落ち込む少女
不動と愛染が決別した翌日、愛染は緋村の屋敷にある自室に引きこもっていた。
かつて鬼に家族を奪われた後、唯一の生き残りである愛染を、犬山一族と交流があった緋村の頭領――花蓮の父――が引き取った。
それ以降、頭領や花蓮たちは愛染を家族の一人として扱ってくれているが、愛染は彼女たちに心を許しきれてはいなかった。
部屋の中の家具や壁は白を基調として、カーペットや布団、そしてカーテンは薄いピンクで統一されている。ベッドのそばには版権ものの可愛らしい人形が数体飾られていて、白い本棚の中には少女漫画が隙間なく並んでいる。
愛染は忍者服を着たまま、ベッドの上で壁にもたれかかって座っていた。フリルがついたピンクの枕に顔をうずめている。
鬼を倒すため、強引にレイプしてでも、ことをなすつもりであった。
愛染が落ち込んでいる理由は、不動と身体を重ねることが嫌だったからではない。むしろその逆だ。
(わたしは最低な女だ……)
優しく歩み寄ってくれている花蓮たちに心を許しきれず、復讐に固執する酷い女だ。
だからなのだろうか。こんな汚れた自分であっても、受け入れてくれるような、救い出してくれるような白馬の王子様にずっと憧れていた。
愛染は恋愛に関して非常に夢見がちな少女だった。
桃川流の奥義【煩悩断ち】の存在を知り、そして唯一の後継者が【煩悩断ち】をまだ修得できていないと知ったとき、彼を復讐に使おうと思った。
愛染は男を知らず、白馬の王子様に憧れている。だから復讐のためとはいえ見知らぬ男に貞操を捧げることには抵抗があった。
だが幸いにして、一目ぼれだった。
剣の修行に打ち込む彼の姿を美しいと思った。
凛々しい佇まいは、彼自身が刀そのものであるかのように研ぎ澄まされていた。
復讐に染まった愛染にはない、荘厳で尊い何かがあった。
穢れなき、無垢の魂に心を奪われたのだ。
そして、彼は業魔と遭遇した。
侍の中の侍のようであった彼が、性に翻弄される様を見て、可愛いと、愛おしいと感じた。
この手で穢したいと、己の中に眠る淫らな血が叫んだ。
【煩悩断ち】を取得するために行っていた悪戯は、いつしか手段が目的と化していたようにも思う。
家族を失ってから、久しぶりに楽しいと心から思えた気がする。
そして――彼は復讐を肯定してくれた。
きっとそのときに心底惚れてしまったのだろう。
だからこそ愛染は強引に襲うことができなかった。
【煩悩断ち】にはセックスが必要である。だが、互いに愛し合う必要はない。
それこそ強引に襲ってしまえば良かったし、愛染はそうする覚悟をしていた。
――あのとき、不動は泣いていた。
目からこぼれる涙に気がついて何もできなくなってしまった。
己の全てをかけてきたはずの復讐心が、すっかり鳴りを潜めてしまう。
「不動くん……」
傷つけてしまった。
会いたい。でも会う資格がない。
二度と姿を現すなと言われてしまった。関係を修復することはもはや不可能だろう。
なんて馬鹿なことをしてしまったのだろうか。どれだけ後悔しても、もう遅い。
「愛染、入るよ」
枕から顔を離して扉に目を向ける。花蓮が心配そうに扉から顔を出している。
「なにかあったのか?」
花蓮はベッドの上に乗り、愛染の隣に座った。
「あの男か」
言葉に詰まる。図星だった。
ぶっ殺す! と腕を捲って立ち上がろうとする花蓮を、腕を掴んで慌てて引き留める。
「違うんです。わたしが酷いことをしてしまったんです」
「どういうことだ?」
愛染は花蓮の肩に額を押し付けながら黙り込んだ。
これ以上、何も話す気になれない。泣く資格なんてないのに、きっと涙が止まらなくなってしまうだろう。
「愛染」
「なんですか?」
「泣きたいときは思いっきり泣けばいい。それを受け止めるのが、姉の役目だからな」
花蓮が薄い胸を張って両腕を広げた。
「それはできません」
首を振って否定すれば、花蓮が落ち込んだ。
「……用件は何ですか?」
「鬼の居場所が判明した」
