第29話 覆水盆に返らず

 週末、優衣が登校しなくなる前の最後の休日。

 俺は優衣に連絡した。もし予定が空いているなら甘やかそうかと。今の優衣にはそれが必要なことだと思ったから。

 しかし、優衣には断られた。『今はそんな気分じゃないから』と。


 それを信じたわけじゃない。心配じゃなかったわけでもない。ただ、今は俺とも顔を合わせたくないのかもしれない。ひとりの時間も必要だろう。そう思った。

 また週明けに話そう。優衣のことだ。きっと天使の仮面を被って登校してくる。そんなことを考えてしまっていた。


 だが、優衣は来なかった。


 クラスの雰囲気は良くない。優衣が来ていない。それだけのことで、クラスから明るさというものが失われたように思える。

 ギスギスしている、と言うほどではないが……常に『足りない』ような気持ちになっている。


 優衣が来ていない理由は明白だ。あの少女の言葉。それを気にしているから。

 優衣が気にしているのはもちろんだが、クラスメイトも気にしていないわけじゃない。 

 ただの逆恨みだと思わせることには成功しただろう。だが、だからと言ってまったく影響がないなんてことはない。どうしても思うところはあるだろう。


 べつに、優衣に裏があると思われているわけじゃない。……もちろん、まったく思われていないわけでもないが、それは今回に限ったことじゃないだろう。

 天使の顔には裏がある。たとえ何の瑕疵がなくとも、俺たちはそう思うようになっている。もしも優衣のことを人伝いに聞いていたなら誰もがそう思うだろう。そんな子が居るはずない。何か裏があるはずだ、って。だってそうだろう? みんなに優しくするだけでは優衣に得なんてないんだから。

 そう思うのはおかしくない。俺たちだって、実際に優衣と接したことがなければそう思うだろう。

 でも、実際に優衣と接したことがあるならば――なかなか、そうは思えない。天真爛漫、天衣無縫、無邪気で明るい天使の光を浴びてなお彼女に裏があるだなんてことは思えない。

 むしろこう思う。こんなに周囲に優しくしても優衣に得はないだろう。なら逆に、そこにどんな裏があると言うのだろうか。自分たちに好かれる? ……それが? それが『裏』だと言うのだろうか。それの何が悪いのか?

 

 きっと、みんなそうだろう。同じように思ってきている。一度は裏があるんじゃないかと思いながらも、実際に接してみるとその疑いは晴れていく。もちろん、晴れないような奴も居るのだろう。あの少女がいい例だ。ゼロにするなんてことは決してできない。


 だから今回、あの少女の言葉によって生まれたように見えるものは――何のことはない。最初から、みんな持っていたものなんだ。

 変わったことがあるとすれば……それは、優衣だ。みんなよりも優衣なんだ。


 結果として、優衣は『学校に来ない』ことを選んだ。……そんなふうに『何かある』ような振る舞いを選択すれば何が起こるか、わからない優衣ではないだろうに。


 そう。『学校に来ない』ことを選んだならば『何かあった』と考えて当然だ。たとえ小さな疑念でも膨らむことはあるだろう。実際、ウチのクラスでもそういうことはある。疑念があったこと自体は変わらない。ただ、少女の言葉によって忘れていたものが掘り起こされた。『裏がある』という方向ではないにしても――『対等ではなかったかもしれない』とは思うだろう。

 少女は優衣が自分たちのことをバカにしていると言った。それは難癖のようだが……言い方を変えれば、納得できないこともない。

 自分たちを対等だとは思っていない。そう言い換えたならば、思うところはあるだろう。


 学校に来ないということは、優衣にも後ろめたいところがある。

 それは実際には論理が飛躍した話なのだが、そんなふうに受け取ることもあるだろう。よく言うだろ? 『そんなに否定するってことは逆に……』なんて話が。否定してもしなくても認めた認定する馬鹿げた話がまかり通っているように、優衣が『学校に来ていない』ことに勝手に意味を読み取る生徒は居る。

