第16話 side:天羽優衣
「お邪魔します」
そう口にして、優衣は慎一郎の家に入る。
今回、『甘える』場所として彼の自宅を選んだ理由は端的に言えば『誰にも見られない場所だから』だ。優衣の家は無理だ。両親にすら優衣の素顔は隠しているのだから。むしろ両親にこそいちばん知られたくないと考えている。万が一バレたらと思うとその選択肢は取れなかった。
優衣も異性の家に行くことが大きな意味を持っていることは理解している。しかし身の危険は案じていない。あまり思い出したくはないが、以前の状況でさえ彼は手を出してこなかったのだ。伊織との話も聞いた。ならば、彼もそういったことはしないだろう。家族も居るだろうし……それでも、もしも手を出してきたならば。そのときはそのときで考えがある。
「慎一郎おかえり〜。あとは……おお、あなたが天羽さん! 聞いた通り、天使みたいにかわいいねぇ」
「にゃあ」
優衣を出迎えてくれたのは慎一郎の姉と黒猫だ。彼女の肩に乗っかっていた黒猫はぴょんと飛び跳ね、慎一郎の頭に着地する。それからこちらを見下ろし「にゃ」と鳴きながらぽんぽんと慎一郎の頭を叩いた。……歓迎してくれている、のかしら? まだ幼いが、ずいぶんとかわいらしい黒猫さんだ。自然と表情がやわらいでしまう。
慎一郎の姉も美人だ。慎一郎と違って目元もやわらかく、温和な印象を受ける。スタイルも良い。久しぶりに自分より胸が大きい女性を見たかもしれない。……あるいは、単に服装がだらしないのでそう見えるのかもしれないが。
「姉さん……来客があるってことは言ってたんだから、もうちょっとこう……服をだな……」
「? 着てるよ?」
「着てるだけ気を遣ってるって言いたいの?」
ゆったりとしたタンクトップにショートパンツ。それだけでも様になってはいるものの、やはりだらしない印象は受けてしまう。完全に部屋着だ。優衣はあははと笑うことしかできない。その間に玄関や間取りを観察する。
彼女以外に人の気配はない。親は不在か。靴の数を考えると……。玄関から見える範囲である程度の間取りは把握できる。これは不在ではなく、そもそも……。
優衣は観察にも秀でている。天使として振る舞う上で他人のタブーを把握することは必要不可欠だ。仮面の有無に関わらず、それを探ることは癖として身についている。確信できなくとも『そうかもしれない』だけでもいい。出すべきでないかもしれない話題がわかれば出さなければいいだけだ。まったく気にならないと言えば嘘になるが、それは加害リスクを負ってまでのものではない。優衣はそういう考え方をする。だから慎一郎の事情に関しても浅く理解するに留めた。
と、それより先に挨拶だ。優衣は天使の笑顔をつくる。
「天羽優衣ですっ。今日はよろしくお願いします!」
「うんうん。こちらこそ慎一郎をよろしくねぇ」
お姉さんがにへらっとゆるんだ笑顔を見せたままうなずく。慎一郎の部屋で『甘やかしてもらう』とは言っても同じ家だ。鍵をかけたとしても絶対にバレないとは言い難い。しかし、だからと言って優衣は自ら自分の素顔をさらそうとは思わない。思えない。だからいつも通り猫を被る。他人の前でも天使の仮面を外せない。
「それじゃあ、お姉ちゃんは部屋に居るから……ごゆっくり~」
ほら、バズィーも。そう言って慎一郎の頭からひょいと黒猫さんを抱き上げて去っていく。バズィーちゃんって言うのかしら。……ちょっと撫でたりしたかったかも。
「バズ子のこと可愛がりたかった?」
顔に出ていたのだろうか。慎一郎からそう言われる。……バズ子呼びは、ちょっとかわいくないわね。
「ちょっとね。猫は好きだから」
「猫被ってるから?」
「……」
「痛っ。ごめんて」
イラッと来たので優衣は慎一郎の腹をつついた。アオイと慎一郎がそういったやりとりをしているのは見たことがある。そうやって『当たる』ということを優衣はしてきたことがなかったが――案外、これが思ったよりもスッキリする。
「……ふふっ」
調子に乗った優衣は微笑みながら何度も同じように慎一郎の腹を突いた。
「な、なんで笑いながらそんなに突っつくの……?」
戸惑いながら尋ねられる。どうして、か。強いて言うなら……。
「甘えてるのよ」
優衣は笑った。
その笑みはいつも浮かべる天真爛漫な天使のそれではなく――小悪魔的な、素顔の笑みだった。
「コワ~……」
慎一郎は引いていた。
*
