その12

 目の前の湖は、黒々とした水を湛えていました。


 月の光りが、風にどろりと波打つ水面に映っています。


「……呼ぶよ、ヒカル。

 準備はいいね?」


 シロさんに問われて、僕は頷きました。


 表情が強張るのが、自分でも分かります。


 夜風に、シロさんの声が、高く遠く唄の様に響きました。


「タエーっ!

 タエーっ!

 ボクだよ! シロだよ!

 聞こえているんだろーっ?」


 ……ゴポリ。


 不気味な音を立てて、中央付近の水面が泡立ちました。


 ……ゴポ……ゴポリ……。


 泡は数を増しながら、ゆっくりとこちらに近付いて来ます。


「ああ! やっぱり、ヒカルに来てもらって良かった!

 タエが出て来てくれた!」


 え゛!? 良かったですか、コレ!?


 なんか、とんでもなく不気味なのですが!


「タエ!」


 シロさんの呼びかけに応える様に、湖の淵までやって来たタエさんが、その姿を現しました。


 ザバァーッ!!


 水を割りおいでましたその体――――約3メートル。


『でか!!』


 謀らずも、僕とシロさんの声が重なりました。


 そのシルエットは、黒き小山の如く。


 表面を覆う無数のイボ状の物が、

 ゴポ…ッ…コポ…ッ!

 魚の口の様に、気泡を吐き出しています。


「いや~、ずいぶん大きく育ったねぇ~」


 のんきな口調を装っていますが、その頬に流れる一筋の汗を、僕は見逃しませんでした。


「しししし、シロさん!?

 なんか、想像と随分違うのですが!?」

「ん~。

 ケガレを溜め込み過ぎたみたいだね。

 とりあえず、ここは――……、」

「ここは?」

「――逃げよう!」


 言うが早いかシロさんは、踵を返して駆け出しました。


「ぎゃーっ!!

 ちょっと待って下さい! 待って下さい!」


 僕も慌ててそれに続きます。


 ……ぞぞ……ぞ……ぞぞぞ……!


 後ろから、重く濡れたカーテンを何枚も引きずるような音。


 ひぇえぇぇっ!!


「ついて来るっ! ついて来てますっ!」

「最初から、それが目的でしょーっ!」


 ああ、シロさん! 余裕があります!

 さすが人外!


 村の中の畦道を駆け抜け、木々生い茂る山の上り坂に入ります。


 ……振り返らずとも分かります。


 僕らの後を、黒いヘドロの小山が追って来るのが。


 夜風に乗って僅かに、死んだ魚のような生臭い臭いが漂ってくるのです。


 歩きで来た時にはそれほど気にならなかった地面の凹凸が、走っていると足裏を通じて足首をズキズキと攻撃してきます。


 けれども、立ち止まる訳にはいかないのです。


 ……ぞぞ……ぞ……ぞぞぞ……!


 振り向けば、すぐそこに。

 手の届くところに。

 いいえ、もう鼻の先程の距離にまで。


『タエ』さんが迫っているような気がするからです。


 前を行くシロさんは、道の悪さなど物ともせず、飛ぶように駆けてゆきます。


 ……いいえ。

 実際、飛んでいるのかもしれません。

 なぜなら彼は――……、


「……あっ!?」


 がくんっ!


 不意に何かに足を取られ転んだ僕は、膝と手の平とをしたたか打ち付けました。


 立ち上がらなければ。


 立って走り出さなければ。


 分かっているのに体が言うことを聞きません。


 湿った砂利の粒が、手と膝に食い込みました。


 ……ぞぞ……!


 月明かりを遮って、地面に大きな影が落ちます。


 振り返ってはいけない……!


 振り向いては――……!


「……あ……!」


 僕は見てしまいました。


 わずか1メートルの先に、ヘドロの黒い山が蠢いていました。


 イボが一つ、吐息の様に、コフリと空気を吐き出しました。


「ヒカ――…!」


 僕の異変に気が付いて、足を止め振り返るシロさん。


 それを追い越して、


「ヒカルっ!」


 懐中電灯の明かりが、こちらを照らし出しました。


 あ、


「アキラさんっ!」


 よたつきながらも立ち上がります。


 ディパックを肩に下げたアキラさんが、駆け寄って来ました。


 どうやら、いつの間にか分岐点まで来ていたようです。


 アキラさんは、僕を隠す様に背中にやると、

ジーパンのお尻のポケットから紙切れを引っ張り出しました。


 それは、手の平ほどの大きさのおフダでした。


 アキラさんはそれを人差し指と中指で挟んで持つと、『タエ』さんをびっ! と指しました。


 おおっ!


 アキラさん、なんかカッコイイですよ!?


 えーっと、アレです!


 おんみょーじ、みたいです!


「くらえ!

 とーちゃんがパソコンでデザインした護符!」


 ……え゛。


 それ、御利益ぜんぜん無さそうなのですが!?


 アキラさんが投げ付けた紙切れは、『タエ』さんの額だろうなぁ~って部分に張り付くと――……、


『…………』


 ……それだけでした。


『タエ』さんはヘドロの身体の一部を、


 ひゅるるいっ!


 触手のように伸ばして、


 ぺしっ!


 無造作におフダを取って捨てました。


 やっぱりぃぃっ!


「ダメじゃんっ! あのクソ親父ぃっ!」

「何やってんのさ、君たち!?」


 そうこうしている間に小山は、緩慢な動きながらも、伸ばした触手をこちらに向けてきます。


「うわあぁぁっ! 走れ走れ走れえぇぇっっ!」


 アキラさんの号令と、どちらが早かったか。


 僕らは再び駆け出しました。


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