幸福の黄色いドーナツ(裏1)
今日は用事もないし、何時に起きるかも分からないからいつもみたいに早く起きなくていいよと言われ、ちゃんとわたしのことを気にかけてくれていることを嬉しく思いながら眠ったのが昨日、土曜日の夜のことです。
お言葉に甘えて、ゆっくりねむらせてもらって、目が覚めたのは9時頃のことでした。ここしばらく朝は6時半くらいに起きて動き始めていることを考えれば、なかなかにお寝坊さんですね。
内心ちょっと自省しながら、せっかく起きたのだからお兄さんのために朝ごはんを用意したいと思い、体を起こします。
起きあがってもくしゃみが出ないことにも、それなりに慣れてきました。寝ていて体が痒くなることも無く、鼻水や涙が止まらなくなることもないお布団というのは、とても素晴らしいものです。
そんな幸せをかみ締めつつ、まだ眠っているお兄さんの寝顔を見て気合いを入れようとして、思考が止まりました。
いつもそこに寝ているはずのお兄さんが、そこにいないのです。わたしがご飯の支度をしているうちに、匂いにつられて起きてくるはずのお兄さんが、いるべきはずのベッドに居ないのです。
いるべきはずの人がいない。そんなことは、誰でもわかる異変です。ようやく安定してきた、少なくともわたしはそう思っている世界が、ゆらされる事態です。
楽観視をすれば、お兄さんはお散歩にでも行っているのでしょう。少しすれば戻ってきて、また元通りになれるのでしょう。
けれど、最悪の事態を考えれば、悲観的に物事を見てしまえば、お兄さんはこのまま戻ってこないかもしれませんし、戻ってきたとしても誰かわたしにとって都合の悪い人を連れてくるかもしれません。
あまり広くない部屋の中の、人が隠れられそうな場所を全て確認した上で、玄関の靴を見て、間違いなくお兄さんが今家にいないことを確信して。
それでもきっと、お兄さんがそんなことをすることは無いだろうと、頭ではわかっています。けれど、頭でわかっていることがそのまま安心になるわけでもないし、わかっているからと言ってそれを信じれるわけではありません。
頭の中がぐちゃぐちゃになり、もしお兄さんに捨てられていたらと想像して顔はきっと真っ青になっているでしょう。そのくらい、自分のメンタルが普通ではない自覚もあります。
『はぁ……帰ってきたくなかった……』
お兄さんはきっと、そんなことは言いません。わかっていますが、それでも怖くなってしまいます。
その恐怖を耐えきることが出来ず、わたしが救いを求めたのはスマートフォンでした。お兄さんのお下がりの、お兄さんが使っていた跡が残っている、お兄さんと連絡を取るための機械。
恐怖に支配されるわたしにとって、これ以上に頼もしいものはありませんし、これ以外に縋れるものもありません。
おはようと居場所を尋ねるメッセージを送って、少し待ちます。返信が来ないのであれば、既読無視されるのであれば、わたしはお兄さんに疎まれているのでしょう。けれど、既読をつけてもらって、返信までしてくれるのなら、わたしはまだお兄さんに存在を許されているのです。
恐怖と不安に震えながら、画面を見つめます。少しして、既読の2文字が着きました。恐怖が大幅に削がれて、安心が強くなります。
少し間を置いて、今から帰るところだよと返信が来ました。それを見て一番最初に感じたものは、間違いなく安堵です。ああ良かったと、全部わたしの杞憂に過ぎなかったのだと安心しました。
そして同時に、何故でしょうか、家を出る前に、どこに行くのか教えてくれればいいのにと思ってしまいました。だって、わたしが不安になったのは、お兄さんがどこに行くのか、なにをするのかがわからなかったからです。それさえわかっていれば、こんな思いをすることは無かったのです。
その考えが、自分勝手なものだという自覚はあります。所詮ただの居候、あるいはそれ未満に過ぎない分際で、家主様の生活を把握しようなんて、関与しようなんて、あまりにも傲慢な考えです。
けれどもそれを理解しつつも、お兄さんの行動を知りたいと思ってしまい、お兄さんがわたしに教えてくれないことが恨めしく思ってしまいます。
帰宅の途中を知らせる言葉が、どれだけ嬉しく、ワクワクすることでしょう。それを予め知れることが、どれだけ安心できることでしょう。なんなら、どこにいるのかを、何をしているのかをリアルタイムで把握できるのだとすれば。
