第6話 契約

 怖がらせてしまったのは悪かった。


 しかし、俺は何も言ったわけではなかったのだ。天羽さんが勝手に勘違いしただけである。

 むしろ勝手な勘違いから脅されているなどと俺を悪魔化したほうが失礼だと言えるだろう。

 人を加害者扱いしておきながら何の非もないわけがない。少しからかわれるくらいは仕方ないだろ?


 でも確かにタチが悪かった。それは間違いない。ごめんなさい。


「……まあ、いいわ。確かに、私も勝手に斎賀くんを身体目当てのクズ扱いしてしまったわけだし」


 先程までむすっとしていた天羽さんが溜息をついてカップに口を付ける。


 あの後、俺たちは落ち着いて話をするために喫茶店に来ていた。

 繁華街の隅にひっそりと佇む喫茶店『あじと』。俺のバイト先の一つである。


 コーヒーに口を付けた天羽さんが驚いたように眉を上げる。

 思ったよりもおいしかったのだろう。ここのマスターはコーヒーを淹れるのだけはうまいからな。その点は俺も評価している。ここに潰れられたら困ると思うくらいに。


 ズズッとコーヒーを啜って俺は尋ねる。それで、いったいどんな話があるって? 俺としては天羽さんといっしょに話せるってだけで嬉しくはあるが……べつに誰にも話さないって言ってるんだ。なら、それで用は終わりじゃないか?


「……それが、信じられたらね」


 天羽さんは苦い顔をした。まあそうだろうな。そう簡単に人を信じられたらそもそも普段から『天使』を演じるわけがない。


 わざわざ『誰にでも明るく優しい天使』を演じている理由としては大きく二つが考えられる。

 まず一つ目は『それによって自分が得をする』と考えているから。

 天使のような美少女だからな。その容姿がどれだけ価値を持つものかをはっきりと理解して、人から好かれるように振る舞うことが最も効率的に自分が得をする、と考えられる。

『人から好かれる』ということの価値を理解できるほどに賢いからこそ、そんなマネができるってわけだ。賢いからこそバカを演じるって女子はまあまあ見るよな。

 ただ、それにしては天羽さんは『度が過ぎてる』。人から好かれるって点はこれ以上ないくらいに達成できているとは思うが、あまりにも優しすぎる。

 あそこまでいくとメリットよりもデメリットのほうが大きいだろう。つまり、こっちじゃない。


 もう一つは『自信がないから』だ。素の自分に自信がない。素の自分は嫌われる。そう思い込んでいるから仮面を被らずにはいられない。一種の強迫観念だな。

 損得勘定がないってわけじゃないだろうが……前提として『素の自分』に対する評価が不当なまでに低いわけだからな。

 そんな状態の頭で損得なんて正常に判断できるか? そう、できるわけがない。

 少なくとも俺から見ればそうだ。素の自分に自信がなく、嫌われると思いこんでいて……自分も嫌っているからこそ『理想』を演じようとする。誰からも嫌われない姿を追求する。

 その結晶が普段俺たちが目にする『天使』の顔なんだろう。確かに天使の天羽優衣を嫌うような人間なんてなかなか居ないだろうからな。

 元気で明るく優しい美少女なんてそうそう嫌われるはずがない。少なくとも表立っては嫌われないだろうし……単なる八方美人だったら僻まれることも多いだろうが、天羽さんはそこらへんがうまいよな。『元気』って点がうまい。バカっぽく見えるからな。

 成績が良くても振る舞いがバカっぽいとそいつをバカだと思っちまうのが人間ってもんだ。日本語カタコトの外国人は外国語を習得できるくらいなんだから頭もそれなりに良いはずなのだが、日本語カタコトってだけで勝手に知能もそれ相応だと認識しちまうみたいなもんだな。

 人間にはそういう認知のバグがある。そしてそれは取り除けない。

 天羽さんはそれを利用しているわけだろ? 嫌われるリスクを徹底的なまでに排除している。真に合理的な人間であれば頭でっかちな振る舞いではなく元気で明るいバカを演じるなんて言うが、それに近いよな。

 まあ天羽さんはそれにしてはあまりにも『優しすぎる』し……過剰なまでに『嫌われるリスク』を排除しているから、合理的には程遠いが。

 要するに打算的とかじゃなく単に素の自分を見せて周囲に怖がられるのが怖いから仮面を被っている、打算からじゃなく臆病から来る演技ってわけだな。


 そんな臆病なヤツが他人のことを簡単に信じられるわけがない。そういうことだろ?