「いやだって執拗に腹をつついておきながら『甘えてる』って言われたら怖くない? え? その甘え方なんですか? 俺がした契約ってそういうやつだったの? 暴力的な甘えは想定してなかったんだけど……? ってなるじゃん? いや確かに天使じゃないバージョン……小悪魔バージョンの天羽さんはちょっとサドっ気あるな〜とは思ってたよ? エッロぉ……って思ってたところはある。いやべつにマゾじゃないけど。マゾじゃないけど美少女にいじめられるのって男の夢じゃん? 夢なんだよ。天羽さんは女性だしそういうことには疎そうだからわからないかもしれないが男の大半は美少女にいじめられたいと思っているからな。でも勘違いしないでくれ。あくまでそれは愛情表現であってほしいと言うかな……。いやここらへんは趣味の問題だから人によって変わってくると思うんだけど俺の場合は『俺のことが好きな女が俺のことをいじめてくれる』っていうのに興奮するんだよ。うん。いやこの話の流れだと天羽さんが俺の腹つっついたのにも興奮したみたいな話にならない? なる? でもまあ興奮してないっつったら嘘になるかもしれない。それはそう。嘘はつかない。ただコワ〜ってなったのも本当だ。この人の甘えってもしかしたら暴力的なやつなのかな、俺ボコボコにされるんじゃないかなって思ったのも嘘じゃない。実は人が苦しんだり痛がったりしてるところに癒やされる真性のサディストなのかもしれない……そう思ったからな。つまり何が言いたいのかと言うと失礼な反応をしてしまい申し訳ありませんでしたァ!」
慎一郎が深く頭を下げた。話が長い。斎賀くんってよくそんなに口が回るわよねと感心してしまう。絶対関係ない話するけど……。余計なことばかり言っている。言い過ぎで何が本題だったかわからなくなるほどに。口がうまいんだか下手なんだか……。評価が難しい。
「べつにいいわよ。実際、私もしたことがなくて間違ってたのかもしれないし……アオイくんとはああいうやりとりをよくしてるでしょう? だから」
「あー……そういうことか。かわいいとこあるな」
「何がよ」
飛躍した返答に優衣は不機嫌そうに返す。慎一郎は微笑ましいとばかりに顔をゆるめて、
「『仲の良い、気のおけないやりとり』みたいなものに憧れて……ってことだろ? 天使じゃなかなかできないやりとりだから。天羽さんのキャラだとできなくもないとは思うが……まあ、難しくもあるだろうから」
実際、優衣もそれは理解している。優衣は天使とは言っても『優等生』然としたそれではなく――もっと元気で明るいタイプの仮面を被っている。大人しさなんてものはない。積極的に誰とでも関わろうとするし、感情表現もはっきりしている。怒ってみせたりすることも(本気ではないが)もちろんある。
それだから『天使』の状態であったとしても腹を突いたりする程度であれば問題はないのだろう。それは知っている。しかし、優衣は今までそうしようとは思わなかった。……そう考えると、腹を突いたりするような『甘え方』は、行為そのものをしたかったわけではないのかもしれない。
むしろ……。優衣は慎一郎の顔を見る。行為そのものでないのであれば、つまり。
「……ムカつくわね」
「なんで?」
慎一郎がいきなり水を浴びせかけられた犬みたいな顔をした。
「知らないわよ」
優衣は逆ギレした。照れ隠しである。
「かわいいけどちょっと理不尽じゃないですかね……」
「悪い?」
「悪い。でも……かわいいから許しちゃう気になるのずるいよなぁー」
ちょっと理不尽なとこある美少女ってなんでこんなかわいいんだろうな。慎一郎は本人を目の前にしてこういうことを言うタイプの男だ。それは優衣もわかっている。だが、わかっていても嬉しくないわけではない。厄介な……。優衣は慎一郎を睨んだ。
「コワ……なに? 口が軽すぎるから?」
「その通りよ。でも褒めなさい」
「理不尽〜」
「そういうところがかわいいんでしょう?」
ふふん、と優衣は腕を組んで得意げに笑う。慎一郎の視線が胸に向かう。……腕を組んだ拍子に胸を強調するようなポーズになってしまったらしい。しかしそれで腕組みをやめるのも負けた気がして嫌なのでそのままにしておく。
「まあ、それはいいとして……時間もないんだし、早速甘やかしてほしいんだけど」
「はいはい。それで、甘やかすってどういうふうに? おまかせ? それでもいいが……」
「いいえ、それはそれで気になるんだけど……今日は、やってほしいことがあるの」
優衣はカバンから紙の束を取り出し、慎一郎に差し出した。
「台本を用意したからこれでお願いします」
「えっ」
思ったよりもガチなものが来たな、とでも言うように慎一郎の顔が引きつる。
ガチである。
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