幸福の黄色いドーナツ(裏2)

 同じ時間を過ごしてるはずなのにすみれちゃんだけ文量が多くなるのは、きっと若い分体感的な時間が長いからだと思います()


 全くの余談ですが投稿時間を12:34にしてるのは数字の並びが気持ちいいからです。特に深い意味はありません(╹◡╹)



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 ボコボコとお湯の沸く音、換気扇のファンが唸るのを聞きながら、意識が浮き上がってきます。キッチンの方に明かりが付いていて、お兄さんが何かを茹でているのがわかります。


 眠りから覚めて、少しだけ身動ぎをすると、体に暖かい何かがかかっていることがわかりました。わたしが眠る前は、お布団にダイブしたのです。当然、部屋の空気にそのまま曝されていました。少し室温が低かったことを踏まえれば、寒さでくしゃみでもして起きるのが妥当だったはずです。



 それなのに、わたしは音で起きました。目を開けないままで手を動かすと、柔らかくてふわふわした感触があります。


 お兄さんが、わたしに使わせてくれている毛布です。わたしが以前まで使っていたものと違って、体が痒くなることもなく、柔らかくて暖かい毛布です。


 でもそれは、わたしがダイブしてからモゾモゾしているうちに、足元の方に追いやられたはずのものでした。



 足元の毛布が、勝手にわたしの体にかかるなんてことはありえません。わたしが寒さに耐えきれず、器用に自分で毛布を被ったというものも、あまり現実的ではありません。


 であれば、残るものは、お兄さんがわたしの体を心配してかけてくれたというものになります。お兄さんがわたしのためにわざわざ手間をかけてくれたということになります。



 歓びが、溢れてきました。もちろんこれは悪い感情なのですが、わたしは既に悪い子として生きることを決めた身です。純粋に、この暖かさを噛み締めます。



 表情は、きっと緩みまくっているでしょう。自分でも、表情筋がにまにましている自覚があります。だって、お兄さんがわたしのためにしてくれたということが、それだけ嬉しいんです。お兄さんがそれをしてくれることで、とっても安心できるんです。



 けれど、いつまでもにまにましているわけにもいきません。


 だって、わたしがこうしている内にも、お兄さんは何かを茹でているのです。お兄さんの生活に、取り返しがつかなくなるくらいまで食い込むためには、ここで寝過ごすわけにはいかないのです。



「おはよう、温かいうどんと冷たいの、どっちがいい?」


 気合を入れて目を開けて、すぐにこんにちはしてしまった視線の直後に、言われたのはそんな言葉でした。


 それほど長くない言葉ですが、わたしのことを見てくれて、わたしの意見を聞いてくれる、優しい言葉です。胸の奥からポカポカが拡がって、もっと見てほしいと思ってしまいます。



「おはようございます、温かいのがいいです」



 自分の中にある悪い子を精一杯押さえ込んで、いい子に見て貰えるように、お兄さんが用意していそうな方を選びます。少し冷え込むこの季節に、わざわざ冷たいものを欲しがる人は少ないでしょう。


 本当は、お兄さんに今すぐ変わると言った方がいいのでしょうが、残りの茹で時間もわからないし、お兄さんもわたしの方を見ながら少し微笑ましそうにしています。


 もしお兄さんがこれを楽しんでいるのなら、無理に変わろうとするのはマイナスです。わたしの想像では、楽しんでいる確率は半分くらいでしたが、それはともかくとしてお兄さんがわたしのために動いてくれると考えると、暗い悦びが湧き上がります。


