♯ 如来さまにお願い【中編】 ♯

 ふわり、と漂う蠱惑的な花の香りが、僕たちの鼻先を掠める。


 僕と葵ちゃんは、適当に逃げ込んだ空き教室の後ろに隠れていた。一か所に集められた机の陰にしゃがみ、黒板の近くで繰り広げられる男女の秘め事に赤面しながら、ここからどうやって抜け出そうかと顔を見合わせていた。


 控えめな光沢の朱子織サテンに覆われた広い背中、長身の足元まで覆う黒いマントの陰から漏れる水気を含んだ音、微かな衣擦れ。

 密やかに交わされる言葉はくぐもっていて耳に届かないけれど、時々聞こえてくる乱れた息遣いや背後からでも窺える不穏な動きは何をしてるか明らかだ。


 今見つかったらお互いものすごく気まずいことは分かる。これは遭遇したくない場面NO.1だ。

 ましてやそれが顔見知りだったらなおさら。




 あれから、なんの解決策もないまま、文化祭の1日目が始まった。


 古川先輩は少しは音を控えるようになったけれど、本多先輩は相変わらずの暴走っぷりだ。飛原先輩はあまり口を出さなくなったものの、本多先輩とは別のところで苛立って落ち着かないように見える。

 金田先輩は生徒会でいつも忙しくて最終的な調整にも立ち会えなかったし、奇妙な緊張と不安を孕んだまま当日の朝を迎えた。


「ドット虚無」の出番は2日目の最後だから、初日はクラスの出し物に専念するとして、これも頭が痛い。ステージに立つことについては箝口令かんこうれいが敷かれているから葵ちゃんにもクラスの皆にもなんて言い訳して係を抜けようか、そればかり考えていた。

 鴇田なんかは「第三はエントリーしてないのかよ」と散々馬鹿にしてきてたけど、そっちは無視だ。うちの部が出ようが出まいがやつには関係ないし説明する義理はない。


 前の日から女子棟の教室を北欧風に飾りつけして、寄せた机に白いテーブルクロスを掛けて花やメニューを置く。なんでメイド喫茶が北欧風なんだとツッコミたいところだが、それも話し合いで決まったことなので仕方ない。

 接客フロアにはすね毛丸出しのごついメイドが動き回り、笑い転げるお客さんや注文を通す声でガヤガヤと騒がしい。


(しかし……神でも仏でもなんでもいいから地獄ここから救い出してくれないかな)


「可愛いね、君。連絡先教えてよ」

「僕、男ですが」

「またまた〜、冗談ばっかり」

「おれ、君なら男でも全然イケる」


(何がだよ)


 僕はオーダー票を片手に椅子に座っている若い男性客2人を見下ろした。僕とそう年も違わないような、いかにもチャラそうな茶髪の若者が2人、さっきからしつこく絡んできてげんなりしていた。


 外部からも客を受け入れているので、当然、不特定多数の人が学園を訪れる。これで何人目なのか数えるのももうやめてしまったけど、「男女逆転メイド喫茶」が開店してから、ひっきりなしに声を掛けられる。

 僕はスカートの裾を引っ張りながら衝立ついたて代わりのホワイトボードの陰に引っ込んだ。


「レモンパイとコーヒー二つずつお願いします」

「はーい」


 元気よく返事をした葵ちゃんは、黒のベストに蝶ネクタイ、黒いズボンと短いカフェエプロンを着けてきびきび働いている。普段は下ろしている癖のある髪を後ろで1つにまとめ、前髪もきっちり撫でつけて、すっかり男装姿も板についていた。

 ふわふわした柔らかさを封印したその姿は、清楚で大人っぽい雰囲気の中に、可愛らしい色気も感じられる。結局のところ、可愛い子は何を着ても可愛い。でも今はそれさえも憎い。


 多分僕は不貞腐れた顔をしていたんだと思う。手際よく皿にパイを盛り付けている葵ちゃんがクスクス笑っている。


「早く着替えたい」

「似合ってるのにもったいないよ~。綾人くんモテモテだね」

「全然嬉しくない」


 別に男らしさに拘る訳じゃないけど、何故だかクラスメイトの僕に対する扱いもおかしいし、女子は「カワイイカワイイ」って玩具扱いだし。断固として拒否しなかったら化粧までされるところだった。

