第31話 side:天羽優衣
『一日だけなら』と思ってしまった。
優衣が学校を休んだ理由は単純なものだ。周囲の目が怖かった。それだから学校に行きたくなかった。それだけのことだ。
行こうとは思っていた。行かなくちゃ、と思っていた。だが、登校時間が近づくにつれてどんどん不安が膨らんでいった。
クラスメイトのことを思い出す。キリちゃん――自分のことを嫌っていた少女のことを思い出す。彼女に言われた言葉を思い出す。それからのクラスメイトのことを思い出す。
クラスメイトのことを思うと息苦しくなった。週末、普段なら通知で溢れるスマホはほとんど鳴ることがなかった。斎賀くんや、他に数名の生徒からメッセージはあったが……それくらいだ。心配のメッセージや、そういったことを一切出さない、いつも通りを装ったようなメッセージ……だが、そこにも気遣いの意図が含まれていることは優衣にはわかった。わかってしまった。だと言うのに、うまく返すことができなかった。
斎賀くんは『甘やかし』の話題を出してくれた。その申し出は――正直に言うと、縋りつきたくなるほどに魅力的な申し出だった。
……でも、今の自分は、甘やかされてもいいのだろうか。
そう思うと、手を出せなかった。結局、その申し出も断ってしまって……そのことに、すぐに後悔なんて覚えてしまって。自分で自分が情けなくなってしまったくらいだ。
周囲の目は変わっている。いつも通りを装ってはいるが、間違いなく変わっている。
そんな状態の、学校に――想像するだけで、きゅうっと喉が狭まったような感覚を覚えた。息苦しい。陸の魚みたいに酸素を求めて喘ぎながら、優衣はその場でうずくまった。
登校時間が近づいている。このままじゃダメだ。早くもとどおりにならないと。そう思って、なんとかして洗面所に向かった。
そこには、見たことがない真っ青なかおをした少女の姿があった。
「……あ」
血の気が引いた。……こんなかおで、私は、学校に行こうとしていたのか。ずっと、こんなかおをしていたのか。
……顔色を戻す。意識すれば、それができる。だがその瞬間、今までにない息苦しさが優衣を襲った。
こんな状態で、学校に? ……逆効果なんじゃないのか。こんな姿を見せるくらいなら、いっそのこと――
そう、そうだ。一日だけ……一日だけなら、それほどおかしくはないだろう。優衣だって体調を崩すことはある。それに、一日休めば調子も戻るはずだ。明日には元気な顔を見せれば、きっと……。
そう思って、優衣は学校を休んだ。休んで、しまった。
週末の二日間で戻らなかったものが一日休んだだけで何か変わるわけでもないことに気づいたのはその日の正午にもならない頃のことだった。休みの連絡を入れて、少しだけ楽になって――すぐに、不安が優衣を襲った。
この状況で学校を休むなんて何かあったと喧伝しているようなものだ。周囲の目はますます厳しくなるかもしれない。そう思うのが自然だ。それなのに、どうして私は逃げてしまったのか。……明日は、絶対に行かなくちゃいけない。両親にも不審に思われるかもしれない。その前には、必ず。
しかし、翌日になっても優衣は学校に行くことができなかった。体調が悪いと両親には伝えたが――過保護なきらいのある両親だ。病院に連れて行かれそうになってしまった。それは固辞したが……これ以上長くなれば、ごまかすことはできないだろう。明日こそ、絶対に行かなくちゃ――
自分自身にプレッシャーをかける。行かなくちゃ、行かなくちゃ、行かなくちゃ。しかし、いくらそう思っても足が竦んで動かない。学校に行くことを考えると息苦しくなって――休むことを思えば同じように息苦しくなってしまう。身体が重い。空気が重い。息が重い。心臓も肺も押しつぶされているかのように苦しかった。
そして、また休んでしまって……病院に連れられて。
精神的な不調が体調面にも影響していたのかもしれない。幸か不幸か、軽い風邪と診断された。それでも両親は愛娘が体調を崩したからと仕事を休もうとまでしていたが、今でさえ罪悪感が身を蝕むほどなのだ。それだけは断固として譲ることなく、大丈夫だからと出勤してもらった。
