第18話 side:天羽優衣

 慎一郎は声が良い。優衣好みの声をしている。声優だったとしたら推していたかもしれないくらい好みだ。


 慎一郎と契約するまで優衣の息抜きはアニメを見ることくらいだった。それに関しては隠していない。アニメや漫画といったものが好きなクラスメイトは多い。天羽優衣は天使である。彼女は万人に等しく接する。親しい友人の趣味についての知識は持っていてもおかしくない。それだから彼女がアニメや漫画に親しんでいてもおかしくはない。もっとも、それがどれだけの『深さ』なのかはあまり知られていないだろうが……。


 先述の通り、優衣の息抜きはアニメを見ることくらいだった。ずっとそうだった。それが何を意味しているのかわかるだろうか。天使である彼女には余暇が少ない。スケジュールに遊びは持たせているがその程度。あまり時間を費やすことはできない――が。

 アニメや漫画程度であればその『隙間時間』に嗜むにはもってこいだ。スマホ一つあればどこでも見れるしどこでも読める。物心ついた頃からモデルをしていることもあり、お金に関しては心配の必要がない。彼女の限られた時間を思えばお金よりも時間が足りないと言うべきだろう。

 逆に言えば……彼女は限られたその時間のほとんどすべてを『それ』に費やしていたと言っても過言ではない。一つ一つの隙間は小さくとも、それが集まればどれだけの量になるか。


 要するに彼女はオタクだった。昨今の音声市場の拡大を知り『これは……いや、でも聴く時間が……』と悩んでいるタイプのオタクだ。好きな漫画に出てくるヒロインの一人が『ひたすら自分を肯定してくれるタイプの音声』を聴いており、その描写から『そういうものがあるんだ……!』と衝撃を受けてからずっと気になっていたタイプのオタクである。と言うか調べた。マジであった。えっ、あのキャラを演ってた声優さんのもある……。へぇ~……。あ、動画も……ASMR配信……? そういうのもあるんだ……。そんなふうに思って調べて悶々としていたタイプのオタクだ。慎一郎との契約がなければいつか買って聴いていたかもしれない。あるいは好きな配信者がそういう配信をした場合は聴いていたかもしれない。それくらいには興味があった。


 そして今、優衣は直に好みの声で甘やかされている。


「優衣はほんとうにいつも頑張ってるね。ずっと見てるから知ってるよ。頑張り過ぎで心配なくらいで……でも、君のことだから大丈夫だろうって思ってた。ごめんね。気づけなくて。大丈夫なはずがないのにね」


 声が響く。脳に響く。いつもより甘く優しい声。やはり好みの声だ。そう思う。だから、あのときも涙なんて流してしまったんだろう。


 思い出す。斎賀くんに素顔を知られてしまった日のことを思い出す。


 ――天羽さんは、頑張ってるよ。


 そう言ったときの彼の顔を思い出す。彼の声を思い出す。優しくて、でも、辛そうで。あるいは私よりもずっと苦しそうで――……最初は気遣われているんだと思った。何を心にもないことをって。

 彼に下心があることは知っていた。性格も良くはないだろう。自分が勘違いで脱ごうとしてからも誤解をホテル街に着くまで解こうとしなかったくらいには趣味が悪い。それだから慰めの言葉も下心からのものでしかなくて……本心なんかじゃ、ないんだって。そう、思おうとしていた。

 でも、そうじゃない。そうじゃないって、わかってしまった。だってあまりにも苦しそうで――嘘をつく余裕なんて、とてもあるとは思えなかった。私の素顔を見て、知って……それで、本当に心配してくれているんだって。本当に、私のことを考えてくれているんだって。私の素顔を見た上で、そうしてくれているんだってわかったから。


(……待って。待つのよ、私。騙されちゃダメ。だとしても、斎賀くんは善人なんかじゃないんだから)


 優衣は首を振って思考を軌道修正しようと試みる。甘やかしてほしいとお願いしたときも一度は断られただろう。……いや、あのときはあの流れで断られるとは思わなかったから本当にびっくりした。ほんとに? 今の流れで断る? お願いしてる側ではあるけど『俺を利用すればいい』なんて自分から言っておいて? 

