廃寺にて

 無言で抱っこされるまま十分ほど経っただろうか。

 鬼斬山には修行で幾度となく登っているが、通ったことのないルートを進んでいた。

 獣道すら存在しないような木々の間を抜けていき、その先にはひっそりと小さな寺が建っていた。


 木でできた寺の外観は寂れている。壁や屋根には植物の蔦が巻きつき、人が住んでいる気配は感じられない。

 使われなくなった廃寺だ。

 この寺に来た記憶はない。だが、なぜか妙に懐かしい気がした。


「ここは?」

「わたしの家です」

「はぁ?」


 不動を抱えながら、愛染は手慣れた風に廃寺へと入っていく。


「誰も使っていなかったので少し間借りしてます」

「えぇ……」


 さすがは忍者だなと呆れてしまう。

 外観の印象とは異なり、部屋の中は古びてはいるが埃っぽさはない。愛染が掃除したのだろう。

 罰当たりなことに本堂の中に机や椅子、タンスといった家具が並んでいる。

 彼女は阿弥陀如来像に見守られながら生活しているらしい。


「不法侵入だろうが」

「バレなきゃ問題ないんですよ」

「いや問題あるから」

「私が見つけたときは、もう何年も使われていない感じでしたし」


 厳かな雰囲気がある本堂の中で、隅に敷かれたベッドはひと際目立っている。

 布団が可愛らしいピンク色だった。華やかな柄は少女の部屋としては相応しいのかもしれないが、目の前に阿弥陀如来像が座していることを考えると違和感しかない。


「ここに横になってください」

「……ありがとう」


 身体の自由が効かない不動を休ませようとしてくれているらしい。その想いは嬉しく思う。だが場所が場所だけに素直に喜べない。

 別に信心深い訳ではない。だが日本人としての最低限の信仰心はある。使われなくなった廃寺とはいえ、その本堂で仏像に見守られながら、派手な布団にくるまれて眠るのは気が引けた。


 そんな微妙な気持ちを愛染が知る由もなく、女の子感溢れるベッドの上に仰向けに寝かされる。

 柔らかい布団からは愛染の香りがした。その香りに心を奪われて――阿弥陀如来像が目に入って我に返る。


 ――罰当たりだ。


 仏像の前で少女の残り香に欲情するなどあり得ない。あってはならないことだ。首を振って己の煩悩を追い払う。

 このままじっとしていると、また愛染の匂いにやられてしまいそうだった。だからその煩悩を紛らわせるためにも、そして自身が追い求めるもののためにも尋ねた。


「【煩悩断ち】のことを教えてくれ」


 愛染がやれやれと肩をすくめる。


「せっかちな男の子は嫌われますよ?」

「どうでもいい」

「またまたぁ、そんなこと言って本当は気にしてるんじゃないですか?」

「良いから早く教えろ」


 大事なことは【煩悩断ち】のみだ。それ以外は些細なことである。女性からモテたいとは思わない。モテようが嫌われようが一切関係がない。


「仕方ありませんねぇ」


 仰向けになって見上げていると、愛染が十本の指を動かして手をワキワキさせながら近づいてくる。その表情は妙に楽しそうだ。むふふと下品な笑い声も漏れている。

 物凄く嫌な予感がした。


「何をするつもりだ」

「大人しくしててくださいね」

「ッ!」


 愛染が手を掴む。

 そして何度も掴み直しては、その度に掴む場所が移っていく。手の先から肩の方へと上がっていく。


 その行動には思い当たることがあった。

 筋肉を確かめる動きだ。似たようなことを祖父にされたこともあるし、普段であれば何の問題もない行為だ。

 だが今は通常の状態ではない。異様に敏感になった肌は、乱暴に掴んでは移動していく動きに容易く翻弄される。


「や、やめろ」

「【煩悩断ち】を使える身体かどうかを確認してるんですよ?」


 何かおかしいことでもありますかと言いたげだ。

 愛染は不動の状態を把握している癖に、わざとらしく知らないフリをしているらしい。

 全身が敏感になっており、少し触れられただけでも悶えてしまう。


「くっ、今は不味いから止めろ」


 愛染は動きを止め、紫の瞳がこちらに向いた。


「止めても良いんですか?」

「なに?」

「【煩悩断ち】を修得したくないんですか?」


(最悪だ)


 それを引き合いに出されたらどうしようもない。


「……」


 目を閉じて深呼吸をする。

 出会ったばかりの少女は不動の中に土足で踏み込み、荒そうとしている。大事に守ってきた――いや、遠ざけていたものを乱暴にさらけ出そうとしている。


(気持ちが悪い)


