♯ シャンなんとかはおフランスの香り ♯
もうすぐ葵ちゃんの誕生日だ。僕の誕生日にプレゼントを貰ったから、何かお返ししたいと思っているのだけど、彼女が喜びそうなものが思いつかない。
僕があれこれ思い悩むのは恒例行事というか、いつものこととして、そうそう人に相談ばかりもしていられないので、自分で考えようとしていた矢先。
その日、部活に顔を出すと、飛原先輩がチケットを2枚ヒラヒラさせながら僕に尋ねた。
「綾人、アンリ・クロレの限定プティブーランジェリー展興味ない?」
「アン……プティ……?」
「フランスの人気パティシエ、アンリ・クロレとホテルルッツのアフタヌーンティーコラボ、クロワッサンその他ヴィエノワズリー、今の季節ならシャンテーニュのガトーだ」
先輩はポカンとする僕の肩に手を回し、チケットを見せてくれた。耳慣れない言葉なので舌が回らない。言われたことの半分も理解できなくて、頭が混乱する。
「日本語喋ってください。せめて英語」
「菓子パンと栗のケーキ食べ放題。イチゴちゃんと行ってこい」
(いきなり親しみやすくなった)
「それは有難いですけど……先輩は行かないんですか?」
「ああ、元々朝陽が行きたがってたんだが、都合が悪くなってな。あいつ散々騒いでチケット取らせたくせに、次の公演の為にダイエットするから行かないって言い出したんだよ」
「先輩も料理するじゃないですか。興味あるでしょ?」
「俺は年末に本店行くからいいよ」
(く……セレブは言う事が違う……)
「ええ~、いいなぁ!ずる~い!俺もケーキ食べた~い!」
古川先輩が首を突っ込んでくる。夫婦漫才の相方を差し置いて僕が貰ってしまっていいんだろうか。僕はチケットと先輩達を見比べて、どうしようかと迷い始めたが、飛原先輩はその抗議を冷たく一蹴した。
「お前、一緒に行く相手いないだろ」
「いるもん!マリアンと行くもん!」
「マリアンてお前の飼ってるインコだろうが。鳥は入れないぞ。ここは一つ、後輩に花を持たせてやるのが先輩というものだろう」
「……それもそうか。こないだ邪魔しちゃったしな」
シュンとした古川先輩が拗ねた眼差しで僕を見つめるので、内心慌てた。
(こないだって体育祭の時のこと?)
「いやあれはそういうんじゃ……」
「わははは、照れるな照れるな、少年。上手く行ったらそのままホテルに泊まってしまえ!」
何故か高笑いしながら窓から入って来た本多先輩だが、ここ2階なのにどうやって来たんだろう。いちいち驚くのも馬鹿らしくなるけど、発言が問題だ。
「なんてこと言うんですか!そんなことしませんよ」
「ぼやぼやしてると横からかっさらわれるぞ」
「意味が分かりません……」
「ええい、まどろっこしい!先輩命令だ!押して押して押しまくって押し倒せ!」
(すぐそういう方向に持ってくのやめて!)
ものすごく上から目線でとんでもないことを宣言される。遅れてやってきた金田先輩は騒ぎにはもう悟りの境地なのかツッコミもせず独りギターを取り出して練習を始めてしまった。
(いや、そこはツッコんでくださいよ)
だからという訳でもないけど、僕は葵ちゃんを誘うことにした。製菓の勉強をしているなら、パティシエのお菓子に興味を示してくれるだろう。
先輩から譲り受けたチケットというのが気後れの原因の一つでもあるけど……あの日以来、まともに顔を合わせてないので気恥ずかしいのもある。
お誘いを快く承諾してくれて、当日、待ち合わせ場所に現れた葵ちゃんは、シックなボルドーのワンピースを着ていた。薄手のグレーのコートを羽織り、いつもより少し大人っぽい雰囲気を醸し出していて、僕はいつにもまして挙動不審になってしまう。
ドレスコードはないみたいだけど、一応高級ホテルのアフタヌーンティーなので、僕もネイビーのジャケットにチノパンを合わせてきた。
僕の内心はともかく、葵ちゃんがいつものように笑いかけてくれるのがなんとなく心苦しい。
「アンリ・クロレのお菓子を食べられるなんて夢みたい」
「そんなに有名な人なの?」
「うん、本店はいつも行列で人気のパンやケーキは開店してすぐ売り切れちゃうんだって」
「そうなんだ」
一歩ごとに足の沈む絨毯も、煌びやかなシャンデリアの世界も物慣れない。両親の演奏旅行で長期滞在した宿はここまで高級じゃないし、だいたいが舞台裏ばかり見ていたから、記憶は薄い。
2人で食べたお菓子もパン、(ヴィエなんとか)も美味しかった。バターの豊潤な香りたっぷりのクロワッサン、芸術品のような栗のケーキ (シャンなんとか)、僕の知らないパティシエのことを、葵ちゃんは目をキラキラさせながら教えてくれる。
「高校を卒業したら本場で勉強するの」
「もう決定なんだね」
「そりゃそうよ、夢は言い切った方が叶いやすいんだよ?」
彼女の見ている世界を垣間見て、僕にも楽しい気分が伝染する。聞いていて分からなくても、どんな内容でもいい。ずっとこのまま、夢を語るこの子の隣に立っていたい。
(でも僕の夢はなんだろう)
今まで考えたこともなかった。毎日ただ漠然と生きてるだけだ。少し情けない気持ちになって落ち込んでいると、葵ちゃんは僕の皿に新しい栗のケーキを載せてくれた。
「綾人くんは考えすぎ。美味しいもの食べてる時は難しいこと考えちゃだめ」
悪戯っぽく笑う彼女に促され、僕は頭を空っぽにして美味しいケーキを味わうことに専念したのだった。
「少し早いけど、お誕生日おめでとう」
帰り際、寮の前まで送って用意していた誕生日プレゼントを渡す。自分で買える範囲でそんなに気負ってないもの……色々考えたけど、お菓子作りに使えそうな苺と兎のクッキーの抜型セットと、苺色のカフェエプロンにした。
ついでに飛原先輩から貰ったトッピーくんのボールペンも渡すと、葵ちゃんは嬉しそうに笑って受け取ってくれた。
「ありがとう。今日誘ってくれたのってお祝いだったの?」
「いや、今日はチケット貰ったから。お祝いは後でまたしよう」
「そんなに何回もいいよ~」
「でも貰い物でお祝いって言うの図々しい気がする」
「ふふ、ならまた次も会えるね」
自分でもめんどくさいと思っているのに、張り巡らされた垣根をすんなり越えてくる彼女にいつも新鮮な気持ちを貰っている気がする。胸の奥がムズムズして落ち着かない。
(何か言いたい。でも何を言えばいい?)
「僕は……ただ……」
「ただ?」
言い淀む僕を見上げる丸い瞳。ほんのり色づいた頬に触れたい。でも触れるのは怖い。世の中は白と黒だけでできてる訳じゃない。もどかしい気持ちを全部余すところなく表現する言葉が欲しい。
「……分からない」
葵ちゃんは黙って微笑むと、急に僕の手を引いて背伸びをした。頬に触れた吐息と、柔らかい唇の感触。驚いて目を見開いた僕に、彼女はまた悪戯っぽく笑った。
「分かったら教えてね。今日はありがとう、おやすみ!」
僕が何か言う前に早口で言い切って、まるで逃げるように、駆け出していく小さな背中。熱く火照る頬を押さえて、僕はしばらくその場から動けずにいた。
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