その3

「――わたしの母は体が弱く、昔からずっと入退院を繰り返していました。

 わたしは時間の許す限り母の側について、彼女と色んな話をしました。

 ある日母に「恋人はいないのか」と、聞かれて――……その時わたしは、付き合っていた人との中が険悪になっていた時期で、とっさにこう返してしまったんです。

『母さんの、初恋の人ってどんな人?』と。

 すると母は、いたずらっぽく笑ってこう答えたんです。

『わたしの初恋の人は、金の髪に青い目の哀しい顔をした男の子よ』って」


 僕は、先生から強制的に渡された『宇宙のリゲル』を、チラとみました。


 その視線に気が付いたのでしょう、楓さんが頷きます。


「わたしがよほど驚いた顔をしていたのでしょう。

 母はすぐに種明かしをしてくれました。

『小さいころ、ひいおじいちゃんの家でとっても綺麗なマンガを見たのよ。

 表紙の男の子が、わたしの初恋の人よ』と」


 綺麗なマンガ……ですか……。


 僕の手の中のそれは日に焼けて色落ちし、キレイとはお世辞にも言えません。


「その『リゲル』の持ち主は、貴女のひいお祖父さんなのですかな?」


 先生に問われて、楓さんはこくりと一つ頷きました。


「はい。

 母に言われて、わたしも思い出しました。

 小学生の夏休みに、遊びに行った祖父の家の蔵でわたしも同じ本を見ているんです」


 それなら、おじいさんに頼めばすぐに手に入りそうです。


 僕たちの言わんとすることを悟ったのか、しかし楓さんは首を左右に振って、


「……無いんです。もう……。

 祖父は五年前に他界しました。

 その時に家を継いだ伯父が、相続税を払うために蔵の中の品物をあらかた処分してしまったらしいのです。

 ……もちろん、その骨董商にも尋ねました。

 けれどもやはり五年も前のこととなると……」


 はぁ。そのまま、行方知れずになってしまったのですね。


「……母は、ひと月前に――……」


 楓さんは俯き、言葉を詰まらせます。


「……母とは、病院の外での思い出が希薄なんです……。

 でも……!」


 顔を上げたその目は赤く潤んでいました。


「あの本が……わたしと母の過去を繋いでくれる――……。

 ……そんな気がするんです……」


 ――蝉の声が聞こえた気がしました。


 今は落ち葉の季節です。


 なのに――……。


 楓さんの言葉に導かれて、僕はいつかの夏の日を見ていました。




 ギラギラの太陽から逃げるように、大きな観音開きの扉に手を掛けます。


 重い戸を体全体を使って引き開けると、ひんやりとした空気が流れてきました。


 天井近くに穿たれた明かり取りの窓から入った光が、漂う埃をキラキラと輝かせています。


 手前の棚には、漢書、洋書、和綴じ本が所狭しと並び、奥には骨董品なのでしょう、墨で箱書されたり細い紐で封をされたりした様々な大きさの木箱。


 でも、そのどれもが子供の心を捕らえることは出来ません。


 辺りにひしめく色達は、茶色・灰色・白・黒。


 あまりに静か過ぎます。


 と。


 小窓からスポットライトの様に伸びた光が、棚の一冊の本を照らしだしました。


 周りの大人しい物々に対して、それは美しく、強く、輝いていました。


 背表紙には、こう書かれていました。



 ――――『宇宙のリゲル』


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