幸福の黄色いドーナツ

 一日半経って土曜日の朝。これまでであれば、食事の作りだめだったり、掃除だったり洗濯だったりと、やることが多くて憂鬱な気持ちで迎えることが多かったが、今日は憂鬱な家事のほとんどをすみれが済ませてくれているおかげで、清々しく迎えられる。


 まだ寝ているすみれを起こさないように身支度を整えて、音を立てないように家を出る。目的地は近所のスーパーとドーナツ屋だ。


 今日やらなくてはいけない買い物を真っ先に終わらせ、あとは一日のんびり過ごしたい。すみれに貰ったリスト通りのものを買い、その帰りにゴールデンチョコレートを二つ、ついでにアソートのものを一つ買う。おやつにしてもいいし、お昼にしてもいい。



 店を出るとスマホに通知が二つ入り、送信者を見るとすみれの名前。


“おはようございます”

“今どちらにいますか?”


 起きた時に人が居なくて驚いたのだろうか、そんなメッセージが来ていたので、僕は軽く苦笑を浮かべながら、今から帰るところだと返信する。


 そのまま足を進め、程なくして家に着く。だいたい4000歩ほど歩いたからだろう、うっすらと汗ばんでいた。散歩としてはそこそこだろう。



「……おかえりなさい、お兄さん」


 玄関を開けてただいまと言うと、返ってきたのは少しテンションの低いすみれの声。眠いからだろうか、僕のことをぼーっと見て、思い出したかのように買い物袋を受け取ると冷蔵庫にしまう。


 ドーナツの袋は常温でも問題ないのでひとまずレンジの上に。



 少し暗い空気のままで、納豆と漬け物、前日の残りの味噌汁の朝食が進む。


 何故か口を開かないすみれのことを心配しながら朝食が終わり、洗い物をしようと申し出るも断られて、そのまま昼前まで引き摺った。



 この日のすみれは終始様子がおかしく、これまでとは違った。好きな事をやっていていいはずの、やらなくてはいけないことがない時間。少なくとも先週はスマートフォンを使って何かを調べていたはずの時間に、すみれは何もすることなく布団に横たわって、ボーッとしていた。


 定期的に瞬きだけして、ぼーっとしながら布団に転がり続けるすみれ。本当なら、今日はすみれの見たがる映画でも一緒に見て、それを楽しめればと思っていたが、とてもそんなふうには進みそうにない。なんなら、今から映画を見始めたら、無駄に映画を見る僕とその横で何も見ていないすみれという結果に終わるだろう。




 どうしたものかと考え、一旦ひとりにするのもありかとも思ったが、外出する理由も特にないし何よりこの状態で一人置いておくことも心配だ。


 スマホを使いながら、視界の端にすみれの姿を写して見守る。


 しばらくぼーっとし続けて、不意にこちらを見つめて、かぶりを振って目を閉じる。そのまま少しすると寝息を立てた。



 ただの寝不足だったのだろうか、それなら心配はいらないのだが、体調不良の可能性も残っているので、起きてからの様子次第で考えた方がいいだろう。



 風邪をひくといけないので毛布だけかけてやり、昼まで時間を潰す。


 昼食は、うどんでも茹でればいいだろうか。すみれがどんなメニューを考えているのかか分からないため、冷蔵庫の中の食材を勝手に使うのも憚られる。自分の家の食材なのにおかしなものだと、内心嬉しく思いながら考え、茹でること7分。お湯を切り一度冷水で締め、部屋の方を見るとすみれと目が合った。



「おはよう、温かいうどんと冷たいの、どっちがいい?」


「おはようございます、温かいのがいいです」


 一応希望を聞いたものの、気温的にそうなるだろうと思って沸かしておいたケトルから丼にお湯を注ぎ、濃縮つゆを薄めてうどんを投入する。しょうがとネギは好みでいいだろう。




 昼食を済ませて、改めてすみれを観察すると、今度はいつも通りに見える。食事中のお喋りこそなかったが、食べ終わってからの振る舞いに違和感はない。片付けくらいはという僕に対して、それも自分のやることだと主張して全部済ませてしまう。


