初めてのお買い物(裏3)
少しの間座りながら、お兄さんに背中を摩ってもらいます。人のいない中で、数分はそうしてもらっていたでしょうか。迷惑をかける前提ではあったものの、だいぶひどいなと思いますが、おかげで少しずつ良くなります。
何とか胃の中を落ち着かせ、体温が戻ってきて、物事を考えられるようになります。
今の状態は、体調的な意味でも精神的な意味でも、あまりいいとは言えません。どちらかと言わずとも悪いですし、このままなら買い物を続けるのはほとんど不可能でしょう。お兄さんもたぶん、ここまで迷惑をかけるとは考えていなかったでしょうから、呆れて帰りたいと思っていると思います。
でも、このまま帰りたくはありません。迷惑になっていることはわかっていますが、帰るわけにはいかないのです。
だって、今ここで帰ってしまったら、わたしはエレベーターから降りただけでまともに動けなくなる子のままです。せめて、迷惑をかけつつも何とかお買い物はできた子にならないと、今後お買い物に連れてきてくれることはなくなってしまうでしょう。
それじゃあ、いやです。わたしはお兄さんとお買い物をしたいです。一緒に歩いてみたいです。
『どうせお前は何をやっても駄目なんだから、もう何もするな』
何もさせてもらえないのは嫌です。見捨てられるのは、嫌です。
再度込み上げてきた吐き気を無理やり飲み込んで、気持ちを奮い立たせます。お兄さんの服を強く握りすぎたので、シワになってしまうかもしれませんが、今はそんなことを気にする余裕はありません。
「大丈夫そうかな?帰りたかったら、階段を使えるからそっちで帰ろう?」
そう言ってお兄さんが指すのは、すぐ横にある階段です。エレベーターの方に行ったら、わたしがまた同じようになってしまうことを考えて、気を使ってくれているのでしょう。その優しさを嬉しく思いますが、今は首を横に振ります。
「……できれば、お買い物、したいです」
つっかえつっかえになりながら、答えます。お兄さんが、本当に大丈夫かと、さっきの比じゃないほど人とすれ違うことになると念を押してくれますが、大丈夫だと言い切ります。
きっと、呆れられているでしょう。こんなに迷惑をかけたのにまだ迷惑かけるつもりかよ、とか思われているでしょう。大丈夫なら一人で行ってこい、とはさすがに言われないでしょうが、言われてもおかしくないとは思います。
「それじゃあ、もうちょっと落ち着いてきたら行ってみようか。大丈夫。時間はいくらでもあるから、のんびり待てばいいよ」
ずるいくらいに優しい言葉をかけて、お兄さんはわたしの横に腰を下ろします。体の片側に、ほんの少しだけ触れる体温が、とても安心できます。
「だいぶ落ち着いてきたみたいだけど、すみれはこの後どうしたい?行きたい場所とか、ほしいものがきまっているなら案内できるし、完全に決まってなくても大体のものは教えられるよ」
しばし休んで、ようやく歩けそうになったのを、わたしの顔色を見て判断したのでしょう、お兄さんが質問します。
先程までなら、まともに思い出すことも難しかったと思いますが、今はお陰様で落ち着いて物事を考えられるようになったため、自分が欲しかったものを思い出します。
本と、髪留めと、キッチン用品。あとは針と毛糸。
どれもいっぺんに伝えると迷わせてしまうかもしれませんし、全部回れるかわからないので、優先して欲しい本からにします。
それを伝えて、案内してもらうこと少し。何故かトイレに行きたくなる匂いの場所に着いて、突然わたしのお兄さんシールドが目の前からなくなってしまいます。
突然目に入る明かりと、それが照らす広くて沢山文字の書かれた壁。人がいるかもと一瞬恐怖しますが、そこにあったのは本、それも、わたしが好きだったとお兄さんに伝えていた図鑑だけでした。
『本物を見せてあげられなくてごめんね……。でも、世界にはこんなに素敵なものがあるの。すみれにも、いつか見れるようにしてあげるからね……』
お母さんがわたしを嫌うより前、その中でも、わたしが字を読めるようになった時からの、短い時期ですが、お母さんが色々な図鑑を買ってきてくれることがありました。
ネットで調べるよりもちゃんと根拠があって、簡単にまとめられていて、確実性の高いそれらの図鑑は、きっとわたしの情操教育に影響を与えていたのだと思います。
だって、ほとんど内容を覚えているはずの図鑑達が、この場にないか探してしまっているのですから。
知識のことだけを考えるのであれば、どれも九割方覚えているものです。けれど、もう一度見たいと思いました。あの美しかった生き物たちの写真を、もう一度見たいと思ってしまいます。もう一度見るために、このたくさんある図鑑の中かろ探し出そうと思ってしまいます。
最初はお兄さんの背中に隠れ直そうとしたのに、気が付いたら図鑑を探し始めていた自分を、単純だなぁと思いながら、タイトルを流し読みして、大好きだった3冊の図鑑の内の、一冊を見つけます。
10分ほど時間をかけて、ようやく見つけた“美しい海の生き物図鑑”。いつの間にか家からなくなってしまっていたもので、一番好きだった一冊です。
どこにでもいるような魚から、外国のもの、その中でもごく一部の地域にしか生息していないものや、一度だけ深海で採れたものなど、珍しさは度外視して、幻想的な生き物たちがまとめられています。
冒頭の文言や、一番最初に乗っている魚。著者の紹介など、どれも記憶の中に残っているもののままで、もう二度と見れることがないと思っていたから、感動です。
自分のものでもないのに思わず抱きしめて、予定にはなかったけどこれは絶対に買って帰ろうと思って裏の値段を見て、固まってしまいます。
だって、4000円です。渡した分は好きに使っていいとは言われていますが、全部使い切って、居座る気満々だと思われるわけにもいきません。貰った分の半分以上は残しておこうと思っていたのに、4000円です。わたしの中で決めていた予算の、半分以上を使うことになってしまいます。
それでは、ほかのものを買うことができません。もっと役に立つものや、必要なものを買わないといけないのに、買えなくなってしまいます。
ただでさえ、お兄さんにとっては何の利もない本を買おうとしているのに、それを増やしてしまうのはいけません。
こんなに高価なものをいくつも買ってくれていたなんて、やっぱりわたしはお母さんに愛されていたのだなと、嬉しいような寂しいような気持ちになりながら、図鑑を元あったところに戻します。辛いけど、贅沢品です。わたしには過ぎたものです。
「今見てた図鑑、よく知ってるやつなのかな?どんな内容なの?」
お兄さんに聞かれます。わたしが未練タラタラなのを見て、中身知ってるならいらないじゃんと言うつもりなのでしょうか?
