官能小説

 リビングのソファーに横並びで座りながら、一冊の文庫本を手渡された。

 表紙には女性の裸体、主に上半身部分が描かれている。

 大事なところはタイトルで隠されているが、それが妙に卑猥だった。


「なんだこれは」

「えっちな小説ですよ」

「これをどうしろと?」

「わたしの前で朗読してください」

「は?」

「煩悩を知るためのお勉強ですよ。奥義を修得したくないんですか?」


 愛染は大したことでもないかのように、あっけらかんと言い放つ。

 バカなのだろうかと呆れてしまう。

 いや、こいつはバカだったと思いなおした。

 異性の前で官能小説を朗読するなんて変態にもほどがある。

 特殊な性癖を持った者であれば喜んで行うかもしれないが、清廉潔白たらんとしている不動には到底受け入れられない。

 だが悲しいかな【煩悩断ち】の為と言われたら逆らえなかった。


「美由紀を前にして、健介は劣情を抑えきれなかった」

「すとーっぷ! 全然感情がこもってないですよ」

「最初に出会ったときからずっと、その大きな胸を揉みしだいてみたいと想像しては悶えていた。美しき二つの山は、まるで健介を誘うように主張している。ごくり、と唾をのみ込みながら訪ねた。『触っても良いですか』」

「『良いわよ』」


 愛染が美由紀のセリフを口にして、正座する不動の右隣にくる。肩を寄せ合うようにくっつきながら正座をした。


「おい、近いぞ」

「そんなこと書いてませんよ」


 愛染が官能小説を奪い取ってパンパンと本を叩き、書いてあることをちゃんと読めと主張した。

 不動の左側に座る彼女は右手で官能小説を持ち、上半身を捻って身体を不動に向けながら小説を突きつけた。

 手に持った本を小刻みに動かして、早く続きを読めと促してくる。


「健介は許可を得てなおためらってしまう。上手くできるだろうか。気持ちよくなってもらえるだろうか。様々な思考が脳裏をめぐる。初心な健介の様子を見た美由紀がほほ笑んだ」

「『緊張しなくていいのよ。あなたのしたいことをすればいいの』」

「健介は顔を真っ赤にしながら狼狽えて固まってしまう。その手を美由紀が掴んだ」


 小説の内容を再現するかのように愛染は不動の手を掴んだ。

 男側の顔が真っ赤であることも、きっと再現されていることだろう。自分の顔が熱くなっているのを感じた。心臓も素早く脈打っている。


(このまま身を任せたらマズい)


「おい、ふざけるな。手を掴む必要はないだろ」

「わたしは真剣ですよ! 本気で【煩悩断ち】の訓練をしてるんです。ちゃんと必要なことをしています。むしろ不動くんこそ本気でやってください!」


 ぷんすかぷんすか、と頬を膨らませて怒っている。

 その様子にふざけた気配は一切ない。彼女なりに真剣であるというのは本当なのだろう。

 「ん」と言いながら顔をクイっと官能小説の方に動かして、続きを催促している。


「分かった。読めばいいんだろう」

「お願いします」

「美由紀は硬くなった健介の手を、美しき山へと導いたッ……おい!」


 愛染もまた、不動の手をその胸へと誘導した。

 驚いて手を離そうとするがガッチリと抑えられてしまう。

 むしろ動かそうと足掻けば足掻くほど、その手に感じる感触は変化していく。


「続きを、お願いします」


 愛染は吐息を出しながら色っぽい声で続きを懇願する。

 ごくりと唾をのみ込みながら再び読み始めた。

 おかしな状況だ。

 すぐに中断すべきだと頭では分かっていた。


「手は止まることを忘れてしまったように貪り喰らっている。なんと気持ち良いのだろう。この世のものとは思えない。天から落ちてきた禁断の果実なのだろうか」

「キモチイイですか?」

「あぁ」


 呆然と返事をする。

 小説と現実が混ざり合い、どこまでが自分の感情なのかが分からなくなっていた。

 愛染に促されるまでもなく、口が勝手に動き始めた。


「美由紀が顔を寄せる。童貞の健介であったが、彼女がキスをしようとしていることが分かって目を閉じる」


 小説の内容に従うかのように、不動は目を閉じた。

 何も見えないが、愛染が近づいてくる気配を感じて全身に力が入る。


「……」


 性に関して潔癖であった不動は、異性とキスをするというだけでも恐怖があった。

 それでも【煩悩断ち】のために耐えるのだと覚悟を決めていた。

 だがいつまで経っても唇には何の感触も訪れない。


「……はぁ、今日はここまでにしておきましょうか」


 愛染がため息をついて離れた。


「え? あ、あぁ。そうだな」

「名残り惜しかったですか? でしたら続けますよ?」

「そんな訳ないだろ!」


 ホッとした自分がいる。

 その一方で、口惜しく感じている自分もいた。

 ぷるぷると柔らかそうな唇に視線が吸い寄せられる。


(もしも口づけを交わせばどんな感触なのだろうか)

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