 思い出すとムカムカしてきた。優衣の唇がキュッと上がる。


「うん? どうしたの、かわいいかおして。……もっとこっちに集中してほしいな」


「っ……ひゃ、はい」


 奥のほうからせり上がって来ていたムカムカが一瞬で解けて下がっていく。代わりに熱が頭に上がってくる。好みの声で囁かれると恥ずかしくなってくる。自分から望んだことではあるけれど……それもこれも、斎賀くんの声が好み過ぎるからだ。


 キッと優衣は努めて慎一郎を睨んだ。彼は一瞬だけ目を丸くして、すぐにやわらかく微笑む。


「その顔もかわいい。天使モードのときもかわいいけど……今の優衣も魅力的だ。そんなかおして、甘やかしてほしいだなんて思ってるんだから」


 う、と言葉に詰まる。その通りだ。いくら不機嫌そうにしていても優衣が『甘やかしてほしい』と考えていることに変わりはない。そんなことを考えている者がいくら不機嫌そうにしてみせたところで滑稽なだけだろう。それでも甘やかしてほしいことは撤回しないし、開き直りたいところではあるが……優衣にも羞恥心はある。


「照れてる。かわいい」

 

 くっちっにっ、出すなぁ〜! 優衣は頬に上がってくる熱を感じながらそう思った。わざと? わざとだろう。彼は自分を辱めるつもりなのだから。そうすることが『甘やかす』ことだと……恥ずかしい姿を見せた上で『肯定される』『受け入れられる』ことこそが私の求めているものだと彼は言った。めちゃくちゃ失礼だと思う。思うが……優衣は否定できなかった。彼女は聡い少女である。以前慎一郎に言われた分析――自分の仮面が『自己否定』から来るものだということに対しても一理あると考えている。しかしそれは自分を肯定してほしくないというわけではない。その上で、そのダメな自分を『受け入れられたい』。それこそを求めているのだと言われてしまえば……否定することはできなかった。


 そもそも優衣は『甘やかされたい』と考えていることに関しても『恥ずかしい』ことだと理解している。子どもっぽい、甘えた考え……。『甘やかされたいと考えるくらいはいいだろう』とは思っている。思おうとしている。だが、それでも恥ずかしいことは恥ずかしい。情けないことは情けない。優衣はそう考える。


 その上で優衣は『甘やかしてほしい』と慎一郎に契約を迫った。それだけ限界だったから――かと言うと、優衣にはその自覚がない。愚痴を言ったり、甘やかされたり……『だめになりたい』という欲はあった。天使じゃない時間が欲しい。そう思ってはいたものの、必要に迫られているだなどとは思わなかった。そもそも、物心ついてから『天使じゃない』顔を誰かに見せたことなんてなかったのだから。今こうして理想のシチュエーションで甘やかされているのと同じで『こんなことができればいいな』と夢想していたに過ぎない。……優衣にとって、誰かに『天使じゃない』顔を見せることは現実的な欲求ではなく、まさに『夢想』するものでしかなかった。空からお金が降ってこないか、宝くじが当たらないか、白馬の王子様が迎えに来ないか、自分のことが大好きな美少女がどこからともなく出現しないか……優衣にとってはそういったカテゴリに当たるものだ。


 だから、優衣には自分が限界だったなどという自覚はない。慎一郎に契約を迫ったのも単に『どうせバレてしまったことは変えられないのだから、せめて利用する方向に考えよう』という彼の提案に乗ったに過ぎない。

 

「優衣は、いつも頑張ってるんだから。……俺の前でくらい、だめでもいいよ」


 耳元で囁く。その声に溶ける。……そうだ、これは彼を利用しているに過ぎない。その対価は渡している。彼が優しいわけじゃない。


 それなのに心臓がバクバクと暴れているのは、すべて彼の声が好みだからだ。


「だめになろう」


「なります……」


 へなへなの声で優衣は答える。不可抗力である。好みの声でそんなことを言われてしまえばだめになるしかない。好みの声なのだから仕方ない。……斎賀くんがどうとかではなく、あくまで好みの声だから、だ。


「優衣、優衣。だめな優衣。……だめなんだから、好きにしていいよ。してほしいことがあれば、なんでも言えばいい。恥ずかしいことでも、なんでも言って。恥ずかしいことを言ってみよう」


