その13・完

「走れっっ!」


 アキラさんに言われる間でもなく、僕たちは暗い山の中、必死に足を動かしていました。


 ……ぞ……ぞぞ……ぞ……。


 相変わらず後ろからは、濡れた布を引きずるような音が追いかけて来ます。


「あ。そうだ!」


 足を止めずにアキラさんが、ディパックをごそごそし始めました。


「ユタカに渡された物があるんだった。え~と……おっ、これだ!」


 取り出したのは、オレンジと水色の――……水風船?


 アキラさんは水色の方を僕に投げて寄越してから、ギュッと急ブレーキをかけて立ち止まりました。


 二、三歩行き過ぎてから、僕も立ち止まります。


 彼は振り向き様、綺麗なフォームで水風船を『タエ』さんにぶつけました。


 べちゃっ!


 風船が当たって破裂し、中の水がこぼれ出ます。


 それを確認すると、アキラさんは再び走りだしました。


 僕も慌てて彼に続きます。


 背後で、


 ……――ギャアアァァッ!!


 とんでもない悲鳴と、


 ボト……! ボトボト……!


 重く湿ったものが落ちる音。


 肩越しに振り向けば、水風船の当たった辺りが、崩壊するようにボトボトと下に落ています。


 そして『タエ』さんが、のたうつようにヘドロの身体を揺らしながら、触手で崩れる己の身を掻きむしっているのです。


「ちょっ……!」


 効果ありすぎですよっ!


「キミ達、タエに何したのさ!?」


 前を行くシロさんが、こちらを睨みつけてきます。


 そうですよ!


「中身、何なのですか!?」


 僕は急に、手の中のちゃぷちゃぷ音のするボールが恐ろしくなりました。


「まさか……硫酸!?」

「ちがう! ちがう!」


 間髪入れずに否定するアキラさん。


「これはさっきユタカが――……、」


 言葉の途中で彼は口をつぐみました。


 背後からは例の、


 ぞぞ……ぞぞ……。


 という音が聞こえてきますが、そのせいでは無いようです。


「……ぉーぃっ!」


 耳を済ませばかすかに。そして瞳は、前方で大きく左右に揺れる人工の明かりを確かに、捕らえました。

 疲れた足に、無意識の内に力が入ります。


「先生!」


 アキラさんを追い越し、シロさんの横をすり抜けて、僕は眩しい明かりの元へ、駆け寄りました。


「お帰り、ヒカル君」


 小川を背に佇み、言って目を細める先生の手には――――大型の水鉄砲が。


 なにゆえ……?


 見れば辺りには、灯油なんかを入れる赤いポリタンクが2つと、水をいっぱいに溜めたバケツが3つと、ゼーゼー肩で息してるシグレさんなんかが、転がっていました。


「――あっ! オレのウォーター・ガン!」


 シロさんと共に、追いついたアキラさんが指差します。


 ……アキラさんのだったのですか。

 てか、どんだけ夏の遊びをする気でいたのですか。


 彼らの後ろからは、のそりのそりと巨体を揺らしながら、黒い影が近付いています。


 先生は両手で水鉄砲を構えると、靴のつま先で、シグレさんの脇腹を突いて言いました。


「シグレ! それにアキラも、バケツ用意だ!」


 もう眼前に迫った『タエ』さんが、イボだらけの触手をこちらに、僕に伸ばしてきます。


 その瞬間。


 バシュッ! バシュッ! バシュッ!


 先生が水鉄砲を発射しました。


 一発目は触手に当たって、それを吹き飛ばし。

 二発目三発目は、頭とお腹の辺りに当たって、


 ギャアアァァッ!