 その意味を単に『落ち込んでいるだけ』で済ませられるならいいが……こう思う生徒も居るだろう。


「休むってことは、あの子が言ってたことも本当だったりして……」


 教室で、女子生徒どうしが話していた。大きな声ではない。だから声が聞こえたわけではなく、単に唇を読んだだけだ。


 自分たちをバカにしているとまでは思わない。それは逆恨みのようなものだと俺が思わせた。だが、対等ではないと思っているかもしれない……それを消すことは難しい。

 なぜか。それはもちろん――俺たちの中に、もともとそういう考えがあるからだ。


 天羽優衣は天使だ。文武両道、才色兼備、天使のようにかわいく、天使のように優しい少女。

 彼女に対して俺たちは『引け目』を感じている。彼女は優しい。誰に対しても分け隔てなく接して、目につくすべての人に手を差し伸べる。困っている人が居れば見逃せず、頼まれごとを断ることはほとんどない。代わりにと優衣から何か頼むこともあるが……それは明らかに釣り合ってはいない。釣り合っているように思わせてはいるが、実際はそうじゃない。

 何もなければ『引け目』を感じる生徒は少なかったかもしれない。優衣はそういうふうに思わせている。それを可能にするだけの能力がある。だが、それはあくまでも『紛らわせる』程度のものでしかない。思考の表面に浮かばないように沈ませる。その程度の効力しかないものであり――消すことができるほどのものではないのだ。


 だから、今回のようなことがあれば『浮き上がって』くる。

 天羽優衣は自分たちを対等だとは思っていない。だから天使のように振る舞えるんだ。……誰よりも、自分がそう思っているからそう思う。優衣自身がそう思っているかどうか以前に、自分が優衣を『対等』だとは思えていない。なら、優衣もそう思っていてもおかしくない。


 何のことはない。要するに――クラスにちらほらと見える優衣への疑念は、自分が持つ後ろめたさの裏返しだ。


 そして、優衣も。


 クラスメイトが実際にどう思っているかではない。優衣がどう考えているかだ。クラスメイトへの疑念は、優衣が持つ後ろめたさの裏返しでしかない。


 先日の少女に対して、優衣がどう思っているのかはわからない。ただ、衝撃を受けているようではあった。……まあ、確かに珍しいだろう。ああやって優衣に『直接言う』のは、確かに珍しいだろうと思う。


 しかし、誰にも嫌われない人なんて居ない。いくら善良で何の瑕疵も持たない人でも――だからこそ嫌われることはある。憎まれることはある。

 個人的に、先日の少女のことは嫌いじゃない。言うまでもなく優衣のほうが大事だからあの場は敵対したが……そりゃ、優衣のことが苦手な人くらい居るだろう。見るからにプライドが高そうな娘だったからな。自分より『上』ってだけで目の上のたんこぶのように思っていてもおかしくない。

 人間の感情なんて理不尽なものだろう。俺だってそうだ。どんだけ優しくてもイケメンはいけすかないし、オンナ連れなら死ねと思う。彼女持ちならそれだけで吊るす対象になるし、そもそも俺以外の男が女と仲良くしてるってだけでイラッと来る。下心がなくても伊織に話しかける男子には殺意を覚えるし、優衣に対して逆恨みめいたことを言った女でも女ってだけで割と許せる。


 万人に好かれることができたとしても、一人には必ず嫌われる。いくら優衣が『嫌われにくい』と言っても、それでも苦手な奴は居る。『明るい』のが苦手、『優しい』のが苦手、『かわいい』のが苦手……なんでもいい。人間だからな。好みはある。優衣はその『好みの違い』すらもある程度は凌駕するような怪物だったが、それもあくまで『ある程度』だ。あの少女のように、それでも反感を覚えることはあるだろう。


 さて、ここで一つ問題だ。


 ――こんな当たり前のことを、天羽優衣がわかっていないなんてことがあるだろうか?


 どれだけ優しくても天使でも嫌う人間は居る。そんな当たり前のことを、天羽優衣がわからないか?


 俺はこの人相だ。今までにも怖がられ続けてきたし――人生経験という意味では、そこまで豊富なわけじゃない。そもそも人と関わることがそれほど多くはなかったわけだからな。そんな俺がどこで人間関係について学んだかと言えば……もちろん、創作物だ。


 漫画、アニメ、映画にドラマ、ゲームや小説。そういったものから学んできた。他には掲示板とかSNSとかもあるが……とにかく、そういったものから学んできたわけだ。漫画でもなんでも、こういう『人間関係の問題』なんてものは『ありふれている』ってくらいに描き尽くされている。それを俺たちは知っている。読んでいる。だから『知らない』なんてことはない。