わたしはもう、ほかのことが手につかなくなるくらい、ずっと見ていられるかもしれません。
『なんで私の行動をいちいちおまえに言わなきゃいけないの?』
さすがにそこまで求めるのは異常だとわかっているので、これは心の内にしまいこみます。実際にそう思ったことが同じでも、それを誰にも伝えなければないのと同じです。
けれど、そんな夢みたいな妄想はともかくとして、お兄さんの用事を知っておきたいのは言い訳できない事実です。
無理やり理由をつけるなら、ご飯のタイミングを考えるため、とかでしょうか。そんな建前でお兄さんのことを知って、わたしがすることはなんでしょう。
タイミングのために必要なことは、わたしのわがままのおかげで既に知れています。これ以上のことは、わたしの自己満足にしかなりません。わたしのために、お兄さんの時間を奪う事にほかなりません。
それは、とっても悪いことです。お兄さんに迷惑をかけないようにしなくてはいけないわたしが、ただでさえ迷惑をかけているのにそれより上を望むなんて、あまりに業突く張りです。
けれど、もしお兄さんがわたしのためにそれをしてくれたらと考えて。わたしのためにしかならないことに貴重な時間を使ってくれて、それを是としてくれて。
そう考えただけで、わたしの中ですごい“幸せ”が溢れました。
お兄さんを縛って、お兄さんの負債になって、お兄さんの一部になれたら。
どれだけ幸せでしょう。どれだけ、心地いいでしょう。
けれど、こんなのはいけない感情です。
優しいお兄さんに漬け込んで、自分のしたいように搾取しようだなんて、許されるはずがありません。許されてはいけません。
自分の内から湧き上がるそれを、必死に押さえ込みます。悪いものだから、隠します。こんな気持ちがバレてしまったら、きっとお兄さんはわたしを直ぐに追い出すでしょう。
気持ち悪いと、不快だと思って、わたしを遠ざけるでしょう。それは嫌だから、わたしはお兄さんの前ではいい子でいなくちゃいけないんです。
お兄さんが嫌がらないように、叶うならば、お兄さんがわたしといることを望んでくれるように、いい子にならなくちゃいけないんです。
「ただいま」
わたしが自分の心をどうにかしようとしていると、お兄さんが帰ってきました。こんなふうに思ってしまったわたしは、お兄さんに合わせる顔がありません。それでも面の皮を厚く重ねて、何とかお兄さんの前に出てお帰りを言います。
自分でもわかるくらい、暗い声が出ました。お兄さんの顔を見て、また欲求が湧き上がってきます。悪い気持ちが、とめどなく出てきます。
これに身を任せて、お兄さんにすっぱり嫌われて、終わりにするのもいいかもしれません。だって、わたしはきっとこれを我慢できなくなってしまいます。ずっとずっと溜めて、優しい思い出をぐちゃぐちゃにしてしまうくらいなら、今ここで終わらせる方がいいかもしれません。
お兄さんの顔を見ながらそんなことを考えて、そのつらさに視線が自然と下がります。そうして視界に入った買い物袋を見て、わたしはギリギリ正気に戻りました。
今しなくてはいけないことは、わたしなんかの心を考えることではなく、わざわざ朝から買い物に行ってくれたお兄さんの荷物をしまうことです。
袋を受け取って、すぐそばにある冷蔵庫に食材を入れていきます。大きさや形、硬さなどを考えながらしまう作業にはパズルのような楽しさを感じますが、今のわたしにはそれを楽しむ余裕はありません。
とりあえずお兄さんも帰ってきたので、朝ごはんの準備だけはしてしまいます。残り物と、冷蔵庫の中のもの。ご飯は炊飯器の中の残りをレンジで温めます。
出来たてでもありませんし、体が温まるメニューでもありません。けれど、わたしの分があって、誰かと一緒に食べれられる食事です。わたしの一番の楽しみでいつも幸せな時間です。
そのはずなのに、今日は美味しくありませんでした。味は決して悪くないのに、楽しくありませんし、心が冷たくなります。温め直した味噌汁を飲んでも、お兄さんの顔を見ても、温かくなりません。
そんな自分が嫌で、優しいことを思い出そうとしても、悪い気持ちが全部持って行ってしまいます。何を考えても、そのまま努力せずにそれが続けばと、いつまでもいつまでもお兄さんに寄生して、たとえ困らせながらでも続いたらと思ってしまいます。
