誰にも見えない

 教科書を読み上げる国語教師の言葉は右から左に流れていく。

 いつもなら真剣に聞いていたはずの授業。油断すると愛染の顔が思い浮かんで身に入らない。


 今日から【煩悩断ち】を得るための……その前段階の煩悩を知るための特訓を始めると愛染は言っていた。


(どんな特訓なのだろうか)


 不安だった。

 あの少女には人をからかって遊ぶ悪癖があるように思う。

 もちろん【煩悩断ち】のために真剣に動いてくれるのだろうが、そこにちょっとした悪戯をつけくわえることは十分にあり得る。


 頬杖をつきながら窓の外を眺めた。

 不動の席は教室の左後方の角にある。

 一番後ろの窓側で、誰からの注目も浴び辛い席だ。

 だから上の空で窓の外を眺めていてもあまり気づかれることはない。


 グラウンドでは体育の授業が行われている。男子と女子がそれぞれに分かれてサッカーの試合をしていた。

 ワイワイと楽しそうだ。

 彼らを見ていると思いっきり身体を動かしたい気分になる。

 放課後になったら剣の修行をしようと決意した。

 もっとも、改めて決意するまでもなく毎日修行しているのだが。


「サボっちゃ駄目ですよ」


(どうやら俺はおかしくなってしまったらしい)


 出会って以来、ずっと愛染のことばかり考えている。

 とうとう幻聴まで聞こえるようになったようだ。


「真面目に授業を受けてください」


 いつも人をおちょくったような態度をするくせに、幻聴は偉そうに説教をしてきた。


「聞こえてますか?」


 窓の外から風が入ってくる。

 いい匂いがした。

 少し甘くて、それでいて爽やかな匂いだ。


(これは愛染の匂いだ)


 幻聴だけでなく、匂いまでも想像してしまったらしい。

 そんなことがあり得るのだろうか。


「おーい、不動く~ん?」


 愛染の声がはっきりと聞こえる。

 これは本当に幻聴なのだろうか。

 不思議に思いながら、目線をグラウンドから教室へと戻す。


「――ッ!?」


 悲鳴をあげそうになった。

 そこにいるはずのない少女がいたからだ。

 不動の机と右隣りの生徒の机との間にあるスペース。生徒や教師の通路として使われている場所に、愛染が立っている。


 不自然な状況だった。

 国語教師はいつも通りの授業をしている。隣の席の少女もいつも通り授業を受けている。

 見えているはずの愛染に気がついていない。

 鬼斬高校の生徒ではない彼女が授業中に教室にいるにもかかわらず、誰も気にする気配がなく普通に授業が進んでいる。


「不動くん以外にわたしの姿は見えませんし声も聞こえません」


 愛染が怪しげな術を使ったらしい。

 自分の姿を認識できなくなる術。さすが忍者と言うべき小賢しい術だ。


「ですが不動くんの声は普通に聞こえますし、不動くんが変な動きをすれば周りにバレてしまうので注意してください」


 だとすれば不動は愛染に反応できない。

 愛染の行動を止めようとしたら、不自然な動きがクラスメイトや教師にバレてしまう。


 ――嫌な予感がした。


 その予感を裏付けるかのように、愛染がにんまりと犬歯をむき出しにしながら笑う。

 いかにも今から悪戯をしますといった感じの顔だ。


 ――止めろ。


 声には出さず、口の動きで伝える。


「嫌です」


 愛染を睨みつける。

 だが彼女は飄々と言う。


「これは【煩悩断ち】のためですよ? 止めてもいいんですか?」


 その問いに、黙り込むしかなかった。

 【煩悩断ち】は最優先事項だ。


「それじゃあ特訓を始めますね」


 彼女は教室の後方へと歩く。

 不動は前を向いて授業を聞いてる姿勢を保ちながら、目線だけは彼女を追う。だが愛染は不動の背後へと移動してしまう。目では追いきれなかった。


(姿が見えない。不安だ)


 何をする気なのか。

 しばらく身構えていたが何かをしてくる気配はなかった。

 さすがに授業中におかしなことをするのは自重してくれたのかもしれない。


「ッひぃ!」


 右耳がゾクっとした。

 思わず声を出してしまう。

 教室中の視線が集まった。


「どうした?」

「な、なんでもありません」


 不審げな教師に弁明する。

 大した興味もなかったのか、教師はすぐに授業を再開した。

 愛染が耳に息を吹きかけたらしい。


「声を出したらバレちゃいますよ」


 愛染が耳元で囁く。

 その声が耳に届くたびに身体の芯が震えた。


「やっぱり不動くんは耳が敏感みたいですね」


 愛染が再び耳に息を吹きかける。

 最初のときよりも弱めに、じっくりと。

 ゾクゾクとした冷たいような、熱いような感覚が身体をかけめぐる。


「どうですか。キモチイイですか」


 気持ちいいはずがない。

 耳に息を吹きかけられて気持ちよくなるなどあり得ない。


「素直じゃないですねぇ。ではこんなのはどうでしょう」

「~~ッ!」


 また声を荒げそうになって口を手でおさえた。

 周囲を見渡す。

 くぐもった声が漏れてしまったが誰も気にした様子はない。

 なんとか聞こえずにすんだようだ。


(今の感触はなんだ?)