 もちろん知識と経験の間には大きく深い溝がある。それはなかなか埋められないものなのだろう。しかし、それでも優衣はこれくらいのことは知っていたはずだ。いくら人に好かれようとしても、嫌われることはある。苦手に思われることはある。可能な限りゼロに近づけることは、あるいはできるのかもしれないが……それはゼロに近いだけ。決してゼロになりはしない。

 

 優衣はそれを理解している。理解した上で――それでも、落ち込んでしまうものなんだろうか。


 ……いや、それはそうだな。そんなこと、俺がよくわかっていた。


 俺はこの人相だ。怖がられることは当たり前で――それなのに、怖がられたら落ち込んでしまう。怖がられることなんて予想できることなのに、それを嫌だと思っているのに、ろくに対策してこなかった。それどころか、優衣に背中を押されるまでは自分から距離をとっていた。


 きっと、それと同じなんだ。優衣もわかっていたはずだ。わかっていたけれど、でも、実際に『自分に敵意をぶつける者』の存在を前にして――クラスメイトの前で、ぶつけられて。

 知識と経験の間には大きく深い溝がある。優衣は今までにこういったことがなかったのかもしれない。予想はできていたにしても……実際に体験すると、違ったのだろう。


 正論なんて、たいていの場合はわかっている。こんなちっぽけな――俺たちにとっては大きくても、社会から見ればありふれた、ちっぽけな悩みの答えなんて。ちょっと調べれば簡単に出てくるものなんだろう。


『こう考えてみればいい』。そんな言葉はありふれている。慰めの言葉も、前向きになるための言葉も。有名な哲学者の言葉でも、今までに読んだ漫画の名言でもなんでもいい。そんな『答え』は、たいていみんな知っている。


 なら、そんな言葉なんて――わかりきっている、ありふれた言葉なんて、伝える必要はないのだろうか。


「……そんなこと、ないよな」


 にゃあ、とバズ子が鳴いた。帰宅後、ぴょんと腕の中に飛び込んできた黒猫さんを抱きしめる。


「俺も、そんな言葉に救われた。……でも」


 優衣がそうかはわからない。


 言葉には力がある。俺はそれを知っている。たとえありふれた言葉でも――誰かに言ってもらえるということには意味がある。明確に『自分に対して向けられた言葉』ということには意味がある。


 それだから、まったく意味がないとは言わない。優衣にも、届くものはあるはずだ。


 ただ、それだけで優衣が『気にしない』なんてふうになるかと言えば……。


「難しいよなぁ」


 はぁ、とため息をつく。にゃ? とバズ子さんが首を傾げる。元気出して、とでも言うようにぽすぽすと俺の頭を叩く。


「ありがとう、バズ子。……じゃあ、優衣はどうすれば元気になってくれるんだろうな」


 どうすれば、優衣は元気になってくれるんだろうか。天使に戻ってくれるんだろうか。


 逃げてもいい。頑張らなくてもいい。そう思う。でも……これは、違うだろう。


 優衣は今も苦しんでいる。逃げられてなんていやしない。


 いつかのことを思い出す。俺の腕の中に居る黒猫さんを拾ったときのことを思い出す。配信を始める前の少女のことを思い出す。手遅れになった肉親のことを思い出す。


「にゃあ」


 バズ子が鳴いた。


「……だよな」


 二度と元には戻らないものもある。


 それは後味が悪い。契約もある。俺は優衣を甘やかさなければいけない。あれだけいい条件のバイトなんてなかなかないだろう。


 そして、もちろん下心もある。


「落ち込んだところを助けて惚れられる……なんて、使い古された展開だからな」


 そう、だから純粋な善意なんかじゃない。


 俺が今からやろうとしていることは下心あってのことで――見返りを期待してやることだ。


 何の見返りも期待しないなんてことはできない。あげたぶんを返されなければ不満に感じるのが人間だ。俺は天使じゃない。クズでもない。ただの、どこにでもいる人間だ。


 もっとも、優衣には何も言っていないのでありがた迷惑に思われるかもしれないが――状況が状況だ。押し売りしてやる。


 さて、そうと決まれば動かなければいけない。遅くなればなるほど戻りにくくなる。可能な限り早いほうがいいだろう。伊織に連絡、ああ、アオイにも連絡するべきか。やることを考えると協力者は多いほうがいい。親衛隊も動かすか。それから……演劇部の力も借りるか。


 そして、最後に。


「優衣に電話しておこう」


 さあ、商談の時間だ。

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