♯ さらば初恋の光 ♯

「そういえば、顧問て誰なんですか?」


 中間考査も近づいた雨の放課後。明慶めいけい学院は2学期制(前期後期制)なので、そろそろ準備しようと思っているのに、先輩達は相変わらず馬鹿な事をして時間を浪費している。

 4人とも成績は悪くないので余裕なんだろうけど、こっちは入学して初めてのテストだから早く帰りたい。

 しかもこの軽音部、まだ何も始まっていないし、毎回騒ぎになって通り名も決まっていない。僕は顧問が誰かすら知らない。


 本多先輩を見たら、何故か目を逸らして、いつの間にか持ち込んだオモチャの小さいピアノを弾き始めた。


(カスケーズの「悲しき雨音」?)


 大柄な先輩が背中を丸めて弾いているとゴリラが遊んでるみたいだけど、なんだか妙に上手い。ベース以外も弾けたんだと感心していたら、生ものが腐りそうな声が響いて来た。


「りっすんとぅ~ざりじぃむおぶざふぉ~りんれ~ん♪」


(相変わらずひどい……)


「蛍……頼むから歌うな」

「飛原先輩、顧問て誰なんですか?まだ一度も見た事がないんですが」

「ああ、それな」


 隣で耳を押さえていた飛原先輩に尋ねてみると、彼も言いにくそうな顔で本多先輩を見ている。


(まさかいない?)


「いないんですか?」

「いや、いることはいるが……」


 飛原先輩は僕の制服の袖を引っ張って、部室の隅に連れて行った。そしてやけに神妙な顔で、「これは少々込み入った話なるが」と前置きして話し出した。



「俺達にはもう一人、年上の幼馴染がいたんだ」


 そう語り始めた飛原先輩の顔が沈んでいて、僕は何か良くない話なんだろうかと身構えながら次の言葉を待った。


(でもそれが顧問となんの関係が……?)


「蛍と俺とその子、かなでちゃんは、同じピアノ教室に通ってた。5歳の頃の蛍は小さくて病弱で、性格も大人しかった」


(ええ?あれが?)


 まだピアノを弾いている本多先輩を飛原先輩の肩越しに見る。

 目を閉じた悲痛な表情で一心不乱に鍵盤を叩いている。やっぱり曲芸をする赤毛のゴリラにしか見えない。


「10歳年上の奏ちゃんは綺麗で優しくてピアノも抜群に上手かった。音楽の事もよく知ってて、俺達は奏ちゃんに多大な影響を受けたんだ」


 飛原先輩は過去を懐かしむように眼鏡の奥の瞳をほんの少し潤ませる。


「いつも蛍を心配しててな。もちろん俺の事も可愛がってくれた。面倒見のいい子だった。俺達は奏ちゃんが大好きだったよ」


(なんでずっと過去形なんだろう……)


 不穏な予感に震える僕に追い打ちをかけるように、飛原先輩はいったん言葉を切って眼鏡のブリッジを押し上げる。


「……でも俺達が小学生になったある日、奏ちゃんが病気になって、蛍の家の病院に入院した」


(まさか……)


「蛍は心配して毎日見舞に行ってた………でもある日見てしまったんだ」


(え?え?何を?)


 ゴクリと息を呑む僕に、飛原先輩が沈痛な面持ちで続ける。


「偶然、奏ちゃんのカルテをさ。蛍は既にあの頃色んな言語が読めたから、父親が書いたドイツ語のカルテも読めたんだ。まあ、最近は英語で書いたり電子カルテのとこも多いけど、その時蛍の親父さんは全部ドイツ語で書いてた」


(え、すごい。認めたくないけどすごい)


「それを見てショックを受けた蛍は当時出てた『ONE ○IECE』全巻持って一ヶ月部屋に閉じこもった……」

「え、なんで?」

「出てきた時、泣きながら叫んでたよ。『お゛でが ”万能薬”になるんだ!!何でも治ぜる医者になるんだ!だって!!!だっで、ごの世に治ぜない病気はないんだがら!!!』ってね……」

「……それ、あのトナカイの台詞じゃないですか……」


(意味が分からない。でも幼馴染の病気を治したかったのかな……)


「そこからの蛍はすごかった。『無知は罪だ』『後悔しないように生きる』ってどんなことにでも首を突っ込んで引っ掻……いや、探究心旺盛になってさ」


(今、引っ掻き回すって言おうとしなかった……?)


