家の中での過ごし方

 10/29分です


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 ちゃんと話そうと思って、頭を冷やして冷静になるためにシャワーを浴びたのに、あんまりにも無邪気な笑顔で、すみれが話しかけてきたから、それを壊したくなくて何も言えなかった。


 それを言ってしまうことで、笑顔が消えてしまったら。空気が悪くなったらと思うと、どうしても言えなかった。……いや、そんなのは言い訳だ。所詮、僕に勇気がなかっただけのこと。それを、他の何かに理由を求めたかっただけだ。



 最初は利とか損とかなにも考えないで、というか、損を見越して始めたことだったのに、なんでこんなふうになってしまったのだろうかとひとりごちる。聞かせるための言葉ではなかったのに、うっすらと聞こえてしまったらしいすみれが、作業の手を止めてこちらに向き直る。



「お兄さん?どうかしましたか?」


 なんでもないよと返して、不思議そうに作業に戻るすみれを見る。まさか、君のことをいつまでもここに縛り付けたい欲求に抗っていた、なんて言う訳にもいかない。少し前ならともかく、今の状態で監禁なんでしょうものなら、溝櫛経由で発覚してしまうリスクが高……、今、僕は何を考えていた?


 すみれのことを監禁してしまえば、ずっとこの子は僕といてくれるのに、なんて考えていたのか?すみれが家に閉じ込められていて、どんな生活をしてきたのか、それと比べた時に、今の生活がどれほど幸せか話してくれたことを、知っているのに?


 そんなことをしてしまったら、この子がどれだけ傷つくのかをわかっているのに、それを考えてしまったのか。あまつさえ、溝櫛がいなければ実行していたかもしれないのだ。



 そんなやつは、すみれの近くにいるべきでは、ないだろう。他の人の元に、他の環境にいる方が、すみれは幸せになれるだろう。



 先日は、すみれをうちの子にしたいなんて言う溝櫛の言葉を否定したが、本当にそうしてもらった方がいいのかもしれない。もし送り出して、それでも僕のところに戻ってきたいと、そう言ってくれるなら喜んで受け入れるが、きっとそうはならないだろうし、その方がすみれのためになるだろう。



『何もない部屋で待ってるのが寂しかったから、作っちゃいました』



 すみれは、そうも言っていた。僕が寂しい思いをさせているなら、僕のせいでそれが続くなら、他の人を頼った方がいいに、決まっている。


 あの日シャワーから浴びた時のすみれを思い出す。溝櫛に髪の毛をいじられながら、楽しそうにしていた。ちょっとしたアレンジをして、嬉しそうに見せてくれた。髪が伸びたらもっと色んなやり方を教えてあげると言われて、ワクワクしていた。



 やっぱり、考えれば考えるほどすみれは僕のところにいるべきじゃない。



『お兄さん!瑠璃華さんかわいくしてもらったんです!!……かわいい、ですか?』



 そう思って、すみれにそれを伝えようとして、溝櫛に髪型をいじってもらって嬉しそうに僕のところに来たすみれを思い出した。すごく笑顔でやってきて、不安そうにこちらを見上げたその姿。ちゃんとかわいくできているよと、髪型を崩さないようにそっと撫でた時の、花が綻ぶような儚い微笑み。


 それを思い出した時、心の底から束縛したいと思ってしまった。すみれのご飯が美味しいからとか、すみれがいてくれると生活が華やかになるからとか、そんな利益的な理由ではなく、この子を常に自分の元に留めたいと思ってしまった。



「お兄さん、その、実は少しだけ相談があるんです」



 自分の考えていた内容から、ついついすみれが僕から離れたがっているんじゃないかと考えるが、すみれの表情が、言い難いことを隠していながらもどちらかと言うと不安、その中でも甘えを含んだものに思えるから、そうでは無いのではないかと希望を持つ。


「どうかしたのかな?何かあったんだったら、なんでも相談してくれていいんだよ?」


 これまでと同じように、善意的な、親切なお兄さんとしての振る舞いを自分に言い聞かせて、返答をした。僕は、ちゃんと返せていただろうか。少し自信はないけれど、今はこれでゴリ押しするしかない。


 近いうちに余裕を見つけて、自分がこれまですみれに対してどんな言動をしていたのかを洗い出しておかなくてはいけない。



「えっと、その、相談なんですけど、わたしって、これまで暇な時間は家事のこととか、最近は手芸とかをやっていたんです」



 それは当然、平日の夜中だったり休日だったりでしか見ていない僕でも、しっかりと認識している。なんなら、すみれがあまりにも趣味らしいことをしないから、やっぱり居心地が悪いんじゃないかと不安の一因にしていたくらいだ。


「それでなんですけど、実はちょっと、一般教養くらいのこと、特に義務教育くらいの内容は知っておきたいなと思いまして。ほら、この先お兄さんと一緒に過ごすなら、それくらいの教養はあった方が、他の人と会う上でも恥にならないでしょうし、何よりわたしが知りたいなって思ったんです」




 そのことは、すみれが僕から旅立とうとしている意志の表れにも思えた。反射的にそれを否定して、少しでもすみれがここにいる時間を伸ばせないかと考えて、自分の考えの汚さに自省する。




「それで、なんですけど、実は少しずつ、ネットで調べられるくらいの内容は勉強してきたんです。勝手にしていたことは、お兄さんが気に入らなければ怒ってほしいです。でも、やっぱりお兄さんに相談しておきたいなって思ったのと……どうしても調べるだけだとできないところが出てきてしまったので、教えて欲しくって」



 内容を聞いてみなくては細かいとことは分からないが幸か不幸か僕は学生時代塾講師をしていた身だ。義務教育程度、つまり中学生程度の内容であれば、少なくとも適切なテキストがあれば問題なく教えられるだろう。



 それを教えている間は、すみれが僕のところから離れないのでは、という期待もあって、すみれのその告白を受け入れて、僕にできる程度であればいくらでも教えるとアピールする。



 かつて僕にとって、すみれが幸せになれることが、すみれの幸せに繋がることがいちばん優先されることであったはずなのに、そのためには多少僕の人生に傷がついたとしても多少であれば受け入れる覚悟があったはずなのに。



 今の現状は、その頃とはまさしく正反対なものだ。すみれの事じゃなくて自分の欲に従っている今の姿は、当時の僕から見たら吐き気を催すほどのものだ。




「よかったです……早速なんですけど、実はここの計算ができなくて……何度解いても答えがおかしな値になってしまうんです」



 どうすればいいのかわかりますか?と聞くすみれの計算の途中式を見せてもらうと、その原因はどれも計算ミスにある。



 移項の際のミスや、掛け算かける対象など、簡単なミスを指摘するだけで、すみれにとても喜ばれた。大したことをしていないのに、喜ばれた。



「こうやって、わからないところを教えて貰えるのって、とっても久しぶりなんです」



 こんなにわかりやすく教えてもらえるなら、もっと前から頼めばよかったかも。なんてすみれの言葉に、僕が勉強を見てあげれば、その間は自然とここに残ってくれるんじゃないかと欲を出す。


「これくらいなら、いつでも見てあげるからね。わからないところがあったらいつでも聞くんだよ」




 親切心の裏に隠した下心。自分でも、それに身を任せちゃいけないとわかっているのに、表向きの親切心を理由にして自分を正当化する。




 ああ、なんで、こんなことになってしまったんだろう。

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