「……な、撫でてほしい」


「うん。よくできました。えらいえらい」


 褒めてくれる。撫でてくれる。それだけのことが、たまらなく恥ずかしく――同時に、溶けてしまいそうな気持ちになる。

 優衣は――天使としての顔のときは――スキンシップが多く、また距離感が近いタイプだ。女子生徒から撫でられるようなこともある。男子生徒とは(それでも近いが)一定の距離を保っているのでそういったことはないのだが……。そう考えると、男性の手というのが大きいのかもしれない。きっとそうに違いない。


「他には? ……なんでもいいよ。優衣はいつも頑張ってるんだから。だめになって、甘えればいい。恥ずかしいところをいっぱい見せて。そのぶん甘やかしてあげるから」


 わがままを言って。もっともっと。いつもは言えないことをしよう。みんなには言えないことをしよう。


 他の誰にも見せられないところを見せてほしい。


 だめでもいいよ。


 だめになろうよ。


(……悪魔の誘惑みたいね)


 優衣は思う。それじゃあ、彼と結んだのは悪魔の契約だったのだろうか。


 堕落を促す悪魔の囁き。しかし、それを望んだのは自分だ。……それこそ、自分が望んでいたことなのだろう。


 天使じゃない時間がほしい。それはつまり、堕天したいということに他ならない。


「……膝枕とか、してほしい」


「うん。よく言えました。えらいえらい」


 わがままを言うと褒めてくれる。ほんとにだめになりそう。……だめになるんだ。今だけは。それを彼は許してくれる。そんな私を、受け入れてくれる。


(……無償で、じゃあないけれど)


 あくまで『お金を払っているからだ』と優衣は思う。それだから彼はこんな自分も受け入れてくれている。そう、そうだ。……そう、なんだけれど。


 それもこれも、彼が好みの声をしているからだ。


 ……優衣は聡い少女である。人の言葉が文字通りの意味しか持たないなどとは思っていない。斎賀慎一郎が対価を要求した理由を『現金な男だから』なだけであるなどと、心の底から思っているわけではない。


 天羽優衣は天使である。天使であるかのように『振る舞っている』。

 天使としての彼女の目的はなんだっただろうか? 彼女は慎一郎に語ったことがある。『みんなと友達になりたい』。それは決して純粋な気持ちから出たものではない。しかし、だからこそ――それが夢などではなく『現実的な目標』にできるということは、どういう意味を示すだろうか。


 決して自然体ではなく、意識的に『そうしている』ということは、いったい何を示すだろうか。


 優衣は慎一郎と『時給2000円で甘やかしてほしい』という契約を結んでいる。決して無償ではない。善意だけのボランティアというわけではなく、対価を支払って甘やかしてもらっている。だから、慎一郎が『優しい』わけではない……そう思おうとしている。


 だが、優衣は知っている。彼女は優秀な少女だ。学業に限らず万事を卒なくこなすことができる。努力を一切しないわけではないものの、他者よりもずっと少ない努力で様々なことを習熟することができている。そんな彼女が最も努力していることは何だろうか? そう、『天使』を演じることだ。

 器用貧乏どころではなくすべてにおいて一芸特化にも思えるほどの能力を示す彼女の、その中でも特筆して秀でている能力――それが『人心掌握』だ。端的に『人に好かれること』と言ってもいい。

 それを『意識して』こなしている彼女が、慎一郎が『対価を要求した』ことの意味を単に『お金にがめついからだ』と思うだろうか?


 天羽優衣は天使である。彼女は聡い少女である。

 いくら『お金目当て』だと思おうとしても……その裏にある意味を見逃すことはできない。


 優衣にだって経験がある。ほとんどの人は『もらう』だけでは満足できない。後ろめたさを感じてしまうものだ。実際にどうであるかに限らず『対等』であることを求める。『やってあげる』だけではいけない。『してもらう』ことも重要だ。

 貸し借りなしの関係にしようと優衣のほうから簡単な頼み事をすることはよくあることだ。人はただ『やってもらう』という関係に耐えられない。それを続けていれば後ろめたさを抱かれるし――あるいは反転して憎悪を抱かれる可能性すらあるのだ。優衣はそれを知っている。一方的な施しではなく『おたがいさま』であることこそが肝要だ、と。