わたしは、いい子でいなくちゃいけないのに。悪い子なんて、嫌われるってわかっているのに、わたしはいい子になれません。嫌われたくないのに、いい子になれません。
味はあるのに味がしない朝食を済ませて、自分で洗い物をしてしまおうとするお兄さんから食器を回収して、洗います。
なるべき姿はわかっているのに、なれません。嫌われることがわかっているのに、直せません。せめて我慢が出来ればいいのに、抑えられなくなります。
ずっとここにいたいです。でも、ここにいたら迷惑になります。
迷惑をかけたくないです。でも、離れるのが辛いです。
離れたくないです。でも、そんなことを続けていたら嫌われてしまいます。
嫌われたくないです。捨てられたくないです。見捨てられたくないです。そのためにはいい子でいなくちゃいけないのに、わたしはいい子であれませんでした。
頭の中がぐるぐる回って、ぐちゃぐちゃになって、涙が出てきます。涙が溢れます。せめて心配だけは書けないように、必死に嗚咽を我慢しますが、少しは漏れてしまいます。
今が、洗い物の途中で、本当に良かったと思います。そうじゃなかったら、きっとお兄さんは気付いてしまいました。気付かれてしまったら、わたしは全部話してしまいました。話してしまったら、嫌われてしまいます。
そうならなくて済んだのは、水の音が声を消してくれたからです。洗う時間が長いと言われてしまうかもしれませんし、それで怒られるかもしれませんが、気が付かれるよりはずっといいです。
涙が止まるのを待って、呼吸が落ち着くのを待って、頭はまだぐちゃぐちゃですが、何とか動くようになったので、洗い物を終わらせます。
ついでに顔を洗って、洗面台の鏡でおかしいところがないか確認します。少し目が赤い気がしますが、これだけでは泣いたと思われないでしょう。
ちょっと俯いた状態で戻り、布団にダイブします。顔は見られていないでしょうか。違和感は持たれていないでしょうか。気になって、不安です。
天井を眺めながら、頭の中の整理を頑張ります。嫌われたくないから、どうにかいい子でいられないか、考えます。
『めそめそするな、鬱陶しい』
『すみれはにこにこしてるのが一番かわいいよ』
暗いのは、ダメです。わたしが暗かったから、優しいお母さんもわたしを嫌いになってしまいました。暗かったら、いい子でも嫌われてしまいます。
嫌われたくないので、わたしは明るい子にならなくちゃいけません。お日様みたいな子にはなれなくても、ろうそくみたいは子にはなれるかもしれません。
『ほんっとに役に立たない』
『着古した服も、雑巾にすればまた使えるでしょ?だから最後まで大事に使うの』
役に立てば、いつまでもいれるのでしょうか。使えれば、ずっと大事にしてくれるのでしょうか。
嫌いでも、使えるならいていいのでしょうか。悪い子でも、役に立っていれば捨てられないのでしょうか。
それなら、捨てられないくらい大事なものになれば、捨てることが出来ないくらい役に立てれば。
悪い子なわたしでも、捨てられることなくここにいれるのでしょうか。
お兄さんを見ます。こちらに顔を向けて、スマホをいじっていました。その姿を見て、わたしの中で悪い感情が沸き上がります。一度出てきてしまったそれは、きっともう消えてくれません。
だったら、わたしはもういい子でいることを諦めます。悪い子だってことを頑張って隠して、バレたとしても捨てられないくらいに、お兄さんの生活にくい込んでみせます。わたしにとっての、お母さんやお兄さんみたいな、居なくなられたら生きていられないくらい大事な存在になってみせます。
少しだけ、良心が痛みました。だって、わたしがしようとしているのは、恩を仇で返すようなものです。わたしという不良債権を押し付けて、人生を圧迫しようという行為です。許されるわけがありませんし、許されてはいけません。
……けれど、わたしはもう悪い子です。悪い子だから、そんなこともしてしまいます。僅かに残った良心を、首を振って振り払い、目を瞑ります。
『すみれにも、いつか大事な人ができるといいね』
お母さんが昔、言ってくれたその言葉。頭を撫でながら微笑んでくれたその言葉。
きっと、その大事な人は、お兄さんです。
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