♯ レモンパイ ♯

「最近調子がいいみたいだね」


 定期検診に訪れた耳鼻科で、仁村先生は穏やかに微笑んで僕の方へ向き直った。

 確かにこのところ、耳鳴りに気を取られることもなく忙しい日々を送っている。騒がしくて、欝々と考え込む余裕もない。心因的なものだと診断されてもいたから、これは良い兆候かもしれない。


 医院を出て、これからどうしようかと考える。体育祭の後で学校は休みになっているけど、特にすることもない。

 もうすぐ文化祭だから、製菓コースの子と合同で喫茶をやることになっている。といっても男子は力仕事と買い出しくらいなので、放課後の作業と当日で事足りる。メニューやお茶菓子などを作るのは女子の担当だ。


(葵ちゃん何してるかな……)


 お茶菓子で彼女を思い出してぼんやりする。あの時有耶無耶になってしまったけど、自分が何をしようとしていたのか改めて考えたら、顔から火が出そうで居たたまれない。謝るのもなんだか可笑しい気がするし、自意識過剰だと思われたら目も当てられない。

 自分一人しかいないのに、そわそわして携帯を出したりしまったりしていたら、いつの間にか女子寮の建物の前まで来てしまっていた。


(何してるんだろ。帰ろう)


「綾人君?」


 歩き出そうとした背後から声を掛けられて、ビクッとして立ち止まる。こんな所でウロウロしていて完全に不審者じゃないか。

 恐る恐る振り向けば、そこには数人の女子と葵ちゃんが立ってこちらを見ていた。


「どうしたの?何か用だった?」

「あ……えっと、特に用という訳では……」


 上手い言い訳も浮かばずしどろもどろになる僕に、葵ちゃんは目を輝かせて近寄ってくる。葵ちゃんの友達と思しき数人が、僕を見て何か囁き合っているのが居心地悪い。


「文化祭の喫茶で出すお菓子の試食をしようと思ってたの。男子の意見も聞きたいな。食べてくれる?」

「う、うん。いいよ」


 目の前に立つ葵ちゃんは、さっきまでお菓子を作っていたのか、甘いバニラの香りがする。そっと手に乗せられた焼き菓子の包み。


「レモンを使ったお菓子だよ。パイとケーキどっちにしようかって意見が分かれたから両方作ってみたの」

「ありがとう」

「食べたら感想聞かせてね」

「うん」


 じゃあね、と手を振り友達のところへ戻っていく葵ちゃんを見送っていると、友達がきゃあきゃあ騒ぎながら「彼氏?」なんて聞いているのが聞こえてきた。葵ちゃんは真っ赤になっている。


「と、友達だよ」

「体育祭の時も2人で走って行っちゃったよね」

「あやし~」


(友達……うん、多分)


 邪気のないお喋りから逃れるように、足早にその場を後にする。女の子の友達は初めてで、というか、地元でも浮きまくっていたから、同性の友達すら僕にはいなくて、どういう感情を抱いていいのか分からない。友達という言葉に間違いはないけれど、少し傷ついているのも確かだ。


 寮の自室に戻って、貰ったレモンのお菓子を味見してみたら、やけに甘酸っぱい味がして、感想に困る。どちらも酸味と甘みのバランスはちょうど良くて美味しいけど、まるで僕の心情そのものみたいで勝手に気恥ずかしい。


 葵ちゃんは可愛いし、一緒にいると楽しい。まだまだ知らないことも沢山あって、もっと彼女のことを知りたいと思う。

 とても大切なものだから、この感情に安直な名前を付けたくないな、なんて捻くれたことを考えても、結局のところ、僕はどうしていいか分からずにいる。


 感情を表現するのが苦手だ。何かを欲しいと願っても、きっとそれは僕の手をすり抜けてしまう。虚しい考えに支配され、なんだか頭がぐらぐらして、耳鳴りどころか眩暈まで起きそうな気がしてくる。

 その日は結局感想も何も送れずに、僕は甘くて酸っぱい気持ちを抱えたまま眠りに就いた。




「はあ……」


 部活で金田先輩にギターのコード進行を教えている途中に、漏らすつもりもなかった溜息が漏れた。金田先輩は手を止めて、僕の顔を覗き込んだ。


「何か違ってたか?」

「いえ、教えるところないくらいお上手です」


 本多先輩と古川先輩は今日は珍しく真面目に練習しているし、飛原先輩は黙々とPCをいじっているので、邪魔も入らず練習は捗ってはいる。

 実際、金田先輩はある一点を除いて完璧なのではないかと思うくらい、何をやらせても上手くこなす。その一点おとうとが問題かもしれないが、そこ以外は完璧だ。きっと悩むことなんてないんだろう。


