ひとつの関係の終わり(裏)

まだ終わりません(╹◡╹)


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 好きな匂いに、安心する匂いに包まれて。温かな感覚と、キュッと身を締め付ける圧迫感が心地いいです。


 人肌程度の温もりと、全身を包み込む匂い。お兄さんが抱きしめてくれているのでしょうか、とっても、とっても幸せな気分です。安心感があって、すうっと落ち着いて、眠ってしまいそうになります。


『寝ててもいいんだよ』


 お兄さんの声が聞こえます。優しい声、優しい言葉です。その言葉に従って、意識を手放します。水面のギリギリにいた意識を、一番下まで突き落とします。なにか美味しそうないい匂いがしたのは、きっと気のせいでしょう。




 再び暖かい人肌とお兄さんの匂いに包まれながら、意識が浮上します。やっぱりとっても幸せで、ずっとこのまま過ごしたいと思ってしまいます。それだけ、わたしが魅力的に感じることを踏まえると、やはりここはお兄さんの腕の中でしょうか。キュッと、締め付けが強くなります。離さない、と求められているように感じて、嬉しくなります。


 幸せだなぁと浸っていると、突然体が揺れます。ぐわんぐわん揺れているのに、お兄さんは何も言ってくれません。




 どうしたのかなと思っていると、不意に意識に光が入りました。眩しくって、眠たくって、目を強く瞑ります。後頭部が熱いのは、窓から射す日差しに背中を向けていたからでしょうか。


 ああ、夢だったのだなと、夢でも、いい夢だったなと思いながら目を開けると、すぐにお兄さんが目に入りました。おはようございますと言って、お兄さんの格好を見ます。


 きっとわたしが起きてこないから、起こしてくれたのでしょう。お兄さんの着替えも終わっていますし、日光も射しているから朝です。すぐに朝ごはんの準備をしないとと思って、跳ね起きます。



「ストップストップ、一回止まって外見てみて。太陽はどこにある?それと、もう朝ごはんは食べてるから今から作ってくれなくても大丈夫だよ」


 太陽の位置は南。それも、多少のずれこそあるとおもいますがほぼ真南です。太陽と時計で方角がわかることを逆用すれば、太陽の位置と方角で時間がわかりますし、その事を知らなかったとしても太陽が南にあれば12時だということはわかります。


 ひどい寝坊をしてしまった上に、お兄さんはもう朝ごはんを済ませてしまったと言います。わたしのやらなくてはいけないことなのに、できなかったことにショックを受けて、思わず座り込んでしまいます。


「そんなに落ち込まなくてもいいよ。それより、よく眠れたかな?」


 やらなくてはいけないことができなかったのだから、落ち込みます。よく眠れたかについては、はいと返事をします。どれくらいよく眠れたかを伝えようとして、本人の前でお兄さんに抱きしめられる夢を見るくらいよく眠れた、なんて恥ずかしくて言えないことに気が付き、お兄さんの顔を直視できなくなります。



「そ、そんなことよりお兄さん、朝ごはんは何を食べたんですか?」


 とりあえず話題を変えるために、少し気になっていたことを聞いてみると、ベーコンや半熟に焼いた卵、マヨネーズにチーズを使って作った、カルボナーラ風トーストのことを教えてくれました。話を聞いているだけで美味しそうで、昨日の夜以降何も食べていないお腹がきゅうと鳴きます。




 わたしも食べたかったと伝えて、どうして起こしてくれなかったのかを聞きます。お兄さんが起こしてくれれば、朝からお兄さんに料理をさせてしまうことにもなりませんでしたし、仮になっていたとしてもわたしも食べれました。


「ごめんね、すみれちゃんがあまりにも気持ちよさそうに寝ていたから、起こしちゃかわいそうだと思ったんだ」



 お兄さんが謝ることではありません。自分で起きることの出来なかったわたしが全部悪いのですから、謝らなければならないのはわたしの方です。



「本当にお願いします。自分の力で起きれなくて、お兄さんに迷惑をかけるようなことはなるべくないようにしますが、お兄さんの朝ごはんを作れないことの方が、わたしのお仕事ができないことの方が大変なんです」




