燐くんのドキドキプレゼンタイム(裏)
何もされませんでした。
……何もされませんでした。
ピチピチする気満々で待っていたのに、指先ひとつ触れられませんでした。いいか悪いかで言えばいいのでしょうが、肩透かし感がすごいです。
半分ミイラの分際で人様に相手されると思ったかと言われたらその通りなのですが、そうなると本格的にお兄さんの動機がわかりません。
こんな厄介者を相手に食事と寝床を与え、何も求めないなど、余程の聖人なのでしょうか?知らない人から突然ものを貰って、わーいありがとうで素直に喜べるような人生を送っていないわたしとしては、むしろ胡散臭く感じてしまいます。
まあ、ものを貰うどころか知らない人と会うのが昨日で初めてなのですが。
お兄さんが動いている音で目が覚めてしまったので、起き上がります。いつもは出るくしゃみが出ず、寝起きなのに体も痒くありません。
体が痛むこともありませんし、こんなに調子のいい朝はいつぶりでしょうか。
そんなことを考えながら扉を開けると、お兄さんがキッチンにたって料理をしていました。パチパチと油のはじける音が耳に心地よく、思わずよだれが出そうな匂いもします。
「……おはようございます」
よだれを意識して、口の中の状態に気付きました。昨日寝る前に歯磨きをしていなかったせいで舌の上がべったりしているし、歯の裏側だってザラザラです。
「おはよう、トーストは何枚食べたい?」
「一枚おねがいします」
「わかった。それじゃあそろそろできるから顔洗っておいで」
わたしの分まで用意してくれることを嬉しく思いつつ、どうせならご飯だけじゃなくて歯磨きもしたかったのにと思ってしまったわたしは、ひどい恩知らずです。
内心自省しながら顔を洗い、舌を爪で擦ってから口を濯ぎます。綺麗になったとはとても言えませんが、これだけでもだいぶ変わるのも確かです。
かかっていたタオルを勝手に使わせてもらって顔を拭いたら、そのやわらかさに驚きました。ふわふわしていて、少し顔を埋めるだけで全部吸い取ってくれるのです。
洗面所を出ると、お兄さんに頼まれてお皿を運びます。大きいのが一枚と比較的小さいものが一枚。それぞれの上に焼きたてのトーストが置かれ、テーブルに持っていくとベーコンエッグが乗せられました。
促されて座ったクッションで待っているとそこに胡椒までかけられて、飲み物はなんと野菜ジュースです。朝からこんなに良くしてもらっていいのでしょうか。
配膳までしてくれたお兄さんが対面に座りました。クッションをわたしに使わせてくれているせいで、カーペットに正座です。あまりに申し訳ないので、わたしが正座をするといっても聞き入れてもらえず、結局そのままでした。
罪悪感と申し訳なさと、オマケに優しくしてもらった嬉しさでふわふわしながらお兄さんと一緒にいただきますをします。
サクサクのトーストに、カリカリになったベーコン。卵と一緒に口の中に入ってきて広がります。温かくて、美味しくて、思わず頬が緩んでしまいます。
少し冷めるまで待つことすら出来ずにかじりつき、その熱さにやられてはふはふします。それをお兄さんが微笑ましそうに見てきて、少し恥ずかしく思いますがそれでも手と口が止まりません。
だって、出来たての料理です。温かくて、黄身がトロトロな卵です。ずっと食べたくて、焦がれて、我慢していたものです。それが目の前にあって、食べて良くって、きっと最後の食事なんです。我慢なんて、できるはずがありません。
……そう、です。最後の食事なんです。わたしはこれから、お兄さんに死に方を聞いて、出ていって死ななくちゃいけないんです。だって、そういう約束でここに来たのですから。
同じ食卓を囲って、出来たての温かいご飯を食べながら笑っている。お兄さんの顔に、かつてのわたしを愛してくれていたお母さんの姿が重なりました。大好きなオムライスを勢いよく食べて汚れたわたしの口周りを、こんなふうに笑いながら拭ってくれたお母さん。
ずっと戻りたかったあの頃に戻れたみたいな気分です。
不意に、死にたくないなと思いました。こんな時間を過ごせるなら、これからもこんな優しい時が迎えられるのなら、死にたくないと思いました。