 耳を覆いたくなるような悲鳴と共に、『タエ』さんの身体の表面をドロドロと溶かしました。


 間違いありません。


 あれは、あの中身は、水風船の中の液体と同じ物です。


 シロさんは一瞬止めようと間に入りかけ、


「…………」


 何かに気付いた様子で、それを止めました。


 そうしている間にも、シグレさんとアキラさんがバケツの中身を投げるようにかけ、先生は水鉄砲を連射します。


 やがてポリタンクの中の水まで全て使いきった頃には、『タエ』さんは、僕のお腹辺りまでの大きさになっていました。


 その黒い塊が、ごそごそと動き、


「……げほっ……ごほっごほっ……!」


 苦しそうにむせながら、中から女の子が這い出て来ました。


 ヘドロで汚れてはいますが、年の頃は僕と同じくらい。白地に蒼い刺繍の着物を纏った――……、


「母さんっ!」


 シロさんが、慌て彼女に駆け寄ります。


『母さんっ!?』


 シグレさんとアキラさんの声が重なりました。



 東の空が、白み始めていました。




       ***




「大丈夫……? 母さん」


 女の子を助け起こし、さらにかいがいしく世話を焼くシロさんを、僕らは呆然と眺めておりました。


「……え。なんだ? ってことは、」


 我に返ったシグレさんが、シロさんを指差します。


「て、天狗……ってこと……か?」

「75%、な」


 頷き、なんだかヘンな表現をする先生。


 僕は『カカオ・75%!』と書かれた、チョコレートのパッケージを思い出しました……。


「……世話になったようだな、人の子」


シロさんに寄り添われ、大分落ち着いたのかタエさんが、僕たちの方に向かって言いました。


 黒い大きな瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていました。


「本当に、ありがとうヒカル」


 心から嬉しそうに微笑むシロさんに、僕も表情が緩みます。


 しかし、彼には約束を果たしてもらわなければなりません。


「あの、シロさん……それで『特効薬』は――……」


「もちろん用意してあるよ」


 シャツの胸ポケットから濃いブルーの小瓶を取り出して、僕に渡しつつシロさんは先生の方を見ました。


「でも、もう必要ないんじゃないのかな」


 その視線を受けて、先生は足元のポリタンクをぽんぽん叩きました。


「ということは、やはり中身はこれと一緒か」


 笑顔のまま頷くシロさん。


 そして、タエさんの手を取ると、


「さ、帰ろう。母さん」


 タエさんは、ちらりと自分を捕らえていた湖の方を見ました。


 何故だかその瞳は、哀しそうな、残念そうな色をしていました。


 ……ああ。そうか。


 その時、僕は何となく悟ったのでした。


 タエさんが、村に、湖に降りてくることはもう無いのでしょう。


 マユさんの神社を見ても、この辺りの人達が『神さま』を必要としていないことは明らかです。


 さらにそこにはもうマユさんもいないのですから、タエさんがこんなに大変な思いをして、再びここに来る必要は全く無い訳です。


「母さん……」


 急かすような案ずるようなシロさんの声に、タエさんは眉を下げて頷きました。


「本当にありがとう」


 親子が頭を下げるのと同時に、朝日が差し込んで。


 その眩しさに、僕たちが目を細めた隙に。


 ――二人は夢のように、消えていなくなっていました。


「――あっ!

 い、急いで戻らないとっ!」


 小瓶を握りしめ、踵を返した僕の頭を、


「待ちたまえ」


 がしっと先生が掴んで止めました。


「大丈夫だ。リセとネズミには、もう薬を飲ませてる」

「ああ、そういやさっきそんなこと言ってたな」

「シロが約束を守るかどうか、怪しいと思っていたのでな」


 推理した『特効薬』を事前に飲ませていた、ということですか。


 でも一体中身は何なのでしょう?


 僕は、先生の足元のポリタンクをちらと見たのでした。




       ***




「――温泉?

 あのホテルに引かれてた?」


 帰りの車の中。

 リセの言葉に、先生は無言で頷きます。


 相変わらず僕の前には、行きとは逆に徐々に大きくなっていく、音津さんの姿がありました。


「まぁ、変なもん飲まされたんじゃなくて良かったけど」


 シロさんからもらった小瓶は、まだここに、僕のズボンのポケットにあります。


 ポケットの中のそれをこっそり押さえると、僕は窓の外に、あの山と田と湖の景色を思い出しました。


 来年からは、あの田が、あんなに見事に金に輝くことは無いのかもしれません。


 けれども誰がそれを責められるでしょう。


 あんなに嬉しそうな、シロさんの笑顔を見た後では。


 小瓶がそれに応えるように、ポケットの中でちりりと微かな音を立てました。




          《シロと黒い水・終》

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僕と先生のアブナイ日常 馳倉ななみ/でこぽん @773_decopon

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