 不愉快なことこの上ない。

 それでも――覚悟を決めねばならぬ。

 【煩悩断ち】を会得するために。


「……続けろ」

「はい」


 腕や足の筋肉を掴まれる度、まな板の鯉のように全身が跳ねた。

 身体はどうなってしまったのか。

 独立した生物であるかのように身体が勝手に反応する。

 しばらくすれば治ると愛染は言っていたが、一向に収まる気配がなく不安が襲う。

 愛染が不動の上に跨がって下腹部に座った。


「お、おい」

「止めますか?」


 困惑してしまうが止めることもできない。

 重たすぎず、軽すぎない適度な重さが心地良い。下腹部にじんわりとした熱が伝わってくる。


「本当に……本当に【煩悩断ち】のためなんだな?」

「当たり前じゃないですか」


 厄介なことに嘘をついている気配はない。弄ぶことを楽しんではいるようだが、それはそれとして、彼女の行動が【煩悩断ち】のためであることは間違いないようだ。


「……続けてくれ」

「了解でーす」


 不動の胸板に両手をつく。肘を曲げて身体を前に前傾させる。忍者なだけあって柔軟性があり、彼女は横顔を胸板に押しつけた。


「ぅおッ」


 結果として、ふにふにとしたものがお腹へと押しつけられる。

 包帯を巻いていてもなお、その存在を主張する巨乳。胴着の上からでも、その弾力がはっきりと分かった。


 ――煩悩退散!

 ――煩悩退散!

 ――煩悩退散!


(俺は何も感じない)


 柔らかな感触を拒もうと必死で努力していることに気付いているのか、いないのか。愛染は胸板に頬ずりをする。


「良い筋肉ですね。とても硬くて、でも柔らかい」


 彼女の頬が胸をくすぐる。

 ぞわぞわとする感覚に、全身から汗が出た。


「不動くん」

「な、なんだ」

「良い匂いです。不動くんの匂いがします」

「それは、【煩悩断ち】に、関係、あるのか?」

「あんまり関係ないです。レディの匂いに言及した仕返しです」


 わざとらしく鼻を鳴らすように息を吸い込んでいる。【煩悩断ち】に関係のないことは拒否したい。だが先ほど彼女の匂いについて言及した負い目から何も言い返せなかった。


 密着したまましばらくの時間が経った。

 五分ぐらい経っただろうか。一向に進展がない状況をさすがに訝しむ。


「いつまでそうしている」

「んん、もう少し」

「本当に【煩悩断ち】に関係していることなのか?」

「……」


 返事がない。


「おい、聞いているのか!」

「ふぇっ?」

「俺は【煩悩断ち】を使えるのか」

「えっ? あっ、はい。素質はあります。ですが、致命的に足りないものがあります」

「それは何だ!」


 足りないものを問いただすために食ってかかる。

 必死に努力してきたのだ。足りないものがあることはショックではある。だが逆に言えば、それを充足させれば【煩悩断ち】にたどり着けるということだ。


 何が足りないかも分からなかった今までよりも大きく前進している。

 足りないものが何であれ、それを身につけるためなら何でもする。

 心は決意で満ちていた。


「煩悩です」

「――は?」

「不動くんは煩悩を知らなさすぎます。煩悩を知らずに【煩悩断ち】を修得はできません」


 煩悩とは避けるべきものであるはずだった。

 かつて幼いころ、父が【煩悩断ち】を振るったところを見て以来、剣に心を奪われた。

 一切の無駄がない穢れなき一振りだった。

 研ぎ澄まされた美しき剣技。そして【煩悩断ち】という名前。

 煩悩を断つことで到る境地こそが、奥義【煩悩断ち】に必要なのだと推測していた。

 だからずっと煩悩を遠ざけてきた。不浄なものだとして憎んできた。蓋をしてきた。


 故に彼女の言っていることは受け入れられないものだった。

 だがその予想外の言葉に、理があるかもしれないと思ってしまう。


 ――敵を知り、己を知らば、百戦あやうからず。


 煩悩という敵のことを知らない。悪いもの、忌むべきものとして蓋をしてきたからだ。だが知らないものをどうして断ち斬ることができようか。


「煩悩から逃げないで、向き合ってください」

「煩悩と……向き合う」

「はい。ですが、それも明日からで良いでしょう。時間はたっぷりあります。業魔に襲われて疲れもたまってるでしょう。今日は、ここで……寝てくだ、さい……」


 そう言い残しながら、少女は不動の上で眠りについた。


「おい!」


 完全に寝てしまったのか、呼びかけても反応がない。止める間もない早業だった。

 二人きりの状態で胸を押しつけながら男の上で眠る。

 不動が自由に動けないとはいえ無防備にも程があるだろう。


(なんて不浄な女だ)


 突如現れて、不動をかき乱す巨乳の童顔美少女。彼女はまさしく煩悩の象徴だ。煩悩と向き合うということはすなわち、彼女と向き合うことに等しい。


(煩悩と向き合う……か。俺にできるだろうか)


 出会ってからわずかな時間しか経っていないが、不思議な少女にペースを乱されてばかりだ。


 身体にかかる重さと温かさに戸惑いながらも眠気が襲う。

 あの少女が言っていたように、色んなことがありすぎて心も身体も疲労していたのだろう。あっさりと意識は落ちて眠りについた。

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