意図するものはわかりませんが、お兄さんに聞かれたのであれば、答えないという選択肢はありません。ずっと昔に買ってもらったこと、いつの間にか無くなっていたこと、どのページを見てもきらびやかで、とても美しいこと、生態欄が不明としか書かれていない生き物がそこそこ多いこと。
上手に説明できた気はしませんが、お兄さんはうんうんとちゃんと聞いてくれました。わたし自身もこれまで言語化したことがなかった思いが見つかって、さらに欲しくなってしまいます。
「やっぱり、思い入れがある図鑑なんだね。プレゼントするから、後で読ませてくれないかな?」
他の本を全部諦めて、小物とかもやめたら、何とかならないかなと考えていたところに、思わぬ申し入れです。言われてすぐは何を言っているのかがなかなか理解出来ず、頭が止まります。きっとわたしは今、間抜けな顔をしているでしょう。
少しして、少しずつ内容を理解して、お兄さんが買ってくれるということがわかりました。わたしの説明に、興味を持ってくれたのでしょうか。それともわたしに同情してくれたのでしょうか。
どちらかはわかりませんが、思わず大きな声でお礼を言ってしまいます。気を使ってくれているだけかもしれないのに、遠慮した方がいいのに、そんなことを考えるよりも先に声になって出てしまいます。
はしたないとわかっていますが、一度出てしまった以上今更遠慮するのも決まりが悪いです。吹っ切って、素直に喜んで図鑑を取ります。だって、本当に大好きな図鑑なんです。買ってもらえるなんて言われてしまったら、我慢出来るはずがありません。
しかも、お兄さんからのプレゼントです。わたしが今身につけているものも、お兄さんから貰ったという点では同じですが、必要だから買ってもらったものと、わたしを喜ばせるために買ってもらったものでは、嬉しさが桁違いです。
元々買おうと思っていた本は買えませんでしたが、図書館に行けば無料で読めると教えてもらいましたし、今のわたしにはこの図鑑があるので気になりません。袋に入ったそれを片腕で抱きしめ、もう片方の手でお兄さんの裾を握ります。こうしていると、お兄さんがすぐ近くにいることがわかって、安心できます。
少し困ったような顔をして、歩きにくいからピッタリ後ろについて歩くのはやめられないかと聞くお兄さんに、見られているような気がして怖いから無理だとわがままを言ってみます。
困ったなあと言いながら、何故か少し嬉しそうにしているお兄さんが、これで少しは良くなるんじゃないかと帽子を買ってくれます。多少視界を遮るから、ないよりはいいんじゃないかと言われ、真後ろではなく斜め後ろに移動しました。あまり怖さに変わりはありませんでしたが、わたしを気にしてくれる気持ちが嬉しいことと、図鑑を持っているだけでとっても安心感があるので、移動出来てしまいました。
安心のため半分、お兄さんがわたしを置いてどこかに行かないようにするため半分で、服を掴んだまま買い物を続けます。針や糸の裁縫道具を買い、毛糸を買い、ヘアピンを買います。
ずっと目をつけていた時短用のキッチンアイテムを買おうとして、自分で買わせてもらえなかったのは少し不満ですが、結果的に欲しかったものは全部揃ったので良しとします。
その後少し休憩を挟んで、食品コーナーを回ることになりました。お兄さんは待っていてもいいと言ってくれましたが、一人でいるのは不安ですし、もしお兄さんがわたしをここに捨てて帰ってしまったらと思うとこわくてしかたがありません。
先程までまばらだった人々がたくさん歩いていることにまた怖くなってしまったので、お兄さんの後ろに戻ります。だって、ここなぶつかられることもありませんし、何より安心できるんです。
後ろに隠れながら、沢山並んでいるものの値段を見て、今後のメニューの参考にします。これまではあまり値段を考えずに色々なものを買ってきてもらっていましたが、それで極端に高くなってしまうと、お兄さんに邪魔に思われてしまうかもしれないからです。
もちろん全部は覚えられませんが、置いてあるものと置いてないもの、似ているものとの比較などを何となく頭に入れながら、たまにお兄さんに聞かれることに答えて、終わる頃にはクタクタです。
帰りの車の中でも、気がついたら眠ってしまっていましたし、迷惑も沢山かけてしまいましたけど、わたしの初めてのお買い物と考えるのであれば、そこそこの成功だったのではないでしょうか。
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体が鬱を求めてるので、ネットで無料で読めるおすすめの鬱小説があれば教えてほしいです(╹◡╹)
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