だが、いくら軽い風邪だと診断されたとは言っても……仮病に近いことには変わりない。
両親のことをまた騙してしまった、また、また、騙している。学校も、家も、誰のことも……みんなのことを、騙している。
学校を休んで、いったい何が改善するのだろうか。……何も改善することはない。状況は変わらず、むしろ悪化していく。
その現実から逃げている。
逃げた先にも、変わらず現実はそこにあるのに。
逃げて、逃げて、逃げた先にも……現実は、目の前に横たわっている。
そんなときだった。
「……斎賀、くん?」
彼から、着信があったのは。
*
その着信を受けるかどうかは、迷っていた。いったいどんなことを言われるのか。そう思うと、こわくて、こわくて……でも、今までの彼のことを思えば。
縋るように、着信を受ける。
画面に触れた瞬間、優衣は自分で自分が情けなくなった。……ほんとうに、自分のことしか考えていない。浅ましくて、卑怯で、みにくい。
彼との通話ではほとんど言葉を発することができなかった。彼は『不安なのか?』と推察していたが、そんなようなものだ。何を話せばいいのかわからなかった。彼以外の誰かが居るなどとは予想もしなかったが……言われてみれば、確かにその可能性もあったかもしれない。ただ、優衣は慎一郎がそんなことをするとは思ってもみなかった。
それから彼が話し続けたことは……優衣にとって、必ずしも予想ができていたことではなかった。
責められるかもしれないと思っていたが、同時に励ましてくれるだろうとも思っていた。優しくしてくれるだろう。甘やかしてくれるだろう。……許してくれるだろうという期待がなかったと言えば嘘になる。
彼は言った。『ああいうふうに思われることがあるだなんて、優衣が予想していなかったわけがないだろう?』と。
実際に経験したことがなくとも、創作物の中では『何の落ち度がない』者であっても嫌われることがある。誰にも嫌われない人間なんて居るはずがない。理不尽な逆恨みなんてものはどこにも描かれているものであり――それだから、優衣が予想していないわけがない、と。
にも関わらず優衣が今回の件に対してうまく対応できなかったことに対して、慎一郎は『予想していたとしても実際に経験すると動揺するもの。知識と経験は異なる』といった解釈をしていたが……そもそも、だ。
そもそも、優衣は『何の落ち度がなくとも嫌う人は居る』なんて当たり前のことを予想してなんていなかった。
慎一郎から言われて『その通りだ』と思ったほどだ。考えてみれば当たり前の話なのだが、優衣は自分が嫌われる――嫌われているだなんてことを考えたこともなかった。本来の自分であれば嫌われて当然だが『天使』であれば、嫌うような人間が居るはずがない……どころか、そもそも『嫌われる』という発想自体が頭になかった。
だから、あの少女に嫌われたのも『本来の自分』を知られたからだと考えていた。その可能性は依然としてあるものの『理不尽な逆恨み』という慎一郎の言葉は、優衣の中にすとんと落ちるものがあった。
天使であっても嫌われないなんてことはない。……言われてみれば、ほんとうに当たり前の話だ。現実でどうであれ、創作物の中ではしばしば描かれているそんなことが、どうして今まで頭になかったのか。
……いや、きっと自分で頭から追いやっていたのだろう。天使である自分が『嫌われる』ということは自分にとっては理外のことだった。だから知っているのに知らなかった。
そして――その後に言われたことも、優衣にとっては予想外のことだった。
慎一郎は言った。
『だって、優衣は愚痴を言うことはあるが――それでも、天使みたいな性格をしてるのは変わりないだろう?』
と。
そんなことを言われるとは思わなかった。優衣にとって、天使じゃない自分は性格が悪いということは疑う余地もないことだ。
私の性格が、悪く、ない?
