♯ お髭が欲しい ♯
(神様仏様。僕に髭をください。朝剃っても夕方には生えてくるふさふさの髭を)
僕は祈った。神も仏も信じてる訳じゃなかったけど、今は切実に祈りたい気分だった。一週間に一度剃ればいいくらいの僕の髭。なんとかふさふさにならないだろうか。
「方倉くんはギターの他に何か弾けるの?」
ある日、マカロンを作って来てくれた葵ちゃんが、何気なさそうに尋ねてきた。
「弦楽器ならだいたいは。あとハーモニカとサックスを少し」
「ブルースハープ?」
ブルース・ハープは商品名だから、正式にはテンホールズ・ダイアトニック・ハーモニカまたはテンホールズ・ハーモニカと呼ぶ。
失礼だけどそこまで音楽に詳しくなさそうな葵ちゃんの口から出てきた単語に少し驚く。
「うん、まあそうだね」
「じゃあ、フィドル弾ける?フリートウッド・マックとかチキン・シャックは?ジャニス・ジョプリンとか」
「……渋いね」
「私、お祖母ちゃん子だから。お祖母ちゃん、カントリーとかブルースが好きでよく聞いてたの。ロカビリーなんかも好きよ」
(こんなところに伏兵が……ビートルズもあまり知らなかったのに……)
密かに動揺する僕を期待に満ちた目で見つめてくる葵ちゃんは可愛い。可愛いけど、困る。
どうやら葵ちゃんは興味のない事にはとことん興味のない人らしい。でも好きな事には猪突猛進だから、お菓子作りにのめり込んで親元を離れているだけのことはある。
「最近のお気に入りはBrother DegeとThe Dead Southなの」
「そうなんだ……そっち方面はあんまり詳しくないけど、どんなバンド?」
「フォークとかカントリーかなあ。うちのお祖父ちゃんがこんな感じ」
そう言いながら検索して見せてくれた画像には髭の濃いワイルドなおじさんばかり映っている。
(ひえええ)
「かっこいいよね。バンジョーは弾ける?」
「………善処します」
それからというもの、僕の端末の検索画面には「ブルース」「カントリー」「バンジョー」「マンドリン」「髭 生やし方」「髭用育毛剤」「髭 植毛」「男性ホルモン」という単語が並んだ。
祖父も父も髭は濃い方なのに、母に似た僕の顔は卵のようにつるんとしていて、いわゆる男くささとは縁がない。
父と祖父なら楽器は弾けるし髭も濃いし、葵ちゃんの好みにピッタリ合うに違いない。絶対会わせる訳にはいかない。
「当分帰ってこないでね」と父にメールしたら、時差があるのに即電話がかかってきてすごい勢いで泣かれてしまった。
(ごめん、お父さん……ただの八つ当たりだ)
「本多先輩、髭ってどうやって生やせばいいですか?」
部室に着いて一番初めに見えた本多先輩にそんな事を尋ねてしまうくらいには悩んでいた。
「髭?そんなもん勝手に生えてくるだろ」
「……僕、あんまり生えないんですよ」
「髭は男性ホルモンだ。テストステロン出したかったら、よく寝て筋トレしてタンパク質とミネラル摂れ。筋トレはいいぞぉ」
(出たよ、筋肉馬鹿)
早速脱ぎ始めた本多先輩を無視して、テーブルでノートを広げていた飛原先輩を見る。
(飛原先輩も髭薄そうだな……古川先輩は?)
ドラムセットに向かって基本練習をしていた古川先輩と目が合う。僕を見るとスティックをくるくる回してウィンクしてくる。正直気持ち悪いが、髭の濃さを確かめる為に観察してみた。
「そんなに古川のこと見つめてどうした」
「飛島先輩。髭ってどうやったら生えます?」
「生やしたいの?」
「……まあ」
「奏ちゃんに聞いてみる?」
「あれは何か根本的なものが違うというか……」
(種族が違うんじゃないだろうか)
「なんか悩んでるみたいだけど、髭は無理に生やさなくても、いいんじゃないの?お前にはお前のいいとこあるだろ」
珍しく、飛原先輩がからかってこない。いつも澄ました顔で適当なことを言うくせに、今日はやけに親身に、というか普通のアドバイスをくれる。
でもそう言われて、ここ数日変な方向へ努力しようとしていたことに気付いた。もう少しで髭を生やしたスナ〇キンを目指すところだった。
「そうですね。ありがとうございます」
「悩むくらいなら、はよデートでも誘え」
「な、は?べべ別に葵ちゃん絡みだなんて言ってませんけど?」
「………俺も言ってないよ?」
(お礼言うんじゃなかったー!!このナス本当に捻くれてる!)