 わたしは悪い子ですから、それを受け入れて、さらに、そうであろうという推測はともかくとして、自分の欲しいものを告げてしまいます。



 お兄さんの好みに任せるのなら、どちらも好きだからお兄さんの好きな方でと言えたはずです。なのに、わたしは温かい方がいいと言いました。すごいわがままです。




 そのわがままに備えてくれていたのか、最初からそのつもりだったのかはわかりませんが、お兄さんが温かいうどんを用意してくれたので、ありがたくいただきます。

 わたしの存在意義を考えると素直に喜べませんが、悪い子なわたしは全力で喜んでお昼ご飯をいただきます。



 どんぶりに濃縮つゆとお湯が注がれ、かけうどんの汁が作られました。乾燥ネギとチューブのしょうがが横に置かれて、好みで使うように言われます。



 少し前までのわたしにとっては嗜好品だったしょうがも今となってはただの薬味です。


 気温が寒いから、温かいうどんを食べてもっと温かくなりたいから、わたしは少し多めにしょうがを加えます。ついでにアクセントとして乾燥ネギも加え、お腹の中からポカポカが広がりました。


 体の内側から広がる温かさと、目の前に大切な人がいる幸せ。それをかみ締めながら、お兄さんのことを眺めて、食べ終わったあとの食器を洗います。

 お兄さんがわたしのために茹でてくれた鍋、お兄さんが使ったどんぶり。ここにまで喜びを得てしまったら、さすがに人として大切なものも見失ってしまう気がしますので、少し疼く心を傍に何も感じなかったことにします。


 吹っ切った状態で、お兄さんに画面を見られることがないようにやることは、お勉強です。特に、明確な答えがわかる理系科目の、本来ならわたしが学んでいたであろう中学程度の範囲。


 数年前までお母さんが教えてくれた、小学校中高程度の内容よりも、だいぶ難しくなった範囲ですが、このままお兄さんの人生に寄生し続けるなら、最低限の教養は押えておかなくては、お兄さんに恥をかかせることになるかもしれません。


 自分の理解の限界とその少し先を常に把握しつつ、改めていくことが正しいのだと思いながら、トライアンドエラーを繰り返して学びます。何度も間違えて、その度に模範解答を見て確認して、正しい考え方を身に付けます。


 本当はわかっている人に教えてもらうのが一番なのでしょうが、教えてくれそうな人はお兄さんしかいません。頼めば教えてくれそうではありますが、もし、これから死ぬやつに学なんていらないだろと言われたらと思うと、どうしても踏み出せません。



 だから一人で勉強します。お兄さんにしっかり根を張るまでは、一人でやります。お兄さんがわたしを切り捨てられなくなったら、お兄さんにお願いして教えてもらいます。勉強のためのテキストを買ってもいいかもしれません。



 頭の中で計算して、それを入力します。計算間違えや覚え間違えなどの簡単なミスが、どうしても減りません。



「すみれちゃん、買ってきたドーナツだけど、どのタイミングで食べたいかな?」



 ミスの減らし方に悩んでいると、お兄さんがこちらに顔を向けて訊ねてきました。素直ないい子なら、お兄さんの好きなときでと言うのでしょうが、わたしはわがままな悪い子です。



「えっと、……できれば三時のおやつに食べたいです」


「……あと、できればカフェオレが飲みたいです。温かくて、甘くないやつ」


 だから、自分の好きなタイミングを言ってしまいます。ついでに、わがままを重ねてしまいます。


 緊張と、期待と、不安で胸がドキドキします。わがままが過ぎると怒られないでしょうか。ちょっとだけ、怒られてみたいと思いました。嫌われたくは無いけど、強い気持ちをぶつけられたいと思いました。


 わたしのわがままのせいで、コーヒーを探す羽目になったお兄さんを見ながら、どんな風に怒るのか想像します。


 宥めるように諭すのか、お母さんみたいに舌打ちするのか、目に見えて冷たくなるのか、語気が荒くなるのか、怒鳴るのか、手が出てしまうのか。


 怒られてみたいとは思ったものの、後半は悲しくなってしまいますし、怖いですね。やっぱり怒らせるのはなしの方向でいきます。


 勉強を再開します。途中、お兄さんが見つけたコーヒーをわたしが淹れると言ったりしましたが、コーヒー淹れたことあるの?と聞かれて轟沈しました。美味しいコーヒーを淹れられるようになりたいとも思いましたが、お兄さんは普段好んで飲まないらしいので、やっぱりいいかなと改めます。