 でもそんな悲しい過去があったなんて、人は見かけによらないものだ。

 あんな風に思い立ったらすぐに行動するのは、未来の不確かさを知ったからなのかもしれない、と、少しだけ先輩を見る目が変わった気がした。

 視界に映るピアノを弾く哀愁漂うゴリラの姿が、少しだけ滲む。


(でもやっぱり顧問不在の理由がわかんないな)


 と、僕が思ったその時。


「おおい、蛍、一輝、いるか~?」


 部室のドアが開き、古川先輩と金田先輩を伴って、井原いはらという音楽教師が入って来た。確かピアノ科。縦横にかなり大柄で、髭を生やし、あれ、ほら、なんだっけ有名なテノールの人。


(……ルチアーノ・パヴァロッティ!! 「神に祝福された声」「キング・オブ・ハイC」「イタリアの国宝」!)


 ようやく思い至ってスッキリした僕の方へ、井原先生は大股で歩いてきて髭の中から白い歯を覗かせ、豪快に笑って手を差し出した。


「第一と第二軽音も兼任してるからなかなか来られなくてすまん!新入部員だって?こいつら色々厄介だけどよろしくな!顧問の井原いはらかなでだ!!」

「あ、はい……1年の方倉綾人です。よろしくお願いします」


 声も手も大きな先生に、振り回されるように握手をされて世界がガクガク揺れる。


(な、なんかパワフルで陽気な先生……。あれ?かなで?)


 聞き覚えのある名前に飛原先輩を見上げると、彼はニヤニヤしながら先生と僕を見ていた。

 

「奏ちゃん、綾人の腕もぎ取らないでね。大事なギタリストなんだから」

「あはははは、すまんすまん!細っこいな~、方倉!ちゃんと飯食えよ!おーい蛍!なんで隠れてんだ?」

「うるせー!誰だ!おっさん!来んな!」


 本多先輩はドラムセットの後ろに隠れて頭だけ出して喚いていた。オモチャのピアノは放り出して、一番大きなバスドラムにしがみつきガタガタ震えている。先生に対する態度じゃない。


(あれ?あれあれ?)


「なんだよ、冷たいな~。昔は『奏ちゃん奏ちゃん』て後くっついてきたのに。おっさんて、俺まだ27だぜ?」

「やめろ!あの時奏ちゃんは死んだんだ!」

「あはははは、勝手に殺すな、ただの盲腸だろ」

「盲腸だって死ぬ時は死ぬ!!」

「ま、いいや、今日は顔見せだけだ。みんな仲良くやれよ~!」


 井原先生は豪快に笑い、ついでに大きなお腹を揺すって、入ってきた時と同じように大股で部室を出て行った。


(台風一過……)



 ほっとして、というか、「またこの眼鏡とびはらは僕をからかったな?」と、じっとり見上げると、先輩は口と腹を押さえて身悶えている。


(結局なんだったんだ)


 ドラムセットの陰からヨロヨロ出てきた本多先輩が、床に両手をついて滂沱ぼうだの涙を流しながら叫び出した。


「ど゛う゛し゛て゛な゛ん゛だ゛よ゛お゛お゛ぉ゛お゛!゛!゛!゛ん゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛!゛!゛!゛!゛」


(ああ、うるさい)


 事情が分かっていない金田先輩は首を傾げているし、事情が分からなくても気にしない古川先輩が、明るい表情で僕の肩を叩く。


「カ〇ジ、面白いよな」

「はあ……」




 飛原先輩の補足情報によると、『奏ちゃん』を女の子だと思い込んでいた本多先輩の淡い初恋はカルテに記された性別欄を見て砕け散り、そんな訳ないと病室に突撃したら着替え中の井原先生の全裸を見て錯乱、1ヶ月引きこもり、その後、頑なに認めようとしないまま現在に至る、らしい。


「昔は奏ちゃんも本当に細くて綺麗だったんだけどなあ。第二次性徴って恐ろしいね」

「………あほくさ」


(感動して損した。帰って勉強しよ)


「俺゛は゛認゛め゛な゛い゛!゛!゛!゛認゛め゛な゛い゛ぞ゛お゛お゛お゛お゛!゛!゛!゛」


 さっさと帰り支度をして部室を後にした僕の背後で、本多ゴリラ先輩の哀しき咆哮ほうこうが、梅雨の暗い空に虚しくこだまして消えて行った。



◇◇◇◇◇


【後記】


【註】

『さらば青春の光』1979年

英国を代表するバンド「The Who」の自伝的映画。

原題『Quadrophenia』は、73年のロックオペラアルバム『四重人格(Quadrophenia)』から。同アルバムがモチーフ。


ルチアーノ・パヴァロッティ・・・イタリアのオペラ歌手。声域はテノール。


【曲】

『Rhythm of the Rain(悲しき雨音)』1962年

The Cascades


【参照・引用】

『ONE PIECE』尾田栄一郎

『賭博黙示録カイジ』福本伸行

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