 葵ちゃんはコーヒーカップとケーキ皿をトレイに載せ、僕に差し出した。


「はい、頑張ってメイドさん」

「………」

「交代時間来たら一緒に校内回ろ?」


(そんな可愛らしく首を傾げたってダメなんだから。上目遣いで見つめたってほだされな……嘘です)


「ハイ」


 完全に敗北したチョロい僕は、大人しくトレイを受け取って衝立の陰からフロアに出て行った。ニーハイの脚をジロジロ眺められる女子の苦痛を味わいながら、これが終わったら二度と女装なんてしないと固く心に誓う。


「綾人ちゃーん。遊びに来たぜ」


 注文を届けて空いたテーブルを片付けていると、後ろから聞き覚えのある声がした。


(うげっ)


 振り向けば、そこには何故か白衣を着た赤毛の本多ゴリラ先輩と、黒い燕尾服にマントを着けた飛原先輩、いつもとあまり変わらないオレンジ色のパーカーを着た古川先輩が立っていた。白衣の男は僕を見下ろし、ニタリと笑う。


「冷やかしならお帰りください」

「似合うな~、綾人。ほれほれ、『おかえりなさいませ、ご主人様』だろ?」

「誰が言うか」


 そうこうするうちに、3人は片付けたばかりの席に腰を落ち着けてしまう。古川先輩のクラスはショートムービーと組み合わせた脱出ゲーム、飛原先輩のクラスはお化け屋敷を開催中だそうで、宣伝がてら吸血鬼の恰好のまま歩き回っているそうだ。


(一番の謎は本多先輩。まさかお医者さんごっこ?)


「どうでもいいけどなんで白衣なんですか?」

「ああ、俺のクラス『サイエンスショー』やってんだよ。巨大空気砲とか巨大風船実験とか巨大シャボン玉とか、けっこう人気あるぜ?後で来いよな」

「巨大ばっかりですね」

「大きい方が面白いだろうが」


(本多先輩らしい)


 いちいち揶揄われてイライラしながら注文を取って給仕していると、飛原先輩が思案気に辺りを見回しているのに気づいた。

 吸血鬼仕様なのか、全身黒でまとめて髪を後ろに流し、青白いメイクもそのままにメイド喫茶の片隅にいるのがシュールだ。


「どうかしたんですか?」

「朝陽見なかった?来るって言ってたんだけど」

「さあ、まだ見てないですね」

「あいつ方向音痴だからな。自分の母校で迷うってどうよ」

「男子棟にはあまり入らないでしょう。迷っても仕方ないです。もし見かけたら教えますよ」

「よろしく」


 いつになくそわそわしたその様子に微笑ましい気分になる。飛原先輩といえど、家族が見に来るのは落ち着かないらしい。

 一応僕も家族には文化祭でステージに立つことは伝えておいたけど、皆予定が合わなかったし、詳細を話すのはなんとなく気恥ずかしくて控えた。メイド服姿を見られたら、何を言われることか。


(完全に見た目コミックバンドだってのもあるけどさ)



 昼を挟み、客足も少し引いた頃、他の子達と交代して、僕は葵ちゃんと教室を出た。そのままの恰好で宣伝してこいと言われたけど、僕は絶対着替えるつもりでいた。

 着替え用の控室に向かっていたら、人の多い廊下で誰かと肩がぶつかる。


「ごめんなさい」

「あ、さっきのメイドちゃん」


 間の悪いことに、ぶつかったのはさっきしつこくナンパしてきた2人組のうちの1人だった。座っている時には気付かなかったけど、2人とも背が高くかなり体格もいい。

 それが僕と葵ちゃんの前に立ち塞がり、覆い被さるように見下ろしてくるから前に進めない。


「どこ行くの~?」

「休憩?」

「ええ、まあ……」

「そっちの子も可愛いね。俺らと一緒に遊ばない?」

「いえ、結構です。通してください」


 自分でもどうかと思うくらい硬い声が出た。葵ちゃんが怯えたように僕の袖を掴んでくる。校内でのナンパ行為禁止ってパンフレットに書いてなかった?