 次から起こしてくださいと言って、わかったと返事をしたお兄さんがことの重大さをわかっていなさそうだったので、重ねて言うことで念押しします。




「……ねぇ、すみれちゃん。すみれちゃんがいつも頑張って、真剣に家事をしてくれていることは知っている。楽しそうに話してくれるから、いやいや義務感でやっているわけじゃないこともわかってる。でもね、そこまで執着するのは、ちょっとおかしい事だと思うんだ」



 少し間を開けて、真剣な顔をしたお兄さんが、ベッドに座っているわたしの目線に合わせて、膝立ちになります。見つめられながら褒められていることに照れたいところですが、それ以上にこの先に続く言葉を聞くのが怖くて、どうしたらいいのかわからなくなります。



「他にやりたいことだってあるはずなのに、全然手を抜かないのはすごく偉いと思うよ。僕がお金を渡す代わりにって頼んだことだから、その分働かないとって意識には素直に尊敬する。でも、他にもなにか理由があるんじゃないかな?」



 他のやりたいことなんて、お兄さんのお世話をすることに比べたら暇つぶし程度のものです。やりたくてやっている事だから、お金の分なんてものはただの言い訳です。


 ただ、それをそのまま伝えるのは気が引けました。だって、こんな気持ちでお家のことをやるのなんて、おかしいです。お兄さんのために働くのが好きなんて言ったら、気持ち悪がられてしまうでしょう。



「…………お兄さんにご飯を食べてもらうのが、好きなんです」


 けれど、お兄さんが真剣に聞いてくるなら、わたしは答えなくてはいけません。お兄さんに嫌われないように頑張るのはいいのですが、嫌われないために嘘をつくことは、黙っていることはいけません。


「お兄さんに、美味しいって言ってもらえたら、それだけで幸せなんです」


 お兄さんが食べてくれることを考えながら作っているだけで幸せです。美味しいと言ってくれたことを思い出すだけで胸が温かくなります。


「お兄さんが、わたしがつくったもの以外のものを美味しいって言うのが嫌なんです。お兄さんの食べるものは全部わたしが作りたいんです」


 食べ物に、それを作った人に嫉妬してしまいます。わたしの関係ないところでお兄さんがものを食べているだけで、嫌になります。わたしはカップ麺にすら嫉妬してしまうような、あさましい子です。


「お兄さんに頼られたいです。お兄さんに褒められたいです。わたしがいないと何も出来なくなるくらい、お家の中のことは全部やりたいんです」


 こんなことを言ったら、嫌われてしまうとわかっています。突然、身の回りのお世話を全部したがるなんて、おかしな性癖を持っている人だけです。お兄さんの前では、なるべく普通の子だと思われたかったからいえなかったことです。ただでさえ面倒な事情を抱えているのに、これ以上マイナスなところを知られたくなかったから、知られて愛想をつかされたくなかったから、ずっと内側に隠していた、わたしの願いです。



「そっか。それならすみれちゃん、僕からも伝えたいことがあるんだけど、いいかな?」


 わたしの目をしっかり見ながら、いっそう真剣な表情になったお兄さんが話し出します。きっと、ドン引きしたことでしょう。もう出て行けと言われてしまうでしょう。



「すみれちゃんとの最初の約束なんだけど、本当は僕は、君を死なせるつもりなんてなかったんだ。死なせたくないと思って、時間稼ぎのために話をもちかけた」


 薄々わかってはいました。あんまりにも、わたしにとって都合が良すぎる条件でしたから。途中からは居座る理由にしかしていませんでした。それだけが、わたしとお兄さんを繋げるものでした。