 戻ってくるとスマホをいじっているし、やっぱりただ眠かっただけなのかと結論付けて、そういえばドーナツはどのタイミングで食べたいのだろうと思い出す。


 漠然と昼食かおやつの時間だろうと思っていたが、別に夕方に食べてもいいし夜に食べてもいいわけだ。すみれが食べたいと言って買った以上、すみれの好きなタイミングで食べてもらいたい。



 そう思って聞いてみたら、三時のおやつとして食べたいとのこと。ホットのカフェオレも一緒に飲みたいと小さなわがまままで言ってくれた。


 普段はあまりコーヒーなどは飲まないので、ストックがあるか心配に思い確認してみると、貰い物で埃をかぶっていたものがいくつか。美味しいからと勧めてもらったものだが、ドリップするのが手間でなかなか手をつけなかったものだ。



 貰った以上使わないのも悪いと思ってはいたためちょうどいい機会だと、3時少し前まで時間を潰して淹れてみる。一杯分ずつ個別のフィルターに入っている豆にケトルからお湯を注いで蒸らし、円を描くように回しいれる。この動きにどんな意味があるのかは知らないが、みんなやっているイメージがあるので何かしらの意図はあるのだろう。


 少しずつ入れて、充分濃いであろうものができたので、三分の一ほど牛乳を入れれば出来上がりだ。砂糖などはいれなくていいとの事なので、作業としてはこのくらいのもの。



 座卓に戻り、袋からドーナツを取り出してすみれに渡す。手が汚れないように紙で包まれているそれは、すみれが食べたいと言った黄色いつぶつぶ付きのもの。


 受け取って、匂いを嗅いで、すみれは笑った。商品名を言われた訳ではなかったので、同じものを想像できているか少しだけ心配していたが、この様子を見る限り大丈夫だったのだろう。


 一緒に食べ始め、程よい甘みをコーヒーで流す。自分で作るドーナツとは違って、冷めていても油のくどさがない。


 たまに食べるとやっばり美味しいなと思いながら食べ進め、すみれが食べ終わって心なしか寂しそうにしているところに、色々な味が楽しめるアソートのドーナツを取り出す。


 一口大の小さなドーナツが8種類入っているそれ。ほかのドーナツと比べると少しいいお値段だが、僕は小さい頃、これがとても好きだった。


「これ、ついでに買ってきたんだけど、まだ食べ足りないならどうかな?」



 そう言った瞬間にすみれの表情は笑顔に戻った。ともすれば、先程まで食べていた時以上かもしれない。それくらいの変化があって、すみれは食べたいと言う。


 なら好きなものを選んで、食べたいだけ食べたらいいと伝えると、嬉しさと困惑を混ぜたような顔に。そのまま少し考えると、


「お兄さんと順番に、食べたいです。お兄さんのおすすめで、食べさせてくれませんか?」


 不意に、これまでで一番ストレートなおねだり。言われた僕自身、少しどころかだいぶ恥ずかしいが、すみれがわがままを言ってくれるのは良い兆候だ。それに、ここで辺に断ったりして今後言ってくれなくなったら困る。



 気恥しさを、小動物に餌やりするようなものだと自分に言い聞かせることで押しとどめ、中にホイップクリームが入っているものをすみれの口に入れる。


 もきゅもきゅと小さな口を動かして、おいしいと伝えてくる少女の姿は実際とても小動物的で、一度そう思ってしまうともうそうとしか思えなくなった。


 本人の希望通り、次のひとつは僕が食べ、早く早くと目で訴えてくるすみれに新しいものを食べさせる。


 次第に身を乗り出してくるようになったすみれに、4つめを食べさせた頃には、すっかり満足してくれたようで、何度もお礼を言い、この日はいつもより気合いの入った晩御飯を作ってくれた。




 ────────────────────────


 燐くん視点パンチ弱いな……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る