「そう……ですか」
愛染の反応は鈍かった。
必ず討つと復讐を誓った相手だ。所在が分かれば花蓮に掴みかかってもおかしくない。不動と出会う前なら、きっとそうだっただろう。
(わたしは変わってしまったのでしょうか)
家族を失ったあの日から復讐が全てだった。誰にも理解されず、誰にも心を許さない、孤独な復讐の道を進んできたはずだ。
それなのに胸が苦しくて仕方がない。
「愛染?」
この気持ちを封印しよう。忍者たるもの、感情は押し殺さねばならぬ。
鬼を討つことに集中するのだ。
「なんでもありません。鬼はどこに出たんですか?」
鬼が現れたが場所がどこであろうと、駆けつけて滅してみせる。
両頬を叩いて気合いを入れて、両手をバネのように使って身体を持ち上げ、ベッドから跳び降りた。
「鬼斬山だ」
「えっ」
身体が強ばって固まってしまう。
鬼斬山は不動と初めて出会った場所で、彼のお気に入りの修行スポットだ。
不動の行動パターンはある程度、理解しているつもりだ。
【煩悩断ち】の真実を知って、それを否定しようと鬼斬山で剣の修行に打ち込んでいる可能性は高い。
いや、間違いなく、鬼斬山にいるはずだ。
「ぁ、あぁ」
身体が震えた。
顔から血が引いていくのを感じる。きっと顔色は真っ青になっているだろう。
あの日、家族の死体を目にしたときの光景がフラッシュバックとなって脳裏を駆け巡る。
何度もうなされた光景。そこに、もう一つ死体が増えていた。
――鬼に不動を奪われてしまう。
嫌だ。
これ以上、大事なものを奪われてなるものか。
「不動くん!」
「待て、一人で先走るな!」
花蓮の制止も無視して飛び出した。
不動には嫌われてしまった。
もう許してはもらえないだろう。けれど、必ずこの手で守ってみせる。
◆
愛染が鬼斬山へと向かう少し前、彼女の予想通り、不動は鬼斬山で修行をしていた。
標高1500メートルの山、その真ん中付近にある滝壺で、フンドシ一丁で滝に打たれていた。
雨が降り出しそうな曇り空だ。太陽の光は雲で遮られていて冬の様に寒い。
崖の上から勢いよく落ちてくる水は痛いほどに冷たい。
(息が苦しい。痛い。意識が飛びそうだ)
それでも少しずつ、冷たいという感覚が消えていく。何も感じない。
いや、むしろじんわりと温かくなってくる。
(心頭滅却だ。煩悩を捨てれば、冷たい水もまた温かし。身体の中に潜む獣のような情欲は捨て去れ。愛染と袂を分かってから止まらない、正体不明の胸の痛みも気にするな。ただひたすらに、剣に捧げ)
【煩悩断ち】は目指した剣ではなかった。不浄そのものだ。
あらゆるものを切り捨てて、その果てに残るたった一つの純粋な何か。きっと、それこそが求めてやまない清浄なる剣だ。
あらゆるものを、業魔であっても、そして――鬼をも斬り裂く剣になるはずだ。
「っ」
甘い臭いがする。
滝に打たれて己を追い込むことで発達した感覚。臭いの元を辿る。
不快な臭いは上から降りてきていた。
蟲によって身体が発情して性欲を思い知らされた、屈辱的なあのときの臭いに似ている。
しかも、あのときよりも更に甘ったるい。胸焼けしてしまいそうだ。
蟲よりも、花蓮が戦った大狼よりも、遥かに格上の気配。愛染が言っていた鬼なのかもしれない。
(望むところだ)
最弱の業魔すら斬れなかったナマクラの身で、傲慢だろうか。
それでも退く気はない。もう少しで何かを掴めそうなのだ。
――俺は俺の【煩悩断ち】を手にしてみせる。
傍に置いてあった刀を手に取って滝を前に構えた。
激流が水に打ち付けられて轟音がする。その中に紛れて僅かに異音が聞こえる。
上流から何かが流れてくる。
目を閉じて、感覚を研ぎ澄ます。
抜刀。傍目には動いたことが分からないほどの一瞬の早業。
不動の剣は崖の上から落ちてきた流木を斬り、そして、滝をも斬り裂いた。
――待っていろ。鬼よ。
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