「何か悩みごと?」

「自分でも何を悩んでいるのか分かりません」

 

 柔和な笑みを浮かべる金田先輩の端正な顔を眺めていても、妬みすら湧いてこない。妬みという感情は自分に近い立場だと思う者にしか湧かないようだ。


「そうか。無理に解決しようとしなくてもいいんじゃないか?」

「そういうものですか」

「自分だけの力で思い通りになることなどほとんどないよ。人の心も移り変わるものだし日々変化してる。僕もそうだ」

「金田先輩でも悩むことあるんですか?」

「悩みだらけだよ。だからね、今に集中するんだ」


 そう言って微笑む先輩は、僕から見れば人生何回目ですかと問いたくなるくらいなのに。


(話してみないと分からないこともあるんだな)


 うんうん、と頷く僕の背中に、練習していたはずの本多先輩がのしかかって来た。 


「悩み事か?悩んでる時は筋トレに限るぞ」

「本多先輩の意見は聞いてませんが?」

「綾人、冷たい」


(なんでも筋肉で解決できると思うなよ?)


 わざとらしい泣き真似をする本多先輩を無視していると、古川先輩が割り込んでくる。


「悩みなんて食って寝ればなんとかなる」

「そうでしょうね……」


 解決の仕方なんて人それぞれだ。あまり参考にならないなと思って飛原先輩をちらっと見ると、彼はPCを閉じてこちらに近寄って来た。


「悩みは具体的に目に見える形にしとくといい。紙やノートに書き出すとかして忘れろ。後で見返すと客観的になれる。悩みではなく『思考』になるんだ」


 金田先輩の意見とほぼ同じだが、こちらはより現実的だ。先輩がいつも持ち歩いているノートやメモに彼の悩みも書いてあったりするんだろうか。


「それで解決します?」


「時間が解決することもある」と、飛原先輩。

「大きな流れに委ねるといい」と、金田先輩。

「そのうちなんとかなる」と、古川先輩。

「筋トレは全てを解決する」と、本多先輩。


(今あれこれ悩んでも仕方ないってことかな)


 最後のは置いといて、三人の意見はおおむね一致している。

 僕と金田先輩は練習を再開する。無心に弦を押さえ、音だけを追い続けているうちに、心は凪いで落ち着きを取り戻してくるような気がした。




『この間はありがとう。感想だけど、パイはサクサク感があってケーキはしっとりしてて良かった。甘味と酸味もちょうど良かったと思う。どっちも美味しかったから決められないな』


 夜、自分の部屋で感想を送る。直接顔を見て言いたかったけど、勇気が出なくて文章を送るだけ。今、顔を見ても何かおかしなことを口走りそうだ。会いたいのに会いたくない。


『貴重なご意見ありがとう。またみんなと相談してみるね』


 可愛いうさぎのスタンプと一緒に送られてきた彼女の言葉。なんの変哲もない文字の羅列が、僕の胸を騒めかせる。

 もう会話終了かな、と思って携帯を置こうとすると、また通知音が鳴った。


『お外見て!』


 なんだろうと窓から顔を出すと、そこには丸い月が出ていた。秋の紺色の夜空に明るく浮かぶ黄色の月。


『満月だね』

『美味しそう!』

『レモンパイみたい』

『いいね。名前、満月パイにしようかな』

『ちょっとダサくない?おばあちゃんみたい』

『ひどい!どうせセンスないですよ~』


 ぷんぷん怒っているウサギのスタンプが送られてくる。笑いながら「ごめん」と送り返して画面を閉じる。

 心がふわふわして温かい。何も始まらないこの居心地のいい時間に名前をつけて壊したくない。だからこのままでいたいのに、もっと同じ時間を過ごしたいし、出来れば彼女の特別になりたいと願ってしまう。


(矛盾してるなあ)


 ベッドの上に横たわって秋の夜長の綺麗な月を見上げる。また小さく鳴る通知音。いつ終わるとも知れないふざけたやり取りを繰り返して、夜が更けていく。


(無理に解決しなくていい、か……)


 今はただ、ふわふわゆらゆら、浮かんで揺れるようなこの気持ちを味わっていたい。



◇◇◇◇◇



【後記】


方倉少年心象イメージソング

『レモンパイ』

マカロニえんぴつ

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