いたのだ。男の人に抱きしめられると安心すると。
もちろん、誰でもいいわけじゃないのだろう。それくらいはわかっている。だから優衣も最初から『抱きしめてほしい』なんて慎一郎に言うつもりはなかった。いくら甘やかしてもらうとは言え、そんなことまで要求するつもりはなかった。撫でられたり膝枕されたりはしたけれど――抱きしめてきたら、どうにかして反撃するつもりだった。慎一郎の部屋にふたりきりで居たときも、万が一襲われたならばという考えはあった。だから念のために撮影していた。もし万が一が起こったならば、それで逆に脅迫できる。そういう心積もりがあった。……実際は、使うことがなかったけれど。
そうだ。そこまで許す気はなかった。そこまでお願いする気はなかった。でも、お願いしてしまった。お願いして……それで。
――痛いくらいに、抱きしめて。
ぎゅ、と優衣は自身の身体を抱きしめた。慎一郎に抱きしめられたときのことを思い出す。彼の体温を思い出す。彼の心臓の音を思い出す。
慎一郎は強く自分を抱きしめてくれた。痛いくらいに、苦しいくらいに……でも、それが心地よかった。それがどうしてか安心した。大きな彼の身体にすっぽりと覆われて、全身を強く抱きしめられて……どうして、あんなに。
「……斎賀くん、ドキドキしてたわね」
彼にしては珍しく、やけに照れていたことを思い出す。それがなんだか面白くて、くすりと笑みがこぼれてしまう。……もちろん、自分も恥ずかしがっていたことは棚に上げて。
「いつもあんなふうにかわいげがあったらいいのに」
いつもは自分ばかり負けているような気がするから。それが少し悔しかった。……ただ、それがあるから『甘やかしてもらえている』というところもあるかもしれない。べつにいじめられるのが好きってわけじゃないけれど――本当に、決してそういう趣味があるわけではないんだけれど、甘やかしのときに意地悪な言い方をされるのは悪くない。むしろ良い。そういう気持ちはある。あるが……それはそれとして、こっちからいじめたい気持ちもある。『天使』として生きてきたこともあってそういう経験はほとんどなかったし――実際、慎一郎をからかってみせるのは楽しかったから。
「……ばーか」
別れ際、そう言ったときのことを思い出す。間抜けな顔をしていた慎一郎のことを思い出す。
自然と頬がゆるむ。ゆるんでしまう。今日はほんとうに楽しかった。今日のデートは――
「……だから、違うって」
ぱしゃ、と顔を湯船につける。
顔が熱い。
でも、それは湯船につけているからだ。
そのまま優衣は、のぼせる直前まで浴室に居た。
胸の奥で響く心臓が、なかなか落ち着いてくれなかったから。
*
――絶好調だった。
慎一郎との息抜きがいいのだろうか。生活にメリハリがついた。今まで手を抜いていたわけではなかったが、他のことにも今まで以上に力を出せるようになった気がする。「優衣、なんか最近調子良いよねー。前からめっちゃ良かったのに……すごすぎかー?」なんて友人からも言われるくらいだ。それでいて以前よりも疲れはない。精神的なものだけではなく身体的にも。
もちろん気に障ることもないわけではないが……それだって、慎一郎に話すことができると考えれば絶対的に悪いこととは言えない。最近は理不尽なことが起こるたびに『斎賀くんに甘やかしてもらえるネタができた』なんてことすら思うくらいだ。
球技大会を数日後に控えた今、優衣は球技大会の後に予定されてある打ち上げのことを考えていた。クラスのみんなで遊びに出かける――球技大会に『親睦を深める』という目的があることは優衣も理解しているが、それだけでは足りない。球技大会の際も運動が苦手な生徒のことはフォローするつもりだが、本格的に親睦を深めるのであればそれとはまた別の場が必要だ。
とりあえず、場所はカラオケ。既に予約済だ。参加するのはクラスメイトのほとんど。伊織やアオイは参加しないが、あの二人に関しては問題ないと認識している。
カラオケと言えば、優衣としては慎一郎とのそれを思い出してしまうが……友人たちとのカラオケが楽しくないわけでもない。好きな曲を歌えないというわけではないのだ。優衣は多趣味な少女である。音楽についても好きなものは多い。慎一郎としたようなコールアンドレスポンスこそしないが、それに近いことくらいならする。ただ自分をさらけ出すことができないだけだ。
最近はすべてが順調に進んでいる。慎一郎にバレてしまったときはどうなることかと思ったが……結果的に、すべてがうまくいっている。
辛いことや苦しいことがあったとしても、慎一郎が甘やかしてくれる。
甘えられる相手が居る。
それだけで普段も安心できた。溜め込むことが少なくなった。吐き出せる場所があるんだから。そう思うだけで気持ちがずいぶんと楽になった。
ずっと、息がしやすくなった。
生きやすくなった。
そして。
そういったときにこそ、すべてが悪くなるものである。
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