 ケトルが沸いて、加熱が止まる音がします。とぽとぽと、ゆっくりお湯が注がれます。


 開いた扉の反対から、それを眺めました。


 コーヒーの香りと、音と、穏やかな微笑み。


 手に持っている物がやかんではなくケトルで、それをしているのはお母さんではなくお兄さんです。なのに、それはわたしが昔見たものと一緒でした。


 何もせず、できずにただそれを見続けます。お兄さんがこちらに戻ってきて、湯気の上るマグカップを置いてくれるまで、目が離せませんでした。


「はい、どうぞ。……これで合ってるよね?」



 差し出されたのは、黄色いつぶつぶが付いたドーナツ。お母さんが好きだったもので、わたしも大好きだったものです。わたしの、思い出の食べ物です。


 同じ袋、同じ包み方、同じ匂い。記憶のままです。わたしの幸せの記憶のまま、ここにあります。それが嬉しくて、でも何故か、ほんの少しだけ寂しいです。



 お兄さんと一緒に食べ始めて、小さく笑いながらコーヒーと一緒に楽しんでいるその姿に、やはりお母さんが重なります。美味しいと言っているのに、苦いコーヒーをしきりに飲む姿。


 わたしにはその理由がわからなくて、わかりたくて、お母さんの真似をしてコーヒーを飲んでいました。でも何度飲んでもやっぱり美味しいと思えなくて。


『すみれも、大人になればきっとわかるよ』


 苦いのと甘いののバランスがいいのだと、言っていました。一度苦味を挟むことで、より甘みが際立つのだとも言っていました。


 一口、飲んでみます。確かに甘さの再確認にはなりますが、わざわざ挟む必要性がわかりません。

 二口、飲みます。昔と違って美味しくないと思うことはありませんでしたが、やっぱりドーナツに合わせる理由はわかりません。

 三口、飲みました。やっぱり、わかりません。きっと、まだわたしが大人に成れていないからなのでしょう。


 ただ、甘さを純粋に楽しめなくなるのなら、わたしは子供のままで居たいかもしれません。


 コーヒーの確認をしながら飲んでいると、すぐにドーナツはなくなってしました。寂しいですが美味しかったです。ずっと食べていなかった、思い出の味。


 また食べたいなと思い、少し物足りないのを誤魔化すために、残ったコーヒーを飲んでしまいます。口の中に苦味が広がります。やっぱり、わたしは甘いだけでいいです。



「これ、ついでに買ってきたんだけど、まだ食べ足りないならどうかな?」



 わたしが内心物足りなく思っていると、そんなに物欲しそうにしていたでしょうか、お兄さんが袋から追加のドーナツを取り出してくれました。元々買ってあったものだとわかってはいても、食べ足りないのが見透かされたみたいで恥ずかしいです。


 ただやはり、それ以上に嬉しいものであり、思わず頬が緩んでしまいます。しかも、好きなものを好きなだけ選んで食べていいとまで言ってくれます。



 いい子なら、そんなことを言ってもらったとしても、しっかり遠慮します。失礼にならないように一つだけ頂いて、あとはお兄さんに食べてもらいます。


 でも、わたしはわがままな悪い子ですから半分こしたいなんて言ってしまいます。お兄さんが買ったものなのに、半分も貰ってしまいます。


 しかも、一緒に食べるだけではなく、食べさせてもらいます。お母さんですら、わたしを嫌いになる前からやってくれなくなってしまったことを、やって欲しいと甘えてしまいます。



 さすがに怒られるでしょうか、お兄さんの顔色を伺います。ちょっと困ったような顔をしましたが、一つをピンでさしてわたしの方に差し出してくれました。


 口の中に広がるのは、深みのある甘さです。ちょっとしつこいくらいに甘くて、でもそれが美味しいです。


 胸がポカポカして、安心できて、とっても幸せです。もっと、もっととほしくなってしまって、それが抑えられません。でも、それでいいんです。わたしは悪い子だから、甘えていいんです。



『わがままを言わなくて、すみれはいい子ね』







 悪い子って、すごく幸せです。








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