 それを知る優衣が彼を『お金目当てだろう』などと思うだろうか。そんなことを思えるだろうか。

 できるわけがない。いくらそう思おうとしたところで、彼女はそうは思えない。

 自分を気遣ってのことだろうと理解する。引け目や後ろめたさを感じさせたくない。『貸し借り』のない関係で居たい。そんな気遣いを読み取ってしまう。

 時給2000円というのは安い金額ではない。その金額を提案したのは――そもそも、契約に金銭を絡ませることを提案したのは優衣からだが……慎一郎の誘導がなかったとは言えないだろう。

 優衣はそういう考え方をする。自分ならそうすると思うからだ。もっとも、自分ならもう少しうまくすることもできるだろうが……。


(……でも)


 天羽優衣は天使じゃない。


 素直に感謝することはできない。慎一郎を単に『お金にがめついだけ』だと思うことはできないが、同じように『優しい』とだけ思うこともできなかった。


 だから彼女はこう思う。


(それもこれも、斎賀くんの声が好みだから)


 だから、自分はこんな気持ちなのだ、と。彼に対して今までに抱いていたものとは違う感情を抱いているのは、単に彼の声が好みだからだ。努めてそう思おうとしている。


 もちろん、聡い彼女がそれに無自覚であるはずがない。声が好みであることは事実だが、言い訳に近いことも理解している。


 慎一郎のことが嫌いだった。そう、嫌いなはずだ。自分とはまるで違う彼のことが、私は嫌いなはずだったのに――


 今でも嫌いなところをいくつも挙げることはできる。今の自分はそんな彼のことを利用しているに過ぎない。お金を払っているんだから。感謝が不要とは思わないが、過剰なまでにありがたがるべきではないだろう。そう、思おうとしているのに。


(……こんなに、胸があたたかいのは)


 撫でられている頭よりも、膝に乗せている頭よりも――ずっとずっと、胸の奥があたたかいのは。


(……ぜんぶ、声が好みだからよ)


 それだけだ、と優衣は思う。ずっとしたかったことをしてもらっている。さらに声まで好みなんだ。だから、こんな気持ちになっても仕方がなくて――決して『慎一郎だから』そう思っているわけじゃない、と優衣は思う。


「……優衣」


 声が。優しい声が、耳に響く。


「なにか、また考え事してる? だめだなぁ。優衣は甘え方がわかってないね。こういうときは、何も考えずに甘えればいいんだよ。難しいかもしれないけれど……せっかく、同級生の男子の前で、こんなだらしない姿を見せてるんだから」


 だらしない姿、と言われて今の自分の格好を思う。……確かに、だらしない姿だろうと思う。同級生の男の子に膝枕されて、頭を撫でられて……顔に熱が上ってくる。あれだけ『だめになろう』だなんて手を引いておいて責めてくる。恥ずかしがらせるためだろう。性格が悪い。優衣はほのかに赤く染まった顔で慎一郎を睨んだ。彼は微笑む。


「ほら、かわいい。それでいいんだよ。それがいいんだ」


 そう言って、彼は紙束を撫でていないほうの手に取った。


「じゃあ、優衣のお願い通り、これからこの台本を読ませてもらうね。優衣が言ってもらいたいことを詰め込んだ、とっても恥ずかしい台本を」


「……え?」


 そう――そうだ、そもそもはそういう依頼だった。慎一郎が思っていた以上にうまくて流していたが……いや、本当にうまいわよね斎賀くん。今までのぜんぶアドリブ? 詐欺師だのなんだの言われていることは知っているけれど、本当にそういう職業に就けるんじゃないかしら。ちょっとこわいまである。


 目を丸くして優衣はそんなことを思った。同時に、胸の奥でドキドキと心臓が浮足立っているのを感じる。


「……そんな期待してるかおして。甘えんぼさんだなぁ」


「ひゃい」


 優衣の口からそんな声が出た。


 彼女は色々と面倒くさいことを考えていたが――重度のオタクである彼女の思考を一言で表すなら、だ。


『この理想のシチュエーションを心ゆくまで堪能するための言い訳』


 ということになる。


 乙女心は複雑なのだ。


 面倒くさいとか言ってはいけない。




 言うなら『そういうところもかわいいよ』って言ってほしい。

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