秘伝の隠し味

「どうぞ召し上がれ」


 テーブルの上にはカレーを盛った皿が置かれている。

 反応を見たいのか、テーブルの向かい側に愛染がニコニコとしながら座っていた。


「そんなにジッと見られていると食べづらいだろ」

「わたしの自信作ですから。美味しすぎて悶えるところを見たいんです」

「インスタントカレーなんだから美味しいだろうが、悶えるほどじゃないと思うぞ」


 インスタントカレーを使えば誰が作ろうとも手軽に美味しいカレーが作れる。

 逆に言えば誰が作ったところで似たような味になるということでもある。

 不動が作るよりは美味しくできるのかもしれないが、かといって予想を超えるほどの味にはならないだろう。


「甘いですねぇ、甘すぎますよ不動くん。甘口カレーよりも甘いです!」


 愛染が立ち上がり、腰に手をあてて主張する。


「そのカレーには犬山一族秘伝の隠し味を入れています」


 どやぁと言わんばかりの顔だ。


「美味しいカレーを作れなければ忍者としては半人前です。そんな忍者たちの中でも犬山一族のカレーは格別だと言われているんですよ!」


 妙にカレーに対してこだわりを見せている。

 海軍カレーならぬ忍者カレーということだろうか。

 とはいえ彼女は市販のポピュラーなカレールウを使っている。美味しいことは間違いないが、格別だと言われるようなものではないと思う。


「食べたら分かります」


 自信満々だ。

 怪しげな少女ではあるが、このカレーの味は信じて良いかもしれない。


「それじゃあ……いただきます」


 スプーンでカレーのルウとライスをすくってパクっと食べる。


「――ッ!?」


 その瞬間、世界が止まった気がした。

 せっかく頑張って作ってくれたのだ。美味しいと一言伝えるつもりだった。

 だが、そんな言葉をくりだす余裕もなく、更に一口、また一口とむさぼるように食べた。

 ただひたすらに、カレーを食す。


「なんだこれは……」


 ようやく言葉が喋れるようになったのは、カレーを完食した後だった。


「どうでした?」

「……美味すぎる」


 空腹はスパイスという。

 確かに不動はお腹が空いていた。だがそのスパイスだけでは到底説明ができないほどに美味い。

 今まで食べたどんな食べ物よりも美味しかった。


「だから言ったじゃないですか。カレーには自信がありますって」

「隠し味に何を入れた? 何を入れたらここまで美味しくなる?」

「それを教えたら秘伝じゃないですよー」

「確かに」


 想像を絶する美味さだ。

 きっと門外不出の隠し味なのだろうと思った。


「というのは冗談で、秘伝の隠し味とは言いましたが、別に隠している訳じゃありません。隠し味は愛情です」

「愛情……だと?」

「不動くんに美味しく食べてもらいたい。その想いが味になったのです」


 不動を見て優し気に微笑んでいる。

 慈愛の表情だ。その顔を見ていると幼い頃に死んだ母親のことを思い出す。

 嘘を言っているように見えない。

 少なくとも不動に美味しく食べてもらいたいという気持ちは本物なのだろう。


「すまなかった」

「はい?」

「俺は愛染のことを疑っていた」

「突然どうしたんですか?」

「正直怪しい女だとしか思ってなかったが、それは間違っていたらしい」


 彼女は悪戯好きで人を食ったような性格をしている。貞操観念もガバガバだし、不動に近づいてきた目的もいまだはっきりしていない。

 怪しさ満点だ。


 だが、これだけ愛情のこめられたカレーを提供できるのだ。

 悪い人間ではないのだろうと思う。

 性根の腐ったものにはこれだけ美味しいカレーを作ることはできないはずだ。


「もしかして胃袋掴んじゃいました?」

「そういう訳じゃない……いや、そういうことなのか?」

「そういうことです」


 この後、2回もおかわりをした。




    ◆




(さすがに食べ過ぎたな)


 普段はどれだけ食べてもカレー2杯が精いっぱいだ。だが今日は3杯も食べてしまった。お腹がパンパンに膨れている。

 猛烈に美味しいからといって、もっと自制心を働かせるべきだった。

 獣のようにカレーをむさぼりくらったことを反省しながら、食後のコーヒーを口にする。


「まじか」


 思わず呟いた。

 愛染が淹れてくれたコーヒーはめちゃくちゃに美味しかった。

 このコーヒーもカレーと似たようなもので、ただのインスタントコーヒーだ。家に置いてあった粉をお湯に溶かしただけだ。

 なのに美味しい。

 行列のできる喫茶店のコーヒーでも飲んでいるような気分だ。いや、それ以上かもしれない。


「どうですか?」

「美味い……美味すぎる」

「これも秘伝の隠し味のお陰です」


 彼女は愛情が隠し味だと言っていた。

 それだけ丁寧に、気持ちを込めて作ってくれたのだろう。


(本当に美味しい)


