その4

 楓さんをお店の方に残して、僕と先生は台所でお茶の準備をしていました。


 茶筒の蓋をポンっと外して、火に掛けられた薬缶の前で腕を組んで仁王立ちしている、先生の細い背中に声を掛けます。


「一体どういう事なんですかね?」


 もちろん、楓さんの『リゲル』と店頭の『リゲル』との、食い違いについてです。


 ……もっとも『この本ではない』と言われただけで、どこがどう違うのか分からないのですが。


「考えられる可能性は三つあるな」


 楓さんに聞こえないように、小声でのやり取りです。


「1、楓さんの記憶違い。

 思い出を美化してしまうのは、良くあることだ」


 ん~……。そうでしょうか……。


「2、実は同名の別漫画」

「え? 『宇宙のリゲル』ってタイトルのマンガ、他にもあるんですか?」

「私は知らんがなぁ……。もしくは良く似た題名とか。

 例えば『府中のヒゲ男』」

「楓さんの、美しい思い出が台なしですよっ!? そのタイトル!!」

「……おそらく、このタイトルだと競馬マンガだな!

 府中競馬場で凄腕の予想屋が万馬券を当てまくる、という!!」

「あー……。

 別にいいです……嘘マンガのシナリオは……」


 目をキラキラさせ始めた先生を流して、僕は沸騰する直前で薬缶の火を止めました。


「で、3つ目の可能性は何ですか?」


 お湯を注いだ急須をくるくる揺すってから、三つの湯呑みに少しずつ少しずつ緑茶を入れていきます。


「おお。やっぱり、ヒカル君が入れると綺麗な緑色になるなぁ」

「ちょっとしたコツです。

 そして話しを逸らさないで下さい、先生」


 僕が上目使いに見ると、先生は眉根を寄せて口ごもりました。


「その可能性はなぁ……。あまり考えたくないのだよ……」


 それって――……、


 僕が尋ねる前に、先生はすたすたとお店の方に行ってしまいました。


 仕方なく、お盆を持ってその後に続きます。


「あ、あの……、」


 先生の顔を見て、その眉間にシワが寄っているのを見て、楓さんはそれが、情報不足ゆえの事だ、と判断したようでした。


「曾祖父が『宇宙のリゲル』を手に入れたいきさつも分かっているんです」


 お茶を手渡す僕に、頭を一つ下げ、


「漫画の行方を聞いた時に、伯父が教えてくれました」


 湯呑みをきゅっと握りしめて、話し始めます。


「――母の実家は、戦前までは羽振りの良い豪農だったそうなんです。

 近所の人達に金策を頼まれることもあった様なんですが、その中に、え~と……貸本屋さん? も、いたそうなんです」

「貸本漫画ですね。

 漫画雑誌が主流になる前は、漫画は借りて読むものだったのですよ」


 先生の言葉に、二度頷く楓さん。


「ところが、そこのご主人がたいそう博打好きだったとかで、しかも良くない所からお金を借りたらしく、ご夫婦はお店を捨てて夜逃げしてしまったそうなんです」


 そこで一旦言葉を切ると、楓さんはお茶を一口飲みました。


 そして、


「……夜逃げの前の晩、奥さんがこっそり曾祖父に逢いにきたそうです。

 そして、その『宇宙のリゲル』を渡して行った、と――……。

 曾祖父は何度も何度もその本を借りていたそうなので、きっと、せめてもの罪ほろぼしに、と――……って、え? え?

 大丈夫ですか!?」


 楓さんの声に振り向けば、先生がカウンターに両腕を投げ出して突っ伏していました。


「ちょ……っ、先生!?」


 お客様に失礼ですよ?!


 僕らの声に、先生は幽霊の様にゆらり……と顔を上げると、


「……楓さん、あんたどのくらいその漫画欲しいですか?」


 目の下に隈までつくった死神フェイスで、そんなことを聞いてきます。


 こ、この短い間に何があったのですか、先生……!


「え? それはどういう――……、」


 当然ですが、楓さん戸惑います。

 僕もです。


「……ぶっちゃけ『リゲル』にいくら払えるかって事です」

 セリフだけ聞くと悪徳商人の様ですが、そんな人じゃないのは良く知っています。


「……貴女には協力したい。

 けどね私には、国産車ポンと他所様にあげられるような経済力は無いのですよ」


『…………。』


 一瞬。


 僕と楓さんの時が止まりました。


「な――……っ!?」

「え!?」

「こ、ここ国産シャ!?」

「って、クルマ!?」

「ま、まんがですヨ!?」

「え!? え!? えぇぇ!?」

「落ち着きたまえ、二人とも」


 先生が笑顔を作って、お茶がたっぷり入った湯呑みを片手に凄んだので、僕たちは慌てて自分の口を手で抑えました。


「あ、あの、本当ですか先生……?」


 恐る恐る尋ねれば、彼女は困ったように頭をポリポリかいて、


「ああいう物の値段は、有って無いようなものだからなぁ。

 ただ、その辺りが妥当な金額だとは思うが」


 そして何故かニヤリと笑うと、


「……私なら、オークションで外車レベルまで価格を吊り上げる自信があるがね!」


 ……前言撤回。

 悪徳商人が、ここにいます。


 僕と楓さんは顔を見合わせ、揃って先生の方を見ました。


「う゛……っ!」


 解説を求める視線に、先生は顔を引き攣らせて辺りをキョロキョロ。


「えぇ~い!

 シグレ! シグレはおらんのか!」

「いませんよ」

「く……っ。説明するしか能のないミスター・地味ィが、今日に限っていないとは何事だ!」


 ヒドイ……。


 やがて先生は諦めたようで、渋々といった様子で話し出しました。

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