目覚め
――重い。
眠りから覚めたとき、まず最初にそう思った。
何かが身体の上に乗っている。温かくて柔らかくて心地いい何かだ。
眠気で重たいまぶたを開きながら、その正体を突き止めようとして――。
「う~ん」
耳元で聞こえてきた声に、意識は一気に覚醒させられる。
同じ布団で少女が眠っている。仰向けに眠る不動に覆いかぶさるように、少女がうつ伏せで眠っていた。
彼女の顔は不動の顔のすぐ横にあり、その吐息が耳をくすぐる。
「おっ、おい!」
「むにゃむにゃ」
少女・犬山愛染はのんきに寝言を口にしている。
会って間もない男と一緒に寝ているにもかかわらず、驚くべきほどに無防備だ。
(相手が俺じゃなかったら襲われているぞ)
不動はいつも清廉たらんと心がけている。情欲に突き動かされて少女に乱暴を働くことは最低の行いだ。
だが、くだらない性欲で生きている男子高校生であれば、きっとこれ幸いと少女に狼藉を働いたに違いない。
「ん」
愛染が身じろぎする。身体の動きに合わせて、彼女の肉感を鮮明に感じとってしまう。
一晩眠ったことで蟲による媚薬の効果は切れているようだが、だからこそ、身体の感触がそのまま分かった。
ありのままの少女の感触。それはむしろ媚薬で敏感になってたときよりも一層魅惑的で――。
「――ッ!?」
(今、俺は何をしようとした?)
不動の腕は、上に乗って眠る少女の身体の後ろに回っている。
無意識のうちに彼女の身体を抱きしめようとしていた。
己の煩悩に突き動かされて、不埒なことをしようとしていたのだ。
――落ち着け。
(俺は煩悩塗れの猿どもとは違う)
彼らのように理性のない行動をする訳にはいかない。
「ぬふふー」
どんな夢を見ているのか。満足そうに鼻息を荒くする。
彼女の吐息が首元にまで届いた。
撫でるようなその風は、ぞわぞわとした感覚を全身に生じさせる。
気持ち悪いような、気持ちいいような感覚に身体が震える。
その感覚は、心の中にある醜い場所の扉を強引に開いてしまう。
――まずい。
わずかに残った理性が制止する。だが心の中の醜い部分は、いっそ好き放題にしてしまえと囁いていた。
醜い心は言い訳を用意する。
彼女は【煩悩断ち】のことを知っている。起きてすぐ逃げられないためにも捕まえておく必要がある。だから彼女を抱きしめて拘束することは何らおかしなことではない。決してやましい目的ではないのだと。
自分で勝手に作り出した言い訳に流されて、横で眠る少女へと手を伸ばし、その身体を抱きしめようとする。
「んんー……?」
少女が目を覚ました。
慌てて腕を戻す。
「ひょっとして、わたし、寝てました……?」
彼女は眠たそうに目をトロンとさせたまま周囲を見渡し、やがて状況を把握したのか目を大きく開く。
頷けば、少女が叫ぶ。
「ぴゃぁあああ!」
慌てたようにベッドから跳ね上がり、そして――。
「おい、待て――ッ!?」
消えた。
周囲を見回しても彼女の気配は一切残っていない。
部屋の外に飛び出したのではなく、文字通り目の前からいきなり消えた。
不思議な術を使ったらしい。
まるでまやかしのようだと思った。
あの不思議な少女は、存在しない幻なのではないか。【煩悩断ち】を求めるあまりに生み出してしまった幻覚なのではないか。そんな風にすら思えた。
だがベッドに残る温もりと残り香が、彼女の存在を強く主張している。
(俺は何をしていたのだろうか……)
落ち込んでしまう。
手で顔を覆った。
あのまま彼女が起きなければどうなっていただろうか。もしかしたら取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
煩悩に突き動かされて理性を失くし、あまつさえ【煩悩断ち】については何一つ聞き出せないまま取り逃がしてしまった。
「俺は最低だ……」
◆
今朝、鬼斬山の廃寺で謎の少女・犬山愛染と一緒に目覚め、彼女はあっという間に消え去った。走り去ったのではない。文字通り、消えたのだ。
証拠となるはずの蟲の体液も、いつの間にか綺麗さっぱり消え去っている。胴着についた紫色のシミもなくなっている。クリーニング屋も驚きの脱色具合だ。
(もどかしい)
愛染は【煩悩断ち】のことを、その秘密を知っていると言う。
それは求めてやまなかったものだ。【煩悩断ち】の秘密を知れば、その修得に大いに近づくことだろう。もしかすると修得方法そのものをズバリ知っている可能性もある。
彼女と再び会う必要がある。普段どこにいるかは分からない。廃寺に戻ってくるのを待つしかないだろう。
とはいえ今日は平日で、普通に授業がある。
不動は山から家へと戻ってお風呂に入り、高校に行くための身支度を整えた。その頃にはもう2限目の授業が始まっている時間で、高校生活初めての遅刻をすることになった。
ほとんど集中できないまま授業を受けて、放課後になる。
不動はすぐさま鬼斬山の廃寺へと向かった。
「いない……か」
ここに来れば彼女が待っているかもしれないと思っていたが、そう甘くはなかったようだ。
持ち主不在の廃寺――そもそもあの少女は持ち主ではないが――を調べ始める。
(なぜこの場所を懐かしく感じるのだろうか)
この寺に来た記憶はないが、妙な懐かしさがある。
覚えていないだけなのだろうか。
首を傾げながら本堂を見回す。
「あいつの物が邪魔だな……」
彼女が持ち込んだ家具は本来寺にはなかったものだ。場違いな異物は記憶をたどることを妨げる。
ピンク色の布団がのったベットはにくたらしい顔の少女を連想させた。
「ん……?」
本堂の壁際にある襖が目に入った。
フラフラと吸い寄せられるように近づく。
奥の部屋を見ようと襖に手をかけたとき、頭に痛みが走った。
「――ぐッ!?」
脳内に映像が浮かぶ。
その映像では、ちょうど今いる場所に幼い頃の不動がいた。恐る恐る襖を開こうとしている。
静かにゆっくりと、わずかに襖を引いて、その向こう側を覗く。
襖の隙間から見えたその光景は――。
「ッ!?」
不動は我に返る。
(今の映像はいったいなんだ?)
脳内に浮かんだ映像は妄想というにはあまりに鮮明だった。
忘れてしまっているが、どうやら小さい頃にこの寺に来たことがあるようだ。
(この襖の奥で何を見たのか)
脳内の映像は大事なところで途切れてしまった。
廃寺となった今でも襖の奥には何かが残されているかもしれない。
覚悟を決めて襖を開いた。
「何もない……?」
拍子抜けだった。
部屋の中には何もなかったからだ。
広さは8畳。寺の関係者が生活するために使っていたのか、あるいは応接時に使用するのか。用途は不明だが、ただの畳の部屋だ。
その後も愛染が戻ってくるのを待ちながら廃寺の中を探索したが、幼き頃の記憶を想起させるようなものは見当たらなかった。
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