くっ、殺せ!
不動は鬼斬山を下りて家に帰るべく斜面を下っていた。
女性の身体が泥になっていく超常現象を目撃して、落ち着いて剣の修行ができるような精神状態ではない。
(あれはいったい何だったのだろうか)
思い返しても答えは出ない。
答えの出ぬ難問に思考を割きながら歩く。
そして、立ち止まる。
「そこにいるのは誰だ!」
草木の茂みを睨みつける。
何かに見られている。根拠はないがそう思った。
「……」
しばらく待っても反応はない。
葉の擦れる音しか聞こえなかった。
(勘違いか?)
念のため確認しようと茂みの元まで近づこうとして、不意に背後から別の気配を感じた。
慌てて振り返る。
「……ムシ?」
山中にいるようなただの虫ではなく、異形の蟲だ。生まれてこの方、出会ったことのない姿をしている。
まず最初に印象に残るのはそのサイズの大きさだ。くねくねと曲がっているためはっきりとは分からないが、真っすぐに伸ばせば全長3メートル以上はあるだろう。
表面はクリーム色で、甲殻もなければ外敵から身を守る棘もない。サイズさえ考慮しなければ幼虫のようにも見える。どうすればこの山でそこまで育つのか。自然の摂理を無視した巨大な幼虫だ。
その蟲はぶよぶよした肉を動かしてズッ、ズッ、ズとこちらに近づいてくる。
蟲の狙いは分からないが大人しく待つ必要はない。蟲の移動速度は遅かったため警戒しながらもゆっくりと蟲の側面側へ退避した。
横から見るとその蟲の異様さがよく分かる。
2つの顔が不動を見ていた。
双顔蟲とでも言うべきか。細長い体の両端に同じような赤黒い顔がついている。
虫は不思議な生き物だ。人間が顔だと思った箇所が単なる模様にすぎない場合もある。だが目の前の蟲にある2つの顔は、単なる模様ではなく顔だと思った。
顔だと思われる部分から視線を感じたからだ。
蟲は方向転換してゆっくりと移動する。
引きずるようにして近づいてきたかと思えば、進行方向側にある身体が持ち上がる。細長い身体を曲げて、顔の1つが目線の高さまで来ていた。
蟲はシャシャシャと奇音を出しながら、半球状の黒い目玉をこちらに向けていた。今にも襲い掛かってきそうだ。口からは無数の触覚のようなものが生え出ている。その触覚たちは自由な意思をもっているかのようにウネウネと無秩序にうごめいていた。
(俺を捕食する気か?)
突然現れた異形の蟲は人を害する生物であるらしい。だとすれば加減は不要だ。
――斬るべき敵だ。
「ふっ」
異形の蟲と相対して、ニヤリと笑う。
心に宿るは恐怖にあらず。
不動はいつも一人で鍛錬をしている。試合相手もいないし、このご時世に真剣で斬ることが許される獲物は中々見つからない。満たされぬ日々を送っていた。
だが目の前の蟲は間違いなく、斬るべき敵なのだ。心は今、剣を振るうべき相手が現れた悦びに満たされていた。
蟲は挑発されたと感じたのだろうか。奇声を発して威嚇したかと思えば、鞭のように身体をしならせて高速で突進してくる。
デカいというのはそれだけで脅威である。蟲の巨体と衝突すれば、ひとたまりもないだろう。
だが焦りはない。ゆっくりと足を運んで、わずかな身体裁きで突進を回避する。
しっかりと大地を踏みしめながら一振り。刀を振り下ろした。
蟲の首を斬り落とす。ポタリと顔の1つが地面に落ちる。
念のため反対側の首も斬り落とし、そして胴体を半分に斬った。
呆気なく斬り裂いたように見えるが簡単なことではない。並の剣士では蟲の肉で剣が途中で止まっていただろう。不動が研ぎ澄ましてきた尋常ならざる剣技のたまものだ。
(甘い臭い……?)
紫色の生暖かい液体が全身にかかる。返り血だ。
胴着や身体にこびりついた蟲の体液から妙に甘い臭いがした。大量の砂糖をドロドロに溶かして、そのまま腐敗させたような甘ったるい臭いだ。
(気持ち悪い)
早く帰ってお風呂に入ろう。
刀を振って甘い液体を落として鞘にしまう。刀に臭いが残らないだろうかと少し不安になる。
顔をしかめながら蟲の残骸に目を向けた。
「なっ!?」
そこに、傷一つなき蟲がいた。
確実に四つに斬ったはずだ。身体にまとわりつく甘い臭いがそれを証明している。そのはずなのに蟲はなにごともなかったかのようにどっしりと構えている。クリーム色の胴体をUの字に曲げて、2つの顔がこちらをジッと見つめていた。
――何故だ?
