【煩悩断ち】の真実

 寝巻き姿の青年・桃川不動は畳の上に敷いた布団に横になっていた。

 暗い部屋の中で人形のように微動だにせず、木材でできた天井の一点を見つめている。

 腹の前で両手を組んで目を瞑っている姿はまるで死んでいるのではないかと疑ってしまいそうだ。


 ふいに窓から風が入る。

 カーテンが揺れて街灯が部屋を僅かに照らす。机と椅子、刀、全身が映る大きな鏡、そして布団。不動の自室は高校生男子としては些か殺風景だった。


「少し寒いな」


 四月の夜風はまだ肌寒い。

 一人呟きながら立ち上がり窓を閉めた。

 不動はため息をついて、


「なんの用だ」


 部屋の片隅を見ながら呼びかけた。

 ゴミ箱が置いてあるだけで他には何もない。誰もいないはずの場所だ。

 返事はない。暗闇には沈黙が満ちている。


「そこにいるのは分かっている、愛染」

「……なんで分かったんですか」


 暗闇から人の形をした影が現れて、少しずつ輪郭がはっきりしていく。

 とある一部分を除いては小さな身体の少女・犬山愛染の姿があった。

 いつもの黒い忍者装束を身にまとい、少しむくれている。


「隠形には自信があったんですけど」

「姿が見えず、気配がなくとも、そこにいる以上は感じとれるさ」

「……理不尽です」

「修練の賜物だ」

「そんなことで片付けられる次元じゃないですよ……」


 不動は桃川の血を受け継いだ正真正銘の天才である。天才が生まれもっての才能を磨き続けたのだ。凄腕の忍者であろうと遅れをとるはずがない。


「なんの用だ?」


 愛染が言葉に詰まって黙り込み、顔を曇らせて俯いた。

 しばらくした後、両手を握りしめて顔を上げる。彼女の顔には決意が宿っていた。


「横になってください!」

「……は? なぜだ?」

「【煩悩断ち】に必要なんです」


 愛染が右手を布団に向けて、横になるように促している。

 目的は検討がつかないが大人しく掛け布団の上に寝転がった。


「これで良いか」

「はい」


 次に愛染が取った行動は予想外のものだった。

 不動の身体に跨がり、お尻を不動の腹にのせた。

 やわらかい尻肉から伝わる確かな重み。お腹がじんわりと温かくなる。


「な、なにを」


 愛染が不動の両肩の上に手をついて身体を前に傾ける。あどけない顔が、不動のすぐ傍に近づく。鼻と鼻が触れあいそうな距離だ。

 彼女の前髪が重力で垂れ下がり、不動の頬をくすぐる。

 シャンプーの匂いがした。ミルクのように甘く、それでいて清涼感のある香りだ。ずっと嗅いでいたくなる。


「そのまま、じっとしてください」


 愛染の艶がある唇は喋る度に複雑に形を変えていく。

 まるで生き物みたいだ。

 真っ赤な唇に魅入られていると、その唇が徐々に近づき始めた。

 愛染は目をつむり、唇を少し突き出している。初心な不動にも分かった。 愛染はキスをしようとしている。

 慌てて愛染の両肩を押して顔を突き放す。

 むぅ、とスネる彼女と目があった。


「なんのつもりだ」

「先に謝っておきます。ごめんなさい」


 愛染が不動の両腕を強引に外して唇を奪った。

 唇と唇の接触。自分の上唇と下唇を合わせたときと、その感触はほとんど変わらないはずだ。

 しかし愛染の少し濡れた唇の感触は全く別物のように思える。

 唇が離れる。


「ッ! いきなりなに、ッ!」


 愛染が不動の顔を横から挟むようにして両手で掴んだ。

 抗議をしようと開いた口の中に、そのまま舌を押しこんでくる。

 両手を剥がそうとするが、彼女の手は不動の顔から離れない。絶対に離さないという意志が込められているのか、彼女の指は頭蓋骨に食い込みそうなほどに力が込められている。

 ちょっとやそっとじゃ離せそうになかった。強引に突き飛ばす必要がある。


「くっ」


 不動の口腔は愛染の舌で蹂躙されていた。

 愛染の舌から逃げようと舌を動かせば、逃がさないとばかりに捕まり絡め取られる。

 粘膜と粘膜が接触して、ぬちゃ、ぬちゃ、と淫靡な音をたてる。

