♯ 名前を呼んで ♯

 休み明けのテスト勉強を一緒にしようと葵ちゃんに図書館に誘われた。

 葵ちゃんに会うのは動物園以来だ。もちろん二つ返事でOKして、いそいそと出かけていく。


(お土産も忘れずに)


 9月に近付いても、外はまだまだ暑い。

 寮からも学校からも近い場所にある市立図書館までの道は青々としたプラタナスの並木が続いていて、ほんの少しだけど暑さを和らげてくれる。木陰に入れば、吹き抜ける風が一度汗をかいた肌の上を心地よく撫でていく。

 今日は名前を呼んでくれるだろうか。少しワクワクして、歩く速度が上がる。


『名前は大切なものよ、綾人。その人の人格そのものを表すの』


 母はよくそう言っていた。演奏旅行について色んな国を巡った時に、外国の人と接していると、ファーストネームでお互いを呼び合うことも多かった。

 それは子供の頃から馴染んだ習慣で、僕が人見知りの割に葵ちゃんのことを名前で呼んでいるのはそういう経緯もあるのかもしれない。

 内心、先輩方を呼んでいるひどいあだ名は置いといて……。


 名前を知った途端、「それ」は明らかに見える「もの」になる。プラタナスに名前がなかったらただの樹木だし、僕はただの哺乳類だ。

 名前のお陰でそれを認知することができ、人に伝えることができる。だからこそ深く掘り下げて意味を知るのは重要だ。


 プラタナス (Platanus)、大きな葉・広い (platys)、 花言葉は「天才」「好奇心」。古代ギリシャのプラトンがプラタナスの木陰で哲学を説いたのが由来。

 和名は篠懸すずかけ、山伏が胸に装着する「結袈裟」につける球形の梵天に、果実が似るところからきている。


『名前は共通認識を得る為に必要なものだ。だから人のものも自分のものも大切にしよう』


 父は、旧約聖書の「創世記」中に登場する「バベルの塔」の話をしてくれた。人間が天にも届く塔を建設しようとして神様にそれを阻まれて失敗する物語。

 神様が建設を阻止した方法は「言語」。「人間は言葉が同じな為、このようなことを始めた。人間の言語を乱し通じない違う言葉を話させるようにしよう」。

 すると、言葉を乱された人間は混乱し塔の建設をやめ、世界各地へ散らばっていった。


 学校に通い始めるまでは、両親は音楽だけじゃなくて、物事の背景にある難しい話もきちんと僕に伝えようとしていた。

 当時の僕には難しくてよく分からなかったけど、最近はなんとなく理解できるような気がする。

 名前を呼ぶから、人を大切に出来るのだ。ああ、でも逆かもしれない。名前を呼ぶだけで温かい気持ちになるのは、その人のことを大切に思えるからだと思う。葵ちゃんの名前を呼ぶたび、心が綻んで温かい気持ちが胸を満たす。


『音楽は見えないものと心で繋がる手段なのよ』


 そう、祖母が言っていた。音楽の音には名前がないけれど、楽 (樂)という字はドングリをつけた木を表した象形文字であり、そもそも「樂」という文字単体で音楽を意味しているのだという。ドングリは神事の時などに鳴らす神楽鈴の元にもなった。

 日本の音楽は元々自然との調和や見えざるものと繋がる手段であり、「神との結びつき」=「自然との調和」が「音楽」とも言える。


『色即是空、空即是色は宇宙の全ての実体は単なる錯覚であると言っているんだ。人間が知覚しうるもの「色」を全て否定したものが「空」だよ』


 金田先輩の言葉も蘇る。「しき」、そして「くう」、認識できる「ルーパ」から実体のない「シューニャ」。

 様々な物体として存在しうる「空」が変化したら、それぞれ個性を持った「色」になる。僕らは音に言葉を乗せて、色を付ける。

 最近得た知識だけど、それは昔から両親、祖父母の教授を受けてきた僕の頭にすんなり馴染む。些かこじつけじみているけど、もしかしたら音楽と宗教は似たものなのかもしれない。


『音楽は緻密な計算に基づく学問でもある』

 

 西洋の音楽へのアプローチは日本とはちょっと違うけど、その起源は古代ギリシアに遡ると祖父が教えてくれた。

 自然を計測する学問として、4科 (quadrivium《クアドリウィウム》)、つまり「算術」「幾何学」「天文学」、そして「音楽」が設定された。

 例えばharmony《ハーモニー》の語源は、ギリシア神話の女神「ハルモニアー」からきている。「ソプラノ」「アルト」「テノール」「バス」など、どう組み合わせれば美しい響きになるかを勉強する学問の和声ハーモニー。自然を分析しようという試みは神話の中からも見つけられる。


There once was note,pure and easy

音があった 純粋で優しい音

Playing so free like a breath rippling by

自由に奏でた そよいでいく吐息のように

The note is eternal,I hear it,it seems me

その音は永遠 俺はそれを聞きそれは俺を見る

Forever we blend and forever we die

永遠に俺達はそれを混ぜ合わせ 永遠に俺達は死ぬ


 そしてピート。僕の神様。僕の苦しみも、恐らく死ですらも「空」だ。僕を育んだもの、僕を形作る「空」と「色」。僕をバラバラの粉々にして音の高みへと舞い上げる。


Who are you?

お前は誰だ?

Who, who, who, who?

誰だ?誰なんだ?


I know there's a place you walked

君の歩いた場所があることは知ってる

Where love falls from the trees

木々から愛が落ちてくる場所


Who are you?

お前は誰だ?

Who, who, who, who?

誰だ?誰なんだ?


 分からない。僕はまだ何者でもない。こころをどんな風に繋いでいくか、今ある暮らしをどんな未来に繋げていくか、それは僕の学び次第だ。


(早く葵ちゃんに会いたい)


 駆け出す勢いで歩いていた僕の目の前に、白い陽光が弾ける。並木道の途切れた風景の向こう側、揺らめく陽炎の中に、赤いワンピースを着た葵ちゃんの姿が見える。

 息を切らす僕に向かって、彼女は輝くような笑顔で手を振って、溌溂とした声で僕の名前を呼んだ。


「綾人くん!」


 自分の名前がこれほどまでに美しく響くのを聞いたのは初めてだった。ただの音の響きが鮮やかな色を付ける。感動と誇らしさに胸が震え、なぜか少し泣きそうになる。


 僕はゆっくり息を整えながら、彼女の名前を大切に声に乗せた。


「葵ちゃん、お待たせ」



◇◇◇◇◇



【後記】


方倉少年の心象風景。(ポエミー)


【曲】


『Pure And Easy』1974年

『Who Are You?』1978年

The Who

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