「勝手に長々と分析しないでくれる?」


 ギロッと睨まれた。頬が微かに赤い。羞恥と怒りか。

 俺は両手を上げて降参の意志を示した。悪気はなかった。申し訳ない。


「調子狂うわね……。さっき言われたことも、正直、否定しにくいし」


 いや、べつに当たってるってわけじゃないだろ。俺はすんなりと手のひらを返した。

 まあ一部は当てはまる部分もあるかもしれないが……ぜんぶがそうってわけじゃないはずだ。少なくともそれだけってことはないだろう。

 人間なんだ。理由なんていくらでもあるだろ。その時の気分によっても変わるだろうし、言われてみればなんだってそんな気がしてくるもんだ。

 実際は自分でも気付いていないような理由もあるもんだろうし……俺が言ったような単純なものじゃなく、もっと複雑な理由だろう。


「どっちよ」


 天羽さんがひくひくと目元を震わせた。苛ついてらっしゃる。

 俺はマスターにケーキを注文した。もちろんマスターの手作りなんかではなく、近くのケーキ屋で売っているものだ。

 マスターはコーヒーを淹れることだけはうまい。ケーキなんて作れない。

 人気のケーキ屋なので契約するのは苦労したが……俺が個人的に置いてほしいので契約した。こういうときに便利だからな。もちろん、俺のぶんも注文するのは忘れない。


「……おいしい」


 不満そうな顔をしながらもきちんと食べてくれるあたり、天羽さんは優しい。育ちが良いんだろうな。お嬢様だし。天羽さんはアパレル会社の社長令嬢でもある。

『素の自分』なんて言ったが……実際、今の乱暴な口調はどこまでが『素』なんだか。


「なによ」


 ケーキに舌鼓を打つ天羽さんを眺めていると睨まれた。こんな状況でケーキをおいしく食べていることが恥ずかしくなってしまったのだろう。俺は話を戻した。


 とにかく、天羽さんは俺を信用することなんてできないだろうって話だ。

 人の口に戸は立てられない。鍵なんてないんだ。その不安は取り除けない。

 もちろん、俺は誰にも言うつもりなんてないが……言ったところで何か得するわけでもない。むしろ損するだろうな。天使を敵に回した愚か者って叩かれまくるだけだ。俺の言葉なんかよりも今までに見てきたもののほうが信じられるに決まってるからな。

 まあ、まったく信じられないとは言わない。俺は口が回るし、疑念を植え付けるくらいのことはできるだろう。

 でもそれで俺が得するわけでもない。天羽さんがちょっと周りとぎくしゃくするかもしれないが、効果としてはそれくらいだろう。


 そんなことを言ったところで信じられないのはわかる。だから不安は取り除けない。それは間違いない。

 逆に言えば、身体を好きにさせたところで俺が絶対言わない保証なんてないだろって話だ。先払いなんてしちゃ駆け引きに使われるだけだろ。『言われたくなければ〜』なんてふうにな。

 もし自分の貞操を駆け引きの道具にするなら、それは『使われない』間しか効果がないと割り切るべきだ。そうだろ?


「……その通りよ。さっきの私はどうかしてたわ」


 ホントにね。俺は爽やかに笑った。脳内で天羽さんのブラと谷間の映像が再生される。

 不可抗力だ。いたいけな高校生男子が憧れの美少女の下着を見て何も思わないわけがない。

 俺は思春期真っ盛りだからな。仕方ない。誘惑に負けそうになっても仕方ないのだ。


「斎賀くんの言う通り、何をどうしても私が安心できることはないんでしょうね。……実際、ここまで言われても『もしバラされたらぜんぶ終わり』って考えてる。知られてしまった時点で……か」


 むしろ今まで誰にも知られなかったって方が信じられないけどな。俺は軽い口を開いた。あんなところで愚痴を吐き出すとか迂闊すぎだろ。自分の部屋とか……せめて密室でやるべきじゃないか? あんな誰かに見られてもおかしくない場所じゃダメだろ。