 ザラザラとした舌で舐められる度に身体がゾクゾクと疼いてしまう。


「くる、しい」


 愛染に攻められ続けた不動は上手く呼吸ができなかった。

 息苦しくなって背中を叩けば、ようやく彼女は離れる。

 唾液の糸が唇と唇を結ぶように伸びて、すぐに千切れた。

 不動は顔の周りについた唾液を拭いながら怒りを露わにする。


「なんのつもりだ」

「今から不動くんを犯します」

「なに? ……おい、やめろ!」


 愛染が不動の両足の間に座り込み、ズボンを下着ごと脱がそうとする。

 越えてはならない一線を、愛染が越えようとしていることに気付いて突き飛ばした。


「……ごめんなさい」

「どうしてこんなことをする」

「鬼が出たんです」


 鬼。上級の業魔を超える枠外の業魔だ。

 忍者の一族が束になって挑んでも勝てるかどうか怪しい強大な存在だ。


「猫井戸一族が鬼に滅ぼされたそうです。今は潜んでいるみたいですが、必ずまた出てくるはずです。だから、時間がないんです」

「【煩悩断ち】を修得する猶予はあとわずか、ってことか」


 忍者には手の出ない鬼であっても、【煩悩断ち】であれば倒すことができるのだ。

 鬼による被害を食い止めるためにも一刻も早く【煩悩断ち】を修得する必要がある。


「だから不動くんを犯します」

「そんなもの【煩悩断ち】には必要ない」

「違います。煩悩断ちにはセックスが必要なんです」

「どういうことだ?」

「セックスは【煩悩断ち】に必須の儀式です」

「……煩悩を知り、煩悩を制御すれば【煩悩断ち】にたどり着けると言っていたのは嘘なのか?」

「嘘ではありませんよ。でも、それだけでは足りないんです。奥義の条件として、セックスが必要なんです」

「本当にセックスが必要……なのか?」

「はい」

「なぜ言わなかった」

「言えば拒否されると思ったので」

「当然だろ!」

「ごめんなさい。それでも、わたしには【煩悩断ち】が必要なんです」

「動くな」


 布団の傍に置いてあった刀を取り、愛染に突きつけた。

 彼の両目は怒りで血走っていた。全身が力み、呼吸が乱れる。


(落ち着け。剣士たるもの、常に自然体であらねばならない)


 空いた左手で顔を覆う。


「【煩悩断ち】のためならなんでもする。その言葉は嘘だったんですか」

「黙れ。近づくな」


 近づけば斬る。本気だった。

 歩み寄ろうとする愛染が、不動の殺意を感じ取ったのか、顔を青くしてへたり込む。

 その情けない少女の姿を見て、ため息をついて刀を収めた。


「お前は突然、俺の前に現れた。苛立つことも多かったが、共に過ごした僅かな時間は楽しかったと思う」


 不埒な行いばかりしてくる厄介な女だ。

 だが愛染は不動の剣にかける想いを応援してくれた。

 復讐に全てをかける彼女の意志の強さを知った。

 最初は愛染に縋る以外に方法がなかったから仕方なく手をとった。

 気付けばその手を離したくないと思うようになっていた。


「出会えて良かった、俺は多分、そう思っていた」

「不動くん……」

「二度と俺の前に姿を見せるな」


 愛染が何かを言おうとするが、不動の顔を見て黙る。

 本当にごめんなさい、と謝りながら、窓を開けて外へと消えていった。

 一人残された不動は窓を閉めて鍵をかける。

 舌打ちをして、立ち尽くした。

 幼き頃に父の【煩悩断ち】に魅入られて以来、ずっと剣を極めようとしていた。

 一度見た【煩悩断ち】は美しく、理想そのものだった。

 だが愛染の言葉を信じるならば【煩悩断ち】にはセックスが必要であるという。


(なんだそれは!)


 不浄そのものではないか。

 焦がれて求めた理想は、不動が信じていたものとはかけ離れており、色欲に塗れた薄汚いものだった。


「くそ!」


 ――煩悩を、断たねばならぬ。

 不動は愛染が語る真実を拒絶した。

 己の信じる理想に固執することにしたのだ。

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