 カレーみたいに何杯も飲んでしまいそうだ。

 さすがに我慢を覚えるべきだろう。


(俺は我慢できない猿ではないのだ)


 コーヒーは一杯限りだ。そう決めた。

 だからせめて、ゆっくりと味わって飲もう。

 コーヒーカップを鼻に近づけて、思いっきり鼻から空気を吸い込む。


「いい匂いだ」

「そ、それはちょっと恥ずかしいですね」


 愛染がもじもじと身体を揺らす。


「なぜだ?」


 恥ずかしがる理由はどこにもないはずだ。

 コーヒーの香りを嗅ぐことは自然なことだと思うが、何が彼女の琴線に触れたのだろうか。


「な、なんでもないです」


 愛染はごほんとわざとらしく咳をする。

 そして話題をそらした。


「そんなことよりも、そろそろ【煩悩断ち】について話しましょうか」


 いきなりの本題に突入だ。

 驚いてしまい、コーヒーカップをテーブルに叩きつけるように置いた。

 中の液体が衝撃で溢れてテーブルの上に零れる。


「まぁまぁ。わたしは逃げませんから、コーヒーでも飲んで気持ちを落ち着かせてください」


 自分でも気が急いていることは自覚していた。

 だから彼女の言う通りコーヒーを口にする。

 少し心が落ち着いた気がした。


「わたしは【秘剣・煩悩断ち】の修得方法を知っています。ですが、今の不動くんには教えられません」

「なぜだ?」

「不動くんが煩悩を知らなさすぎるからです」

「この前も似たようなことを言っていたな」

「誰しも煩悩を持っています。年ごろの男子高校生なら尚更強い煩悩があるはずです」

「そんなもの……俺にはない」

「世の男子は、あわよくばえっちしたい、可愛くて器量よしで好きなときにヤラせてくれる女の子が現れてほしい。そんなことを考えながら日常を送っているんです」

「俺はそういう輩とは違う」

「違っているようにふるまっているだけです。実際は、ただ煩悩にフタをしてきただけ」

「うるさい」

「心の奥ではえっちなことに興味津々なのに、それを見ないようにしているだけです」

「止めろ!」


 叫ぶように声を荒げて否定した。

 自分は心の奥から清らかなはずだ。そうあろうと心がけてきた。


「【煩悩断ち】への第一歩。それは自分の煩悩を認めることです」

「そんなもの、認められるか」


 己の煩悩を認めるなどあり得ない。

 それは不動の人生を、【煩悩断ち】に費やしてきた全てを否定するに等しい。


「仕方がありませんね」


 愛染がため息をつきながら立ち上がる。

 彼女は傍に近づいて尋ねた。


「わたしは可愛いですよね?」

「世間一般的に見れば、そうなんだろうな」


 小学生でも通用しそうな童顔ではあるが恐ろしく整っている。精巧な人形のようにも見えるほどだ。


「世間じゃなくて不動くん自身がどう思うか聞いてるんです」

「それは……」


 油断すれば見惚れてしまいそうになる。

 だが、そんなこと口にできるはずがない。認められるはずがない。

 女性を可愛いと感じることは、不動にとって煩悩の一つだからだ。


「はっきり言ってわたしは超がつくほどの美少女です」

「自分で言うな」

「事実ですから。しかも、えろえろの塊です」

「……」

「えっちなカラダでしょう?」


 愛染は自分の胸を下側から手で支えるようにして持ち上げる。

 その大きさがより際立った。

 胸。乳。おっぱい。

 赤子にミルクを与えるための場所だ。そこに不純なものなどないはずなのに、つい目が引き寄せられてしまう。


「こんなにも可愛くてえろえろなわたしを、ぐちょぐちょにしてみたいとは思いませんか?」


 少し手を伸ばせば触れられる。

 どれだけ柔らかい感触だろうか。

 右手が勝手に動きそうになり、慌てて抑え込んだ。


「いきなり受け入れてもらえるとは思ってません。なので明日から始めましょう」

「何を始めるつもりだ」

「特訓です。【煩悩断ち】を得るための特訓」


 不動の目を見つめながら、愛染は告げた。


 ――わたしが不動くんに煩悩を教えます。

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