「……我慢できなかったのよ」


 あん? 俺は眉を上げた。そんな子どもみたいな理由で――そう言おうとして言葉を止める。

 ……俺は勘違いしていたのかもしれない。ぷいと横を向いて唇を尖らせる彼女を見てそう思った。


 ずっと、頑張りすぎじゃないかとは思っていた。勉強も運動もそれ以外も。完璧に『誰にでも優しい天使』として振る舞っている彼女を見て、俺は勝手に心配していた。

 とは言っても、彼女は天使だ。無理をしているようには見えないし……バカじゃないんだから、無理なら無理でなんとかするだろ。

 周囲の人からもあれだけ好かれて、かまわれてるんだ。心配している人が居ないわけもない。だから、きっと大丈夫だ。……そんなことを考えていた。


 だが、違う。違ったのだ。常に『天使』として振る舞ってきた彼女は――弱みを見せられるような相手なんて居ない。あるいは家族くらいしか居なかったのかもしれない。

 そう考えると……彼女は、無理をし続けていたんじゃないだろうか。俺が思っているよりも、ずっと、ずっと頑張り続けていたんじゃないだろうか。


 目の前の彼女は『我慢できなかった』なんて子どもみたいな理由を口にしたことを恥ずかしがっている。照れている。

 その姿は可愛らしいが……そんなかわいいものじゃ、ないんじゃないか? 


 彼女はずっと天使だった。


 でも、人間は天使なんかじゃない。


 それなのに、彼女はずっと天使だった。


 それがどのような意味を持っているのか、俺は理解できていなかった。


 彼女は、ずっと――限界だった。

 あんな迂闊なことをするくらいに……とっくに、限界を迎えていた。


 そう思うと。


「……天羽さんは、頑張ってるよ」


 頑張りすぎなくらいに、頑張っている。彼女の顔が見れない。視線が落ちる。カップの底に残ったコーヒーの跡を覗く。


「天使の顔が素だったとしてもそう思う。でも、あれは仮面だと君は言う。なら、俺が見てきた君の姿は、ぜんぶが努力の結晶だったんだろうな。……ほんとうに、今までずっと頑張ったね。我慢できなくなっても仕方ない、か」


 むしろ――まだ『マシ』だった、と言えるかもしれない。

 我慢できずに吐き出して……天羽さんからすれば誰かに見つかった時点で最悪だと思うかもしれないが、吐き出すこともできずに破綻を迎える可能性もあるんだ。

 そうなってしまえば、仮面なんて意味がなくなる。だって素顔も仮面も関係なくすべてが壊れるから『破綻』なんだ。それよりは『マシ』だと俺は思う。


「俺にはもうバレてるんだ。この際だから、愚痴を言いたいなら言えばいい。それで少しでも楽になるんなら、そっちのほうが得だろ? どっちにしたって不安になることは変わらないんだ。俺を信じられないことは変わらない。どうしたって信じられないんなら、何をしたっていっしょだろ? なら俺を利用すればいい。そう思うほうが……天羽さん?」


「え?」


 顔を上げると、天羽さんの顔が見える。

 その顔を見て、思わず言葉を止めてしまった。


 天使の目から、一筋の涙が流れていたから。


「――っ! な、なんで……っ」


 慌てたように涙を拭う。自分でも自分がなぜ涙を流していたのかわかっていないようだ。恥ずかしいのだろう。顔が赤い。


 ……なんでだ? 『なんで』は俺の気持ちでもあった。流れ的に俺の言葉が原因だろう。

 しかし『頑張ったね』って言葉くらい他にも言う人が居たはずだ。今までに俺しか言ってこなかったなんてことはないだろう。天使は愛されキャラだ。こんな程度のことは言われ慣れてると見て間違いない。


 だとすれば……悔しいとか? そっちか?

