抱っこされる不動
春になったばかりの季節、日が落ちるのはまだ早い。
少し前まで明るかった鬼斬山はすっかり暗くなっていた。都会に慣れ親しんだ者が無暗に進めば山中に遭難してしまうだろう。
だが忍者の格好をしているだけあって、犬山愛染と名乗る少女はそういう軟弱ものではないようだ。
不動はいつも剣術の修行に打ち込んでいて、その肉体は剣を振るうために最適化されている。
全身に程よい筋肉がついていて、日本人の成人男性の平均よりも体重がある。小柄な女性が持ち上げることは難しいだろう。
だが愛染は不動を軽々と背負い、暗い山道を迷いない足取りで下っている。
山で修行をしていたときに異形の蟲と遭遇して、強烈な媚薬効果を持つ蟲の体液を浴びた結果、動くことができなくなった。身体の自由が利かない不動を、愛染が担いでいるのだ。
――なんと情けないことか。
今の時代、男尊女卑の風潮は少しずつなくなっている。それと同時に、男が女を守らなければならないという風潮も減ってきている。
それでも不動は男が女を守るべきだと思っている。
高校のクラスメイトからは「堅苦しい」、「古臭い」と言われるが、女子供は守るべき存在であり、その逆はあり得ない。
だが現状では忍者の格好をした変な少女に蟲から救われ、今もなお彼女の手を借りなければ山を下りることもできない。
情けないことこの上なかった。
「どうしたんですか?」
屈辱に黙り込んでいる不動を心配したのだろう。愛染が後ろにいる不動の顔を覗き込んだ。
至近距離に彼女の顔が迫る。
――美しい少女だ。
特に印象的なのは目だ。
クラスメイトの厚化粧女と同じか、あるいはそれ以上にその瞳は大きい。厚化粧女とは違って、愛染はつけまつげを始めとした化粧をしていない。化粧特有の不自然さがなく、あるがままの美しさがある。
そして何よりも瞳の色だ。黒や茶色ではない。どこまでも吸い込まれそうな紫色をしていた。
「不動くん?」
「はっ! な、なんだ?」
「ぼーっとしてどうしたんですか? もしかして、わたしに見惚れてました?」
「そんな訳あるか」
慌てて目を逸らした。
女になど興味はない。興味を抱いてはならない。
見惚れるなどあってはならない。
だから少女に見惚れていたはずがないのだ。
「でも、カラダは興奮してるみたいですよ」
「ンッ、っ、やめろ!」
変な声をあげてしまう。
愛染が不動を背負いながら、両手で臀部を揉みしだいたのだ。蟲によって敏感になった肌は少し触られただけでも反応する。
「気持ちの悪いことをするな」
「キモチイイ、の間違いじゃないんですか?」
「そんな、わけ、ないだろ」
お尻を揉みしだく手から逃れることができない。愛染の背中にもたれかかったまま、彼女の刺激に耐えようと目をつむる。
視界を閉ざしたことで嗅覚が鋭くなったのだろう。石けんのような甘くて爽やかな香りが鼻をくすぐった。
深く考えることもせずに思ったことを口にする。
「良い匂いだな」
「びゃっ!?」
「ぬぉっ」
愛染は女の子らしからぬ奇声をあげて両手を離した。
身体の自由が効かず、お尻が地面に衝突して後ろへ倒れ込む。受け身をとることもできなかったが、余計な力が入らなかったお陰か大きな怪我はなかった。
「いきなり何を……」
「まったく不動くんはむっつりですねぇ」
「むっつりだと?」
「はい、すけべぇですよ」
清廉たらんと己を律している身だ。むっつりなどと評されることは我慢ならない。
反論しようとすると、彼女が「じっとしててください」と近いてしゃがみ込む。身体と地面の間に両手を入れて持ち上げた。
「おい、抱っこは止めろ」
「良いじゃないですか。可愛いですよ」
にー、と笑みを浮かべながら顔を近づけた。
虫歯一つない綺麗な白い歯が闇夜に映える。口から覗く左右の犬歯からは悪戯っ子のような印象を受けた。
「早く下ろせ」
「そんなこと言っていいんですか?」
「なんだと?」
「【秘剣・煩悩断ち】の秘密を知りたくないんですか?」
「ぐっ……」
それは急所だ。【煩悩断ち】を引き合いに出されてしまえば黙って従う他ない。
現存する桃川流剣術の遣い手は不動ただ一人。【煩悩断ち】を修得していた祖父と父はもういない。
祖父もおよそ1年前、不動が中学を卒業した頃、その奥義を授ける前にこの世を去ってしまった。
桃川流の基本的なことは教えてもらっていたが、奥義に関しては名前ぐらいしか教えてはもらえなかった。
幼い頃に父が放った【煩悩断ち】を見た後、何度も祖父に教えを乞うたが「お前にはまだ早い」と言って決して教えようとはしなかった。
実力が足りないのだろうかと修練を積んだ。
必死に努力した結果、祖父と試合をしても勝ち越すことの方が多くなった。
だがそれでも【煩悩断ち】を教えてはくれず、そのままこの世を去ってしまった。
だからどうすれば奥義を修得できるのか分かっていない。
師が存在せず、壁にぶち当たっている現状、怪しげな少女こそが唯一の希望なのだ。
彼女に逆らうことはできない。端正な顔をしかめながら、大人しく運ばれることを黙認するしかなかった。
「どこに行くつもりだ?」
愛染が途中で進む方向を変えた。
「ぬふふ」
良いところですよと怪しげに笑っている。
非常に不安だった。
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