(読むわけないか)


「綾人くん」

「行こう、葵ちゃん」


 僕は葵ちゃんの手を握り、僅かに空いた隙間からすり抜けようとした。が、空いている片方の腕を掴まれる。体格に見合った力で掴まれた腕が少し痛い。


「冷たいな~。少しくらいいいじゃん」

「女の子同士でくっついてないでさ」


(しつこい!女じゃないってば)


「あ、先生」


 僕は彼らの後方を見て、大きな声を張り上げた。一瞬気が逸れた隙に葵ちゃんに「逃げるよ」と囁いて反対方向に走り出す。スカートが捲れて足が丸見えになるけど今はそれどころじゃない。

 後ろの方で何か喚いてる声が聞こえたけど、構わず人混みを掻き分けるように走り続けた。


 空き教室を見つけて後方のドアから中に滑り込む。ガランとして人のいない教室は、使ってない資材や机、荷物置き場になっているようだ。追いかけてくる可能性も考えて、廊下側の覗き窓から見えないようにしゃがみ込む。

 葵ちゃんも僕も肩で息をしていた。ぜいぜいと荒い呼吸が落ち着いてきて、やっと人心地がついた頃に、葵ちゃんが笑い出した。


「ふ、ふふ、やっぱり足速いね、綾人くん」

「あ、ごめん。大丈夫だった?」

「なんか前にもこんなことあったね」

「あの時もごめん」


 前だけ見て走って来たから、葵ちゃんの様子まで気遣う余裕がなかった。綺麗に纏められていた髪は乱れ、ツンと尖った形の良い鼻の頭に汗が浮かんでいる。無意識に丸い額に散らばった髪の毛を払ってあげて、顔を近づけ過ぎていたことに今さら気付く。


 あの時と同じ状況。考えてみれば2人きりになるのは彼女の誕生祝いの時以来だ。急に心臓の音が大きく聞こえ、黙り込んでしまった葵ちゃんの大きな瞳がゆらゆら揺れるのが見える。額から滑らかな頬に滑らせた手の平に感じる熱。

 

「……葵ちゃん」

「な、なに?」

「これから僕がすること嫌だったら言ってね」

「なにするの……?」


 苺色の甘そうな唇が震え、ただようお菓子の香りにあたまがばかになったみたいにゆであがる。


(かわいいいとおしいもっとさわりたい)


 額が触れ合い髪の毛が2人の間でサラサラと音を立てる。鼻先が触れ、それでも葵ちゃんは動かない。伏せた睫毛の揺らぎ、零れる息が僕の唇を掠めた時。


 突然大きな音がして、教室の前の扉が慌ただしく開いた。ビクッとして固まった僕らの視界に黒い影が飛び込んでくる。大きな黒いマントに何かを包むようにして入って来たのは飛原先輩だった。


「………!………!」

「しーっ………」


 腕の中にいるのは人間のようで、くぐもった声が聞こえてくる。先輩が宥めるように何事か囁くと、少しだけ声が止んだ。続いて聞こえてくる衣擦れと肌の触れ合う音、小さく漏れる甘ったるい掠れ声。彼らが動くたびにふわりと漂う蠱惑的な花の香り。


(どうしよう、何か始まっちゃった)


 僕は顔を真っ赤にしている葵ちゃんに(出て行こう)と声に出さずに言うと、彼女も無言で頷いてそろそろと動き始めた。離れていく体温が惜しい気がする。でもこの状況で何かできるほど僕は図太くない。


(先輩、彼女でも来て盛り上がっちゃったのかな。あれ?でも彼女いないって……)


 何にせよこんなところで盛り上がらなくても、と思ったけど、先ほどの自分の行動を省みて、1人赤面する。

 頭を低くしてこそこそ移動し、出入り口をゆっくり開けて葵ちゃんを先に出し、僕ももうすぐ廊下に出られる、というところで少し音を立ててしまった。カツンという小さな音を聞き逃さなかったらしい飛原先輩が、ほんの少し動きを止めて振り返った。


(見てません見てません、僕は何も見てませんよ!)


 ばっちり目が合ってしまって慌てて首を振りながら心の中で言い訳していると、先輩は眼鏡の奥で微かに笑って唇の前に指を立てた。僕はぶんぶんと頷いて廊下に転がり出る。


(ひい、大人だ。大人こわい)


 さっきとは別の意味でバクバクする心臓の辺りを押さえて、先に出ていた葵ちゃんと気まずく目を合わせる。


「行こうか」

「うん」


 とりあえず着替える為の控え室に戻りながら、僕はさっきの情景と花の香りを思い返していた。


(どこかで嗅いだことがあるような……)

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