眼鏡の奥でにやにや笑う飛原先輩の事を心の中で盛大に罵っていると、先輩は少しだけ視線を落として、ポツリと呟いた。
「堂々と誘える相手がいるのが羨ましいよ」
「だから別にそういう事じゃなくてですねえ……」
「ま、上手くいったら俺にも誰か紹介して」
「結局そこですか…」
「当たり前だろ。こっちは切実なんだよ」
妙に切なそうな顔をしている先輩に、それ以上は突っ込めなくなる。いつもは本多先輩の言動のせいで苦労している様子の飛原先輩にも、色々事情があるのかもしれない。
(本多先輩や金田先輩が異常なだけで普通にモテそうだけどなぁ)
髭のことはいったん置いといて、何か葵ちゃんの好みに合うような曲を探していた僕は、ハーモニカを演奏することにした。
外でギターを弾くのはちょっと抵抗があるし、かと言って軽音部に連れて行く訳にはいかない。
その名の通り、テンホールズ、つまり10個の穴のあるハーモニカは、昔お祖父ちゃんがクリスマスにくれたものだ。
このハーモニカは全音階なので、半音を奏でることができないけど、特別な奏法で半音階を出すことができる。
ベンド奏法というのがあって、自分自身の口や舌を使って、隣同士の穴を同時に強く吸うと、高い方の音階の1音または半音下の音階が出る。
かなり難しいけど、貰った時に色々試して練習したから、感覚を思い出せばきっとできる。昔熱中しすぎてリードがいかれた初代のハーモニカは飾りだけど、新しいのを買ってきて練習しよう。
Oh Lord, won't you buy me a Mercedes Benz ?
My friends all drive Porsches, I must make amends.
♪神様、私にベンツを買って?
友達は皆ポルシェだし、彼らを見返してやりたいの♪
2人だけの小さな演奏会。ジャニス・ジョプリンのアカペラ曲「Mercedes Benz」を歌う。
ここら辺は僕の勝手なアレンジだけど、足で拍子を入れながら、間奏代わりにハーモニカを奏でる。葵ちゃんは手拍子で聞いてくれている。
歌っているうちにだんだん楽しくなってきて、ついつい即興で入れたハーモニカパートが長くなる。”Everybody!”の部分からは、葵ちゃんも一緒に歌ってくれた。
「That's it《おしまい》‼」
曲の最後にそう締めくくると、葵ちゃんが興奮したように頬を染めて、拍手してくれる。照れくさいけど、嬉しい。
「すごい、すごい!」
「ありがとう……ハーモニカ久しぶりだけど、楽しかった」
「上手!こっちこそありがとう!」
はしゃいだ葵ちゃんに抱きつかれて、僕はどうしていいか分からずに固まる。ハーモニカを握り締めて万歳の恰好。
いつもお菓子を作っている彼女からはいい匂いがする。最初に会った時は苺。そしてクッキー、マカロン、チョコレート。甘くてふわふわした気持ちのままぼんやりしていたら、先に気付いた葵ちゃんが真っ赤になって離れた。
「あ、あの、ごめんね。急に抱きついて」
「ううん……」
そのまま沈黙して2人で池を眺めていた。初夏の爽やかな風が吹いて池の表面にさざ波を作る。心臓が体の中でおかしな具合に跳ね回ってる気がしたけど、沈黙は気づまりではなかった。
(今なら大丈夫?デート、誘ってみる?)
池の表面で小さく光る波を目で追いながら、飛原先輩に言われた事を思い出した。僕は大きく息を吸って、吐き出す。
「今度、一緒にCD買いに行こう?葵ちゃんのお勧めの曲教えて」
「う、うん。いいよ」
葵ちゃんは嬉しそうに頷いてくれた。さりげなく言えたかどうか分からないけど、これが今の僕の精一杯。
髭はそのうち考えるとして、もっと彼女の好きなことを知りたいと思うんだ。
That's it!
◇◇◇◇◇
【後記】
【註】
フリートウッド・マック・・・英国のロックバンド(ブルースロック)
チキン・シャック・・・英国のブルースバンド
ジャニス・ジョプリン・・・米国のミュージシャン
Brother Dege・・・米国ブルース、ロック、フォークバンド
The Dead South・・・カナダ発フォーク、ブルーグラスバンド
【曲】
『Mercedes Benz (ベンツが欲しい)』1970-1971年
Janis Lyn Joplin
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