 だからもう終わりにしようと言って、追い出すのでしょう。心が擦り下ろされるように痛みます。お兄さんと会ったときに、最初に約束をした時に、本当はもう死にたくないと言えていれば、こんな終わりにはならなかったのかもしれません。お兄さんを信じきれなかった、わたしの失敗です。



「もちろん、嘘をついたわけじゃない。すみれちゃんのことを死なせないようにしようとは思っていたけど、僕が何をしてもダメだったら、その時は責任をもって君を終わらせるつもりでいた」


 少し、予想していたものとは違う空気を感じました。もしかすると、わたしは追い出されないのでしょうか。そして、お兄さんの言葉が嬉しいです。わたしはもうずっと、最後の時はお兄さんにと思っていたのですから。




「だから、すみれちゃんがやりたいことを見つけて、死ぬつもりが無くなったのなら、僕にとってあの約束のそれ以外の分はどうでもいい。休まず毎日完璧に働かなくても家から追い出したりしないし、多少のお小遣い位は渡す。そもそもあの話をした時には、すみれちゃんは何も出来ない前提での条件だったし、さっきの話を聞く限り僕がそう言ったから明日から何もしなくなるなんてことも無いでしょ?」


 わたしは、夢でも見ているのでしょうか。あんなにおかしいことを言ったのに、お兄さんは明日の話をしています。初めて会ったころであれば、お兄さん鬼畜説を上げて警戒していたところですが、お兄さんがそんな人じゃないことはもうわかっています。ということは、お兄さんはこんなわたしをまだ家に置いてくれるつもりなのでしょうか。



「そこで、ひとつ提案があるんだ。今までの約束、家事の代わりにお金を渡す関係、誘拐犯と虐待児の関係じゃなくて、ただ一緒に暮らそうって約束、お互いに相手のことを思って協力して生活する関係を、新しく作らない?」


 まるで、プロポーズみたいな言葉です。お兄さんがわたしのことをそういう目で見ていないと知らなければ、絶対にプロポーズだと思ってしまいました。そう思った上で、ぜひと答えてしまっていました。


 舞い上がって、すぐに返事をしたくなるのを、必死に止めます。まだ、ちゃんと確認しなくちゃいけないことがあるのです。


「わたし、普通の子じゃないです」


 きっと、たくさんの迷惑をかけるでしょう。わたしといるだけで、わたしがいるだけで良くないことが起きたりも、するでしょう。


「わたし、重たい子です」


 隠そうとしていながらも、カップ麺に嫉妬するあさましい子です。本性を伝えた上でまだ一緒にいてくれると言うのなら、もっともっと依存してしまうでしょうし、お兄さんのことを束縛してしまうこともあるでしょう。


「わたし、わがままばかりの悪い子です」


 他のことよりも、他の人よりもわたしのことを優先してほしくなります。突拍子もないことや、理不尽な要求だってこれまでもしてきました。


「それでも、お兄さんはわたしと居てくれますか?絶対に捨てないで、離さないで、ずっとそばにいて、家族になってくれますか?」



 わたしにとっての家族はお母さんだけで、わたしはお母さんに捨てられました。普通の家族の形なんて知りません。また捨てられたら、わたしはもうきっと耐えられないでしょう。それでもお兄さんは、誓ってくれるのでしょうか。家族になってくれるのでしょうか。



「そうしたいから、お願いしているんだよ。僕と家族になろう」



 胸の奥につっかえていたものが、とれます。悲しくないのに涙が出てきて、息が上手にできなくなります。


 これまであった不安や恐怖が、湧き上がってきた嬉しさで押し流されます。返事をしなくちゃいけないのに、言葉になりません。


 お兄さんの胸に飛び込んで、押し倒します。お兄さんの部屋着の一部を涙と鼻水、よだれでべちゃべちゃにしながら、ただただ泣きます。お兄さんに背中をとんとんされてあやされながら、沢山泣きます。



 まるで、夢みたいです。もう、夢でもいいです。この先一生覚めないのなら、これが夢でも、わたしは幸せなのですから。

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