もちろん、お兄さんにとても迷惑をかけていることもわかっていますし、こんなにも素敵なことが毎日続く訳では無いこともわかっています。それでも、週に一度、いえ、月に一度でもこんな時間が過ごせるのなら、わたしはもっと生きていたいです。
死にたくないという恐怖は、生きていたいという願望に変わり、お兄さんが、わたしのことをこのまま抱え込んでくれたらいいのにという欲求へ変わります。
お兄さんがわたしのことを求めてくれれば、そんな未来もあるのでしょうか。わたしが尊厳とかその他もろもろをお兄さんに捧げて、代わりに愛されて大切にされるような未来もあるのでしょうか。
あってほしいと、思いました。きっとそのわたしはお兄さんのためにお掃除をして、料理をして、全部終わったら玄関で待機しておかえりなさいって言うんです。
ただいまと返されて、美味しいと言ってもらいたくってうずうずして、実際に言われたら嬉しすぎてにやにやが止まらないでしょう。必要とされることが嬉しくて、喜んでもらえることが快感で、もっと求められたいとすら思うのでしょう。
でも、そんなものはあくまで妄想の産物であり、わたしに対してそんな温情をかけてくれるはずがありません。トーストをかじりながら不意に冷静になった頭でも、そんなことを考えます。
そんなふうな、理想を求めるような推定をして、それが現実に反映されるのであれば、わたしはお母さんに嫌われることなく幸せに過ごせていたはずなんです。
「死に方についてなんだけど、考えなきゃいけないことはふたつある。一つ目はどれだけ楽に死ねるかで、二つ目はどれだけ迷惑をかけないか」
わたしが食べるのを止めたからでしょうか、こちらを真剣な眼差しで見つめながら、お兄さんはそう切り出しました。わたしとの約束を覚えていてくれたことは嬉しいのですが、とてもわがままなわたしは止めてほしかったです。
やっぱり、希望なんて叶いませんね。わたしに夢を見させるだけ見させて、すぐに現実を突きつけてくるのですから、お兄さんはひどい人です。
でも、最後にこんな素敵な夢を見せてくれたのだから、会えてよかったと思います。何も考えられずに流されてくれた昨日の自分に感謝ですね。
お兄さんの話を聞いて、自分に出来そうなこと、これは嫌だと思うことなどを頭の中でまとめます。死ぬなら楽に死にたいし、他の人に迷惑をかけることも嫌です。
わたしが考えていた死に方のほとんどは、誰かの迷惑になるらしいです。じゃあどうすればいいのかと思っていると、お兄さんはそれも教えてくれました。
「ただ単純に、誰にも見つけられなければいい。仲がいい人や家族、付き合いのある人がいるなら行方不明者として捜索されることもあるけど、幸か不幸かすみれちゃんにはそんな人はいない。つまり、誰の迷惑にもならない」
つまり、当たり前ですがお兄さんはわたしのことを探してなんてくれないということです。わたしにそこまでの価値を見出していないということです。わかってはいたことですが、どれだけ優しくしてくれていてもそれはお兄さんの気まぐれに過ぎません。
キュッと、胸が痛みました。
お兄さんは誰にも迷惑をかけない方法を教えてくれていますが、今はすっごく迷惑をかけたいです。わたしと一緒にいてほしいし、それが無理でもわたしのことを見届けてほしいです。看取ってほしいです。
わたしの終わりを知ってほしいし、覚えていてほしいです。ともすれば、お兄さんに終わらせてほしいと思うかもしれません。
「山の奥で土深くに埋められたりすれば話は別かもしれないけど、僕は殺人犯になるつもりも死体遺棄をするつもりもないから、かなり厳しいだろうね」
すこし、気落ちしてしまいます。わたしが思った直後に、お兄さんはそれを否定します。わたしの心が読めているのかと錯覚するほど、ぴったりのタイミングで否定されます。残念です。
「ここからだいぶ離れたところなんだけど、海があるんだ。崖からすぐ下が、それなりに水深が深い場所がある。体に重りでもつけて飛び降りたら、まず浮かんではこれないだろうね」
お兄さんが考えてくれた、誰にも迷惑をかけない死に方は溺死でした。先程、とても苦しいと教えてくれた死に方でもあります。
苦しくなく、誰にも迷惑をかけない死に方などない、ということなのでしょうか。それを理解した瞬間、思わず声が出てしまいました。
