猫井戸一族
とある山の中。
そびえ立つ木々に日光が遮られて周囲は薄暗くなっていた。
黒い土の上に猫井戸祭は立ち尽くす。
「な、なに、あれ」
地面から生え出た無数の緑の蔦が仲間の忍者を襲う。
餌食となった忍者は身体があらぬ方向に折れて樹木に衝突する。幹には大きな窪みができ、その中心に忍者の身体がめり込んだ。
樹齢二十年はありそうな大木が音をたてて根元から折れ始める。
うめき声を上げる忍者を助けに行く暇もなく、倒れた太い幹が忍者を押しつぶした。
「ッ!」
祭は思わず目をそらす。祭の面倒を良く見てくれた先輩忍者の最後は、あまりにも呆気なかった。
「ぁぁ、っ、ん」
隣を見れば後輩の少女が光悦とした表情を浮かべながら、身体にクナイを突き刺している。普段のヤンチャないたずらっ子の少女の姿とはほど遠い。
「ヒナ! しっかりして!」
少女の身体を何度も揺するが反応はない。口を半開きにしてうつろな声をあげ、目は焦点が合っていない。
「くっ」
甘い臭いが鼻を刺激する。
業魔が人の業を増幅させるときに発現する甘い臭い。それも尋常でない濃厚さだ。かつて祭が退治した上級業魔ですら比べものにならない。
「ねぇ、ヒナ!」
後輩の名を必死で呼ぶ。
ヒナという少女は困った子だ。祭に怒られるのが好きらしく、よくふざけた行動をしている。呆れてしまうこともあるが手のかかる可愛い後輩だった。
――忍者だからって女の子を辞める必要はないの。
――えぇ、めんどくさいっすよぉ。
ボーイッシュで快活なヒナは、可愛らしい容姿をしているのに自分の見た目には無頓着だった。
見かねた祭が肌の手入れの仕方を教えたことがある。
面倒くさそうにしてはいたけれど、それ以来、肌の手入れを欠かしていないことを、祭は知っていた。
だからヒナが自傷行為をしたりするはずがないのだ。
クナイで自分の身体を傷つけている様子を見て、祭の目に涙がたまる。
「ふぅぅ」
深呼吸をする。祭の顔から感情が消えた。
思考を切り替える。
現状ではヒナを救う手立てがない。
忍者は動揺してはならない。常に冷静でなければならない。
業魔は人の業をかきたてる存在だ。忍者たちは霊力を用いた精神防壁で業魔の精神攻撃を防いでいる。動揺すれば、その防壁に綻びが生じてしまう。
「私が業魔を倒すから」
祭はヒナの腹を殴ってその意識を奪い取る。崩れ落ちた少女の手からクナイがこぼれた。
そのクナイを拾い、目尻にたまった涙をぬぐいとる。
構えをとって敵の姿を睨んだ。
「絶対に許さない」
全身緑色の人型業魔。その本体は三メートル程度で、業魔としてはそこまで大きい方ではない。過去にはもっと巨大な業魔を退治したこともある。
だが業魔から感じる禍々しさは、祭が知る中でも最も強いものだ。他の業魔とは格が違う。
絶望的な戦いだ。
祭の仲間たちが束になって敵わない相手。もう戦えるのは祭ただ一人だ。
「覚悟しろ、鬼!」
業魔の相貌は、まさに鬼と表現するに相応しいものだった。
二つの角。異様に発達した犬歯。緑色の肌。全身には一切毛が生えておらず、生理的な嫌悪を誘う。
恐怖を押し殺しながら様々な攻撃を仕掛ける。霊力を振り絞り、持ちうる術を全て用いた。
――それでもなお、鬼にはダメージを与えることができなかった。
この鬼の最も恐ろしいところは攻撃力ではなく耐久力だ。
太い茎のような触手はその一本一本が鋼のように硬く、霊力を用いても攻撃は全く通らない。
「はぁ、はぁ」
数多の蔦を避けるために跳び回り、隙をついて攻撃に転じる。
命がけのやりとりを繰り返し、息は乱れていた。
肩を大きく上下させながら呼吸をする。
(苦しい。息ができない)
それでも止まることは許されない。止まれば死だ。
絶望的だ。だが祭は諦めていない。
――目を狙う。
鬼は人の形をしている。構造は基本的に人間と同じはずだ。どれだけ全身が硬くとも眼球は脆いに違いない。
一撃一撃が致死の攻撃をかい潜り、鬼の目にクナイを突き刺す。
「うそ、でしょ……」
ありったけの霊力を込めた渾身の一撃。だが鬼の眼球は硬く、傷一つつけられなかった。
目が合って、鬼は嗤った。
「あっ」
――ダメだ。勝てない。
絶望と恐怖で手が震えてクナイをこぼす。
心が揺らいだ。残りわずかな霊力で築いていた精神防壁に綻びが生じた。
鬼はその隙を見逃さない。
「あぁ」
祭は甘い臭いに脳を支配されて忍者装束を脱ぎ始める。
彼女は優秀な忍者だった。優秀であるが故に業魔の淫靡な攻撃を受けることなく滅してきた。
「いや、やめて」
穢れなき乙女は自分の意志に反して痴女のように肌を露出していく。
忍者としてのプライドが剥がされていくようだ。
――先輩の肌、綺麗っすよね。
ヒナとお風呂で身体を洗いあったとき、そう言ってくれたことを思い出す。
あのときは柄にもなく顔を真っ赤にしてしまった。
祭は将来できるだろう好きな男性と、可愛いヒナ以外に自分の肌を見せるつもりはなかった。
(こんなところで晒すなんて……)
手袋。靴。足袋。そして、忍者の象徴である黒い胴着。一枚、一枚と剥いでいく。忍者・猫井戸祭が、ただの生娘に変えられていく。
屈辱であった。次世代のエースとして囃し立てられ、猫井戸一族の次期頭領の座を約束されていた少女。その天狗になった鼻がへし折られた。
しかし、彼女の心に芽生えたのは開放感だった。
「あぁ、嫌なはずなのに……」
忍者として生きることを定められ、束縛された人生。普通の少女のように暮らしたいと思ったことがないと言えば嘘になる。
生まれたままの姿で両腕を大きく広げて立つ。
冷たい風が火照った身体を撫でた。
祭の中に潜むどす黒い意識が、脳内で語りかけてくる。
――生まれ変わるのだ。
甘い臭いが理性を蝕み、正常な思考ができなくなる。
鬼が再び嗤った。
その鬼の笑みに恐怖は抱かなかった。むしろ、逆だ。ありのままの祭自身を受け入れてくれるような、そんな安心感があった。
植物の触手が彼女を歓迎して、ウネウネと肌にまとわりついた。絹のように美しき肌が穢されていく。
「あはぁっ」
この日、一匹の業魔によって猫井戸一族は壊滅した。
生存者は、意識を失って倒れていたヒナという少女ただ一人。
忍者たちの大半は業魔の反撃によって殺された。
将来を大望されていた忍者・猫井戸祭。彼女を含めた残りの忍者たちは業魔に精神を穢され、己の業を暴かれ、やがて全身が泥となり、蓮の花を咲かせたのだった。
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