 俺なんかに同情されたのが屈辱的で……って、それはないか。いや、なくはない話だと思うが……今回は違うように思える。


 どうしていきなり涙を流したのか、理由が見えない。可能性があるとすれば『弱ってるところになんか沁みた』ってくらいか。

 秘密がバレて落ち込んでるところに優しくされたらいつもよりやけに沁みて涙が出た、って。マッチポンプか? 落ち込ませた後で優しくした俺はそう思った。調子に乗りそうだったぜ。危ない危ない。


「そ、そうね。斎賀くんの言う通り、あなたにはもうバレてるんだから何を言ってもいいのよね。ありがたく、甘えさせてもらうわ」


 俺が疑問を解決しているうちに天羽さんも気を取り直したらしい。彼女は腕を組んでそう言った。

 無意識なのだろうか。組んだ腕に豊かな乳房が乗っかっている。天使バージョンのときであればまずしない仕草だ。俺は視線が吸い寄せられる。でっか……。


「……うん。そう、そうよね。斎賀くんには、もうバレてるんだから。今更何を言っても同じ……よね」


 結論が出たらしい。彼女は顔を上げて、まっすぐに俺の顔を見据えた。つられて俺も視線を上げる。視線を重ねる。


「斎賀くん。あなたに、頼みたいことがあるの。あなたの言う通り、あなただからこそできること。あなたにだから、できること。……できれば、継続的に、してほしいことが」


 潤んだ瞳で俺を見つめて、緊張で震える手を胸の前で握りしめて。


 願うように、彼女は言った。



「――私のことを、甘やかしてほしいの」



 俺は断った。いや、今回だけならいいけど継続的にはちょっとな〜。


「……えっ」


 信じられないものを見るようにして見られてしまった。まさかそんなふうに答えられるとは思ってもみなかったって顔だ。

 いや、うん、わかる。ごめんね。でも、軽々しく約束することはできない。一回や二回で済めばいいが、継続的にってことはそうならないってことだ。


 もちろん、天羽さんにとっても愚痴を吐くくらいの場所は必要だと思う。彼女はそれくらい頑張っているから。

 俺も彼女がそんな場所を見つけられたらいいなとは思っている。でもな〜、俺がそうなるってのは……ちょっとな。俺に得がない。


 天羽さんには恩があるし、一回や二回であればむしろ助けになりたいくらいだが……だからと言って、なぁ?

 それで天羽さんが彼女になってくれるわけでもないし。好感度は稼げるかもしれないが明らかに『都合のいい男』枠じゃん。それはちょっとな〜。


「……つまり、報酬があればいいのね?」


 報酬? 俺の耳がデカくなった。

 報酬っつったって、いったい何を……身体か? くそっ、あんまり誘惑するのはやめろよな。自慢じゃないが俺は性欲に弱い。据え膳食わぬは男の恥。さすがに次は我慢できねぇからな〜! 


 ムクムクと下心を膨らませる俺に天羽さんはジト目を向けた。


「そんなわけないでしょ。そこまで私の身体は安くないわよ」


 俺の目が映写機のようにグルグル回り一時間ほど前の映像を再生する。何も言ってないのに勝手に脱ぎ始めた天使の姿を……。


「それは忘れて」


 コホン、と天羽さんが咳払いする。顔が赤い。かわいい。負けた。俺は再生を止めた。忘れはしないが。


 しかし、それなら報酬とは?


 彼女は言った。


「時給2000円でどう?」


「これからよろしくお願いします!」


 ――ずっと天使に憧れていた。


 俺のことを救ってくれた天使は、きっと今までにも同じように色んな人のことを救ってきたのだろう。

 それは誇らしく……同時に、少しだけ心が痛む。独占欲だ。

 誰にでも分け隔てなく接する彼女に憧れたにも関わらず、自分のことを特別扱いしてほしいと願う矛盾。そんな浅ましい欲望を抱いていた。

 

 今、俺は天使の特別な顔を知っている。これはきっと俺しか知らない。そんな卑小な優越感を抱いていることは否定できない。


 でも、同時に……深い感謝も覚えている。


 だって、彼女は努力している。素で天使だったわけじゃなく――自分の意志で『天使』であろうと居続けている。


 そう思うと、以前よりもずっと深い感謝を抱いた。深く、深く尊敬した。


 人間は天使じゃない。


 でも、彼女は――だからこそ、誰よりも天使だった。


 俺が甘やかして天使が羽を休めることができるのであれば、これ以上のことはないだろう。


 目を¥にしながら、俺はそんなことを考えていた。


「……現金すぎない?」


 天羽さんがつぶやく。現金だけに? 俺は爆笑ギャグを言った。


 無視された。

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