忍者と業魔
トントントン。
リズミカルに野菜を切る音が聞こえる。
自分以外の誰かが生み出す包丁の音。まだ母親が生きていた頃は、よく聞いていたものだ。
その音を生み出している愛染は機嫌がよさそうに鼻歌を口ずさんでいる。
「ふんふふーん」
食堂と台所が一体となったダイニングで、部屋の中心にあるテーブルに着く。壁際にある台所で調理をする愛染の後姿が見える。
自信満々に宣言しただけあって彼女の動きはスムーズだ。包丁さばきもそうだし、どういう段取りで動けばいいのかを明確にイメージできているように感じた。
動きを見ただけでも、料理スキルは不動を上回っているだろうことが予測できる。
彼女は鼻歌のリズムをとるように身体を揺らしている。その動きに合わせてエプロンの裾がヒラヒラと揺れた。
エプロンで短パンが隠されていて、まるで下には何も履いていないように錯覚してしまう。
「ジッと見てどうしたんですか?」
「いや別に」
愛染はこっちを向き、エプロンの裾を持ち上げた。
「残念ながら履いてますよー」
「……当たり前だ」
彼女が短パンを履いていることは分かっている。
それでもエプロンを持ち上げる仕草にどぎまぎしてしまった。
(どうして俺は反応してしまうんだ)
制御できない自分が腹立たしい。
イライラがつのっていくばかりだった。
「早く【煩悩断ち】について教えろ」
「まぁまぁ。まずは腹ごしらえが先ですよ――っと言いたいところですが、我慢しきれないようなので、カレーを作りながら私たちのことでも話しましょうか」
「私たち……というと?」
「昨日不動くんがぐちょぐちょに犯されかけたあの蟲みたいなものを総称した『業魔』と、それを狩る者『忍者』についてです」
業魔と忍者。化け物とそれを狩る者。
不動が知らなかった世界の話だ。そして察するに、その世界と【煩悩断ち】には何らかの関係があるのだろう。
【煩悩断ち】のためにも真剣に聞くべき話だと思った。
「業魔はまぁ……簡単に言えば異形の存在ですね。そして大きく目立つ特徴が2つあります」
愛染は指を2本立てた。
「一つ目は普通の物理攻撃では倒せないということです」
台所にある玉ねぎを空中に放り投げて、それを包丁で縦半分に切断する。
忍者というだけあって刃物の扱いも上手のようだ。
2つに分かれた玉ねぎをキャッチし、それを手で支えてくっつけて1つに戻す。
「ただ斬っただけでは、業魔はこんな風に元に戻ってしまいます」
「だからあの蟲は復活したのか」
あのとき、不動は確かに蟲を斬った。
だがしばらくして蟲はそんな事象はなかったかのように元に戻っていた。
「斬る殴る燃やすといった通常の物理現象によるダメージは、全て無効になりますね」
「じゃあどうすれば倒せる?」
「特殊な力である『霊力』を用います。霊力を帯びた攻撃をすれば――」
愛染が玉ねぎをテーブルの上に置く。
2つに分かれた玉ねぎが転がった。
「復活することなく、業魔を倒すことができるのです」
霊力。
聞いたことのない単語だ。
「突如として現れる業魔を、霊力を使って狩る集団。人々には認知されないように現代社会の裏側で戦う私たちこそ『忍者』です!」
大きな胸をより一層大きく見せながら、えっへんと誇らしげだ。
「もう一つの特徴も、不動くんはよく知っていますよね?」
「……なんのことだ」
察しはついたが言葉にしたくはなかった。
「業魔の目的は人間の欲望です。そして厄介なことに、あいつらは人間の理性のタガを外します」
「理性のタガを外す……?」
「崖の上から飛び降りてしまいたい。そんな欲望を持っていたとしても、理性がその実行を妨げます。ですが業魔に惑わされてしまえば、その理性のタガが外れて、己の欲望を満たすために飛び降りてしまうんです」
昨日、目の前で飛び降りた女性がまさにそのパターンだろう。
彼女は山を愛していたが、だからといって飛び降りるような人ではなかったはずだ。
業魔によってその心を狂わされ、命を奪われたのだ。
「人間には色んな欲望があります。そのどれもが業魔に狙われる可能性はありますが、一番狙われやすいのはやはり――」
愛染は調理の手を止めて近づいてくる。
彼女の瞳が不動をとらえる。
幼い顔つきなの少女だ。でもその瞳には淫靡な色が宿っていて、彼女に見つめられてしまうと身動きがとれなくなってしまう。
肩に手を置きながら彼女は告げる。
「性欲です」
ごくりと唾をのみこむ。
彼女の瞳から目が離せない。
「業魔の血を取り込む、そんな技術が忍者には伝わっていて……私にも業魔の血が流れている」
肩に置かれた手がスルスルと肌を撫でながら移動する。
彼女の手が身体の芯の部分を震わせた。その手は肩から首をたどり、そして頬に添えられる。
(このままではマズい。逃げださないと)
だが身体は金縛りにあったかのように動かない。
「私の目的は不動くんのタガを外して性欲を満たすこと」
まともに頭が働かない。
徐々に彼女の顔が近づいてくる。
まるで世界には彼女しか存在しないと錯覚を覚えるほどに、心を奪われて――。
「という可能性もありますよ?」
愛染が頬から手を離して肩をすくめた。
途端に目が離せなくなるような淫靡な雰囲気が霧散する。
(冗談だということか)
悪質な冗談だと思う。
「不動くんはむっつりすけべぇなので業魔との相性は最悪ですね。私のいないところで業魔と遭遇しても絶対逃げてくださいね」
「誰がむっつりだ」
不動は自分のことを品行方正な人間だと思っている。
「今もちょっと誘惑しただけで興奮したじゃないですか」
「誰が興奮なんか――」
愛染の目線が下半身へと向く。
言い逃れのできないあからさまな証拠がそこにはあった。
「またぐちょぐちょのぬちょぬちょになりたければ止めはしませんが……」
「その言い方は止めろ」
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