「ッ!」
顔、胸、腕、足。蟲の体液を浴びた部分が熱を帯びる。
燃えさかる火に近づいたときの熱さに似た、しかしそれとは別種の感じたことのない熱さだ。
「な、なんだ、これ」
何が起きているのだろうか。
困惑しながら腕の熱い場所に手を当てた。
「くっ!」
触れた場所を強烈な刺激が襲う。
まるで脳が痺れるような感覚に全身の力が抜けた。
立っていることが困難になって膝をつく。
全身が熱く火照って呼吸が荒くなる。ハァハァと吐息を出す様は端から見れば完全に変質者だった。
あの蟲の血だ。
紫色の液体を全身に浴びたことが原因なのだろう。
原理は分からないが、どうやら人を発情させる媚薬のような効果があるらしい。
蟲が鳴く。
まるで罠にかかった獲物を前に嗤っているかのようだった。
ゆっくりと、近づいてくる。
「く、来るな!」
必死で距離を取ろうとするものの、力が入らずろくに動けない。
もがけばもがくほど衣服と肌がこすれ合い、その度にビクッと全身が痙攣する。
どれだけ剣の腕を磨いたところで己の身体を制御できなければ無力だ。
「くそ!」
何もできずに焦る。
蟲は足元まで迫っていた。
――こんなところで化け物に喰われてしまうのか。
――【煩悩断ち】を得ぬまま、死んでしまうのか。
「えっ?」
足にたどり着いた蟲は予想に反して不動を喰らわなかった。いや、あるいは別の意味で喰らい始めたのかもしれない。
口から無数に生えた触手が足を撫でる。
「や、やめろ!」
無数の触手で足を絡めとられるというおぞましい事態。
足を引っ込めようとするが力が入らない。
「離せ、ッ、ン」
触手は足の裏や甲、指先、指の間と撫でていく。
触手には粒状の小さな突起が無数についており、得体の知れぬ感覚をもたらす。触手が動く度に身体が震えた。
「やめ、ッろ……」
くすぐったい。最初はそう思った。
足のあらゆる部分がくすぐられているような感覚だった。こそばゆい感覚を浴びせられている内に、気持ちがいいと一瞬思ってしまった。
「~~~ッ!?」
一度認識してしまえば、堰を切ったように快楽が溢れ出る。
(こんなの……気持ち悪いはずなのに)
どれだけ否定したところで身体は快楽を感じている。
快楽の激流が身体の制御を奪い取っていた。
「くっ!」
媚薬で強制的に発情させられている今、蟲の行動は快楽の拷問に等しい。
足を撫でられるだけで身体は快楽に呑まれている。ならば蟲が更にその先へと進んだ場合はどうなるだろうか。
「ぁ、あぁ……」
蟲の触手には粘着質な液体が付着しており、足に塗りたくられる。
その液体にも媚薬の成分が含まれているのだろう。触手が撫でれば撫でるほどに敏感になっていき、あられもない声をあげてしまう。
(もう止めてくれ……)
自尊心はズタボロだった。性的なものを不浄だと否定している不動にとって、これ以上の辱めはない。
「くっ、殺せ!」
いっそ喰われて死んだ方がマシだとさえ思えた。
だが蟲には不動の自尊心など関係がないらしい。
少しずつ、少しずつ。蟲は矛先を変えていく。足から膝に、膝から太ももに。身体を触手でいたぶりながら、ゆっくりと這いずっていった。
その結果――。
「も、う、もうムリ、だっ」
顔は赤く火照り、眉はへなへなと垂れ下がる。
半開きの口。だらんと伸びる舌。
まさしく日本男子であった美青年の姿は跡形もなく消失した。
力強い意志が宿る澄んだ瞳も今や輝きを失っている。
「それ以上は、アァ、ほんと、ッ……に、やめッ」
蟲には間違いなく性的な意図がある。
ならばこの先、蟲がどこを狙うのか。高校生の男子としては性の知識に疎い不動であっても簡単に予測できてしまった。
「お願い、ンン、おねが……イッ……ぁ、します」
絶望は着実に迫りくる。
心は既に折れていた。孤高の天才剣士の姿は既にない。これ以上はやめてくれと化け物に懇願して憐れな醜態をさらしている。
だが蟲は無情にも動きを止めない。
そして最後の関門を越え、不動の尊厳を穢そうとしたとき――。
「――オン」
不思議な響きのある言葉が聞こえた。
快楽の激流で朦朧とした意識の中、声のする方に目を向ける。
そこに、忍者がいた。
全身黒ずくめの忍び装束を身にまとう少女だ。
年齢は分からない。身長は女性の平均よりも小さく、小学生ぐらいにも見える。
しかし彼女の身体の一部がその判断を否定する。大きな胸だ。黒い胴着から覗く胸元には白い包帯が巻かれている。彼女の胸は包帯で抑えられてなお、その存在をはっきりと主張していた。
忍者は蟲へと跳躍した。まるで体重が存在しないかのように軽やかな動きだ。忍者服に衣装負けしていない見事な動きである。
右の手で、逆さに構えた小刀を蟲へと突き刺す。
紫の液体が飛び散った。
(危ない!)
不動を行動不能に追い込んだ蟲の血液が忍者に当たりそうになったとき、まるで忍者の周囲に見えない壁でも存在しているかのように、液体は空中でなにかにぶつかって止まった。
忍者は左手で十字を切って呪文のような文言を唱える。
小刀が刺さった場所が発光し、蟲が悲鳴を上げた。
そして、あまりにもあっけなく蟲は消滅する。
「消えた……?」
刀で真っ二つにしても生きていた蟲を、忍者はあっさりと倒したのだ。
詳しくは分からないが何らかの不思議な力で蟲を滅したのだろう。
異形の化け物。超常の力。そこには不動の知らない世界があった。
「お前は……」
忍者に向けてヨロヨロと手を伸ばす。
予感があった。
知らない世界。その先には【煩悩断ち】のヒントがあるのではないか。目指した境地があるのではないか。
「犬山愛染と言います」
忍者の格好をした少女が近づく。
可愛らしい、いや、むしろ幼い童顔の少女だ。
美少女忍者は手を取った。
彼女の柔らかな手の感触を、敏感になった肌が感じ取る。
ゴクリと唾を飲み込んだ。
「わたしは【秘剣・煩悩断ち】の秘密を知っています」
「あ、あぁ……」
光明が差した――そう思った。
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