「苦しむ死に方だね。それに、だいぶ離れているから徒歩で行くのも難しい。普通の人でもそうなんだから、歩きなれていなくて体力のないすみれちゃんなら尚更だろうね」
さらに、苦しむ死に方すら難しいと言われてしまったら、私はどうすればいいのでしょうか。迷惑をかけながら死ぬしかないのでしょうか。
「お金があれば自力で行くこともできるし、睡眠薬だって買えるだろう。崖際で大量に睡眠薬を飲んだら、きっと目が覚めることなく落ちれるだろうね」
けれど、わたしにはお金なんてありません。そこまで用意してくれるつもりであるのなら、わざわざこんな言い回しはしないでしょう。
……もしかすると、お兄さんは人が惨めに這いつくばりながら懇願するのを見ることが趣味なのかもしれません。だって、ここまで優しくしてもらった上でそんな餌をぶら下げられたら、お願いしちゃいます。そのくらいにわたしはそれを求めていますし、多少尊厳を奪われるくらいなら、気になりません。
「……おねがいします、わたしに睡眠薬をください。その場所に連れていってください」
頭を下げます。それしか出来ないから、鼻がテーブルの上のトーストとくっつきそうになるくらい下げます。お兄さんがいいと言ってくれるまで、下げ続けます。1時間でも2時間でも下げ続けてみせます。……それはそうとして、真剣に頭を下げているのにベーコンエッグのいい匂いがしてよだれが出てきました。
「うん、いいよ。ただ僕も慈善事業をやっている訳では無いから、何かしらのリターンが欲しい。それはお金でもいいし、それ以外の何かの価値があるものでもいい。ただ、僕がそれをするに足ると思えるだけのものが欲しいんだ」
わたしの覚悟とは無関係に、お兄さんはすぐにそう言いました。最初からそのつもりだったとしか思えない速さですし、まだ懇願らしい懇願もしていません。
大事なものを対価に懇願する相手を、ニヤニヤと嗤いながら足蹴にして悦に浸る人かと、一瞬でも警戒してしまった自分が恥ずかしいです。
けれど、当然ですがわたしに払えるようなものなんてありません。唯一差し出せそうなものは体ですが、据え膳に手が付けられなかったことから、それすら求められるかわかりません。
おや?これはもしかすると、お前には何も払えるものなんてないだろ現実見ろよバーカとか言われるのでしょうか?お兄さん鬼畜説、早くも二度目の浮上です。
「そこでひとつ提案なんだけど、この家で家事をやってみる気は無いかな?やること自体は多くないし、衣食住の面倒もこっちで見る分お小遣いくらいにはなると思うけど、お金も渡す」
はい、鬼畜説再沈殿です。なんというか、お兄さんのことを少しでも疑った自分が間違っているような気がしてきました。
というか、この条件はわたしが妄想していたものの上位互換です。この家に置いてもらえて、やることをもらえて、存在意義が与えられます。きっとお兄さんは優しいでしょうし、お金まで貰えるなんて、考えたこともありませんでした。
「その分のお金は貯めてもいいし、何か欲しいものが出来ればそれに使ってもいい。なにか追加でやってもらった時にはプラスして払いもする。どうかな?悪い条件じゃないと思うけど」
反射的に頷きます。頷かないはずがありません。だって、お金が貯まるまでここにいられるのです。こまめに使えば、いつまでも必要な分のお金が貯まらず、居座り続けるなんてことも出来るのです。そんな迷惑なことをされる可能性を、お兄さんは考えなかったのでしょうか。
お兄さんから貰える額などを教えてもらいましたが、何の相場がどれくらいなのか全くわからないので、きっとまた聞くことになると思います。
「さて、食べてる途中に始めちゃってごめんね。話すのはこれくらいにして、食べきっちゃおうか」
はい、と一言返事をして、お皿の上のトーストにかじりつきます。話していたぶん時間が経ってしまったので、もう温かくはありませんでした。
これまでと同じ、冷たくなった食事。
でも、不思議といつも感じていたさみしさを感じることは、ありませんでした。
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