 ぬめぬめと湿った、表面がざらついた何かが耳に当たった。


「今のはこれですよ、べー」


 愛染が前に回ってあっかんべーと舌を出す。

 彼女はあろうことか耳を舐めたのだ。


「絶世の美少女の舌を味わえる幸せを堪能してください」


(これ以上好きにさせてたまるか)


 退屈に授業を聞いているようなフリをして、両耳に手をあてて肘を机の上に置いて顔を支える。


(こうすれば耳を舐めることはできまい)


 だが愛染の方が上手だった。

 彼女が脇をくすぐる。

 反射的に脇をしめてしまい、耳を抑えていた右手がずりさがった。

 そして無防備になった右耳に舌が侵入した。


「~~ッ!」


 声が出ないように手で口を抑えながら必死に耐える。

 彼女の舌が耳をなめまわす。

 にちゃにちゃと粘着質な液体の音が脳に響いた。


「き、汚いぞ」


 周囲に聞こえるリスクを冒しながら小声で反抗する。

 耳には垢がついているのだ。そんな汚いところを舐めまわせば不衛生だ。


「汚くないですよ。不動くんの身体から出たものなら、どんなものでもご馳走です」


 意味が分からなかった。

 耳垢は排泄物の一種だ。その排出者が誰であろうと、むろん不動であろうと汚い。


「せっかくだしお掃除しましょうか」


 粘膜の塊が穴の中へと入ってくる。

 耳穴のサイズは小さい。

 その穴の中に、器用に舌を丸めてねじ込んできた。


「ぉ、おッ」


 耳という器官はただの聴覚器官だ。

 外の音を聴き取るだけ器官であるはずなのだ。

 それなのに、ただ中に舌を入れられただけで、全身に痺れるような感覚が走るのはなぜなのか。

 舌が前後に動くたびに身体が痙攣して、全身の制御を失ってしまうのはなぜのか。


「~~ッ!」


 愛染の舌一つで身体は完全に支配される。

 抗えなかった。

 抗うために動けば周囲にバレてしまう恐れがある。

 でもそれだけじゃない。

 まるで脳みそを犯されているような感覚に、抗う意欲は完全に奪い去さられていた。


 机に突っ伏して酷いことになっているだろう顔を隠す。

 周囲には居眠りしているように見えているだろうか。

 誰にもバレないことを祈りながら必死に声を押し殺した。


「くっ……んふッ、ふっ、ぐ……」


 地獄のような時間が過ぎていく。


(まだ授業は終わらないのか)


 30分ぐらい経っただろうかと時計を確認する。


 ――そんなッ!?


 愛染が現れたときから5分も経っていない。

 耳を舌で弄ばれ始めたときからは3分程度だ。


(嘘だろう!?)


 あれだけ必死に耐えたのにほんのわずかしか経っていない。

 どうやらこの地獄はまだまだ続くらしい。

 絶望的だった。


(耐えろ。耐えるんだ!)


 先の蟲がもたらした暴力的なものではなく、少しこそばゆい快楽だ。身体の奥から徐々に何かがせり上がってくるような感覚がある。

 身体がゾワゾワとする。

 嫌悪感であれば、どれだけでも我慢できただろう。だがもたらされるのは快楽だ。我慢のスベを知らない。

 必死で歯を食いしばり、手で口を覆って声を抑える。周りにバレて醜態をさらす訳にはいかない。

 認識外なのはあくまで愛染の行動であって、不動の反応は認識されてしまう。


「くっ!」

「おい桃川」

「は、はい!」


 教師に名前を呼ばれて立ち上がる。


「どうした? 少し顔も赤いし具合でも悪いのか?」

「大丈夫です!」

「そ、そうか。辛くなったらいつでも言うんだぞ」


 教師は不動の気迫に戸惑いながら授業を再開した。

 不動は心機一転、真面目に授業を聞こうと気合いを入れる。

 だが愛染もまた、授業が始まるに合わせて悪戯を再開してしまう。しかもより一層激しさを増して。


「辛くなったら、いつでもイッてくださいね」


 ――なんたる屈辱か!

 拒めぬ羞恥プレイは延々と続く。授業の終わりを告げるチャイムが鳴った頃には息絶え絶えだった。

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