それは信じられないことだった。しかし、慎一郎の言葉を聞いて……少なくとも、彼は心からそう思ってくれているのだということがわかった。
思わず、視界が涙に濡れた。あふれだすものを抑えることができなかった。
斎賀くんは、私のことを知ってなお、私のことを好きだと言ってくれる。慰めてくれる。甘やかしてくれる。許してくれる。
だが。
――果たして、自分はそのようなことを言われる資格があるだろうか?
「っ……」
優衣は自分が過去に慎一郎をどう思っていたかを思い出した。彼のことをどう思って――彼に、何をしたのか。
慎一郎は言った。優衣は誰のことも嫌っていない、と。文句こそ口にしていたが、誰かを貶めるようなことは言っていない。そんなことを言っていた。
だが、それは反証できる。できてしまう。他でもない、慎一郎がそうだからだ。
……優衣は、慎一郎を嫌っていた。それも自分が直接に害されたからではない。ただ『自分とは違って自由に生きているように見えた』からだ。
そう、思えばこれこそ理不尽に嫌うということじゃないか。何の非がなくとも、人は人を嫌うことがある。……まさしく自分がそうだったにも関わらず、私はその矛先を自分に向けられるだなんて夢にも思わなかった。なんて滑稽で、なんて醜悪なことだろうか。
それだけではない。優衣は慎一郎に対して害意を持って接したことがある。
――みんなも斎賀くんのことを知れば、きっと好きになると思うな。
そんなこと、露にも思っていなかったくせに。
むしろ、さらに嫌われる可能性もあったかもしれないのに……優衣は、自分を心配してくれる彼に対して、そんなことを言ってしまった。
結果的に、それは良く働いたのかもしれない。だが、それはあくまで結果論だ。結果的にそうなった以上の意味はなく……優衣に害意があったことは変わらない。罪は消えない。優衣の心にべったりとこべりついている。
だから、謝罪した。懺悔した。自分は彼に好かれるような人間じゃない。好かれてもいい人間じゃない。
今度こそ、嫌われてしまうと思った。自分の本性を知りながらも自分を好きでいてくれる唯一の理解者――いや、今までは彼のことすら騙していたのだ。この言い方は適切ではないのかもしれないが……優衣にとって、唯一とも言える拠り所が彼だった。
今まで私に優しくしてくれた。甘やかしてくれた。許してくれた。
そんな彼に今度こそ嫌われてしまう。見放されてしまう。見捨てられてしまう。
当たり前だ、と自分を叱咤する。……当たり前の、ことなんだ。だって、私はこんなにもみにくい。彼に好かれる資格なんてないのだから、こうなるのが当たり前で、ずっと、こうなるべきだったんだ。
……そう、思っているのに。
ぽろぽろと、涙がこぼれ落ちる。
止められない。抑えられない。
通話中だ。彼に察されてはいけないと懸命に音を出さないようにと努めてはいるが、あふれる涙を止めることはできなかった。
締め付けられるような激情に、涙が、熱がせり上がってくる。押し出されて、ぽろぽろとあふれる。瞳から熱が咲き、涙の花弁が頬を転がり落ちていく。
「ごめん、なさい……」
最後にそう口にして、優衣は黙った。何も言うことができなかった。これ以上、口を開くことができなかった。……きっと、声が変わっている。声が、震える。彼に泣いていることを察されてはならない。自分は同情される資格もない人間だ。同情されてはいけない人間だ。だから、懸命に音を殺す。
しばらくの間、彼も声を発することはなかった。……やっぱり、もう。
そう思いながらも、通話を切ることはできなかった。彼からの言葉を待つ。それは断罪の言葉を求めていたのか、あるいは――この期に及んで、なおも望みを捨てられていなかったのかもしれない。
そして、永遠にも近い数秒の逡巡を経て、彼が口を開く。
言葉を発するために息を吸って――思わず目を閉じて、その時を待った。
彼は言った。
「えっ……あー……そっ、かぁ……」
と。
「………………えっ?」
思わず、そんな声が口から出た。
予想していたどんな言葉とも異なる、煮えきらない反応だった……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます