急ぐ愛染

 走る。誰よりも早く。

 単純に100メートル走で争ったとして、犬山愛染より速い者はいるだろう。

 それでも目的地に向かうとき、誰よりも早いのは愛染だ。


 体重が存在しないかのように音を立てずに山の中を走る。

 左に右に、木々を避けながらジグザグに、一瞬で判断しながら進む。

 木々を抜けた先、前には崖がそびえ立つ。回り道をすれば大幅なタイムロスになる。


 選択ミスだろうか。否、この崖こそが最短ルートだ。

 崖を蹴って真上に跳び、飛び出た岩角を掴んで、更に上へと跳ぶ。

 岩と岩の隙間に忍者刀を突き刺し、刀を起点にくるりと半回転。逆立ちの体勢で手を押し出して、また半回転。束に両足で着地して、膝を深く折り曲げ、思いっきり跳躍する。

 あと少しだ。しかし頂上付近は崖が愛染側に傾斜している。掴める突起もない。

 これ以上は不可能。ただ落ちるだけ。それが彼女でないならば。


「――オン」


 転移の術を発動した。

 驚異的な空間把握力によって可能となる転移の術。それは起点と終点を、写真に現像できるほど明確にイメージしなければ発動しない。忍者の中であっても曲芸と評されるものだ。

 移動可能な距離に限りもあるし、霊力の消耗を考えると多様できる訳でもない。だが使い所を誤らなければ絶大な効果が得られる。

 崖の上へと転移し、その勢いのまま再び木々の間を駆け抜ける。

 追いかけてくる緋村一族の忍者たちを遥か後方に置き去りにして、一人で鬼の元へと駆けた。


 ふと、疑問に思った。

 こんなにも急ぐ一番の理由は何だろう。

 鬼への復讐だろうか。不動への好意だろうか。

 本当に望むものは何なのだろうか。

 愛染自身、良く分からなかった。

 だが、現場に着けば自然と判明するはずだ。

 愛染は駆けながら笑みを浮かべた。今はとにかく先へと急ぐのみ。


 ――そして、鬼と不動の元にたどり着く。

 襲い掛かる無数の蔦を掻いくぐり、鬼の注意をそらすためにクナイを投擲し、不動の元へと走る。

 不動は蔦に囚われていた。

 彼の周囲を蔦が覆いつくして球状になっている。檻のようにも、繭のようにも見えた。


「今助けます!」


 不動を捕える蔦の檻に飛び乗り、短刀を突き刺す。

 が、その刃は通らない。


「チッ!」


 蔦が彼女に迫り、それを跳んで回避して鬼から距離をとった。




     ◆




「まさか、猪と出会うとは……」


 真っ二つになった猪を見ながら呟く。猪の切断面はまるで標本模型のように綺麗だ。

 この山で何度も修行をしてきたが猪に遭遇したのは初めてだった。

 山に住まう獣たちも何か異変を感じ取っているのかもしれない。

 山の傾斜に沿って先を見上げる。無数の木々で奥は見えない。だが禍々しい気配を感じる。

 地面から向き出る根っこにつまずかないように気をつけながら、木々を抜けた。


 その先に緑の巨人がいた。

 身長は3メートルほどだろうか。人間とくらべると遥かに巨大だ。あの大狼を遥かに上回る巨人を想像していたせいか、少し拍子抜けな部分もある。

 だが侮ることはできない。存在感がまるで違うからだ。相対するだけで肌が痺れて粟立つほどだ。

 頭部に生えた二本の角。発達した犬歯。怪力を証明する盛り上がった筋肉。まさしく鬼のようであった。

 不動と相対した鬼は般若の仮面のように、口を大きく開けて笑う。


(来る!)


 後ろに跳ぶ。

 立っていた地面から巨大な蔦が生えていた。蔦は鞭のようにしなって不動に迫る。

 左足を半歩後ろに引くことで体の向きを変えて、最小の動きで避けると同時に蔦を斬る。

 猫井戸一族の忍者たちには傷一つつけられなかった蔦を、不動は斬り落とした。

 分かれた蔦は音をたてながら地面に落ちて、やがて消滅する。


「ギ?」


 鬼は首を傾げた。眉毛が生えていないからはっきりと分からないが、眉を顰めているのだろうか。眉間に皺がよっている。

 霊力のないただの物理攻撃であるため、鬼は一切のダメージを受けていない。それでも鋼のごとき表皮を貫く存在は厄介なのだろう。目を見開き、憤怒の表情を浮かべた。

 周囲に無数の蔦が生えて、不動に襲い来る。


「ッ!」


 蔦が地面を削り、土煙が辺りを覆う。直撃していれば一溜りもないだろう。

 煙が晴れる。不動は無傷で蔦の上を走っていた。ジャンプして空中で一閃。鬼の首がズレて地面へと落下した。

 振り切った勢いを殺すことなく、受け身をとって転がりながら、再び鬼に身体を向けて構えをとる。

 残心だ。会心の一撃であろうと油断はできない。


 首は粉状に分解されて消え去っていく。

 胴体を見れば、いつの間にか首が生えていた。

 やはり効いていない。緋村花蓮が言うように忍者でなければ業魔を倒せないのだろうか。


(だが、あと少しで何かを掴めそうな予感がする)


 斬れる様になるまで斬って斬って斬りまくればいい。


「はぁ、はぁ」


 斬り刻む。鬼がその身を再生させるよりも早く何度も斬る。その度に飛び散る紫色の樹液を回避しながら、更に斬る。


(何かが足りない……)


 愛染の顔が脳裏に浮かぶ。


(違う)


 不動は首を振る。

 愛染は必要ない。性欲は必要ない。煩悩は必要ない。ただ剣だけがあればいい。

 鬼を斬り付けるたびに樹液が飛び散り、周囲の甘い臭いが濃さを増していく。臭いが色を持つかのように周囲が少しずつ紫へと染まる。葉や草の緑色、土や木の茶色に紫色が注ぎ足されて、異様な空間へと様変わりしていた。


「っ!?」


 紫に霞がかる視界を訝しんでいると突如として膝から力が抜けた。思うように身体を動かせず、地面に片膝をつく。


(なぜだ……?)


 蟲の体液を浴びて発情させられたときと同じ失敗をしないように、鬼から出てくる液体には触れないようにしていた。にもかかわらず身体がおかしくなっている。

 絶体絶命だ。斬撃の連打が止まったことでバラバラになっていた鬼が再生し始める。

 身体の自由が効かない今、鬼の攻撃を避けられる自信はない。


(やられる前にやる!)


 振り放った刀は金属音をたてながら蔦の表面で止まる。

 業魔狩りの専門家である忍者たちを遥かに上回る卓越した剣技。芸術的な域に高められているはずの剣は失敗に終わった。

 身体の不調により無駄な力みが生じ、太刀筋が曇ってしまったのだ。

 無論、その状態でも不動の腕であれば大抵のものは斬ることが可能だ。だが今回は相手が悪い。


「なッ!」


 動揺を抑える暇もなく蔦が迫る。

 ふらついた足取りで後ろに跳び、避けながら後退していく。

 木の根に足を取られてつまずき、その隙をつくように蔦が襲いかかった。

 蔦が腹部を強打した。不動は吹き飛され、木に背中を打ち付けて前へと倒れる。

 意識が朦朧となる中、顔を上げると濃緑色の蔦が周囲を囲んでいた。まるでそれぞれの蔦が独立して生きているかのように、ウネウネとうごめいている。

 生理的な嫌悪感を催す蔦は不動に絡みついた。


(気持ち悪い……)


 あらゆる攻撃を受け付けない異様な硬度を誇るはずの蔦の表面はしかし、ぶよぶよと柔らかい。表面はざらつき、湿っていて、温かく、まるで人間の舌のようだった。


「くッ」


 腹を強打された痛み。蔦にまとわつかれる嫌悪感。

 気持ち良くなるはずがない状況なのに、不動は快楽で支配されていた。

 無数の蔦がありとあらゆるところを舐め回すよつに動く。

 蔦が不動の周囲を覆う。


「やめろ!」


 蔦の繭の中で叫ぶ。その声は誰にも届くことはない。

 ぬめりのある液体が身体へと塗り込まれていく。例のごとくその液体も、業魔の特質をもつ。高濃度の媚薬だ。

 人間の精神の限界をこえる快楽によって意識が朦朧となる。

 愛染との修行によって、不動はある程度快楽を体験してきた。本人は否定しているが、少しずつ、少しずつ快楽を受け入れ始めていた。

 だが業魔にもたらされる快楽は、まるで別のものだ。優しさも、愛情も、思いやりもない、無慈悲で破壊的な快楽だった。その強すぎる快楽を制御する術を持ってはいない。

 快楽によって心そのものを侵食される状況の中で、脳裏に浮かんだのは愛染の顔だった。

 不動が最後に見たのは、彼女が瞳から涙をこぼす姿だ。

 大事なことを隠していた裏切りに対して、未だ許した訳ではなく、怒りは収まっていない。だが一方で、彼女のことが気掛かりだった。

 元気にしているだろうか。笑ってくれているだろうか。


「ぁ、あぁ……」


 呻き声をあげる。

 ふと、愛染の声が聞こえた気がした。

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