スカートがカバンにひっかかってめくれる
授業の終了を告げるチャイムが鳴り、鬼斬高校の1年B組の生徒たちは皆我先にと教室を出ていく。帰宅する者、遊びに行く者、部活に励む者。目的は人それぞれだが、不動もまた、とある目的をもって教室を出ようとしていた。
「――ッ!?」
隣の席の少女を見て、思わず息をのんだ。
彼女は陸上部に所属している。
部室に行って運動着に着替えるのだろう。エナメルバッグのひもを肩にかけて教室を出ようとしていた。
彼女のスカートがバッグにひっかかってめくれている。
ぷりっとして可愛らしいおしりの右半分があらわになっていた。白のパンツもむき出しだ。
「お、おい」
「なに?」
少女が振り返ってこっちを向く。
パンツが見えなくなった。
(残念――いや、違う)
もっとスカートの中を見ていたいという気持ちが芽生えた。
だが彼は煩悩を否定している。
心の中で己に喝を入れて、スカートがめくれていることを指摘しようとした。
「その……」
いざ言葉にしようとすると上手くいかない。
もしも少女に指摘すれば、めくれたスカートを見たことがバレてしまう。
何か悪いことをした訳ではないが、どこかきまりの悪い感じがして口ごもった。
「どうしたの?」
少女が不思議そうに首をかしげた。
不動は色恋に興味がない。クラスの女子にも興味がない。そんなことよりも剣の修行の方がよほど大事だ。
だから普段、彼から女子に話しかけることはほとんどない。
そんな不動に呼び止められて、少女は困惑していた。
「えっと……サムライくん?」
サムライくんというのは不動のあだ名だ。
剣狂いな彼はいつしかそう呼ばれるようになった。
不動の在り方を馬鹿にしている面もあるが、クラスメイトに興味がなかったので、どんな蔑称を使われたところで気にならない。
「スカートめくれてるよ!」
近くにいた女子が少女に指摘する。
少女はあわてて衣服を正して顔を赤らめながら言った。
「その……サムライくんって案外すけべなんだね」
◆
不動は家から自転車で三十分ほどの距離にある鬼斬山という山に向かった。
標高約千五百メートルの山は絶好の修行スポットだ。
普段は自宅の道場で練習をしているが、やはり大自然に囲まれた状態での修行は一味違うものがある。
観光客の登山ルートからは外れた場所。狭い獣道を辿った先に、円形に開けた場所がある。木々が周囲をぐるっと囲む中心で、ただひたすらに刀を振っていた。
「煩悩退散! 煩悩退散!」
クラスメイトの少女にすけべだと言われて何も言い返せず、逃げるようにこの山までやってきた。
己の中に眠っている煩悩を追い出そうと一心不乱に刀を振るう。
刀を何度も振るって煩悩を蹴散らした。
だが少し時間が経てば、再び煩悩が湧き上がってくる。偶然スカートがめくれて見えたおしりや白いパンツが何度も脳裏に蘇る。
――くそッ!
腹立たしくなって頭を振る。
少女に恋愛感情を抱いている訳ではない。あくまでただのクラスメイトだ。
積極的に女子と関わろうとはしてこなかった。ほぼ1年同じクラスで授業を受けていたが、ほとんど無関係な他人だ。
だがそんな相手にすら心と体は反応してしまう。
(愚劣で最低だ)
下半身で思考している同世代の男子たち。
あんな風になりたくはないと思っていた。
でも今の不動はそんな煩悩塗れの猿どもとなんら代わりはない。むしろ、彼ら以下かもしれない。
――振れ。
――ただ一心に刀を振れ。
かつて祖父に言われたことがある。
己の眼が曇っていると感じたなら、ただひたすらに刀を振れ。そうすれば少しずつ、ほんの少しずつではあっても、きっとその曇りは晴れていく。
今は亡き祖父の教えに従い、愚直に刀を振って己の剣と見つめ合う。
風を受けて、匂いを感じ、葉のこすれる音を耳にしながら、一振り一振りを、ゆっくり、じっくりと確認していく。
おしりと白パンツが少しずつ脳裏から消えていき、身体の無駄な力みが抜けて、理想とする剣に少しずつ近づいていった。
桃川家に代々伝わる桃川流剣術。その遣い手は不動以外に存在しない。
父である桃川一鉄は、正当な桃川流剣術の遣い手だったが、幼い頃に姿を消した。おそらくもう生きてはいないだろう。不動を鍛えてくれた祖父も一年前に寿命でその生を終えた。
指導者もおらず、競う相手もおらず、たった一人で剣に打ち込む。剣の修行はいつも孤独だった。
一人で剣と見つめ合いながら研ぎ澄ましていく。
孤独な彼の剣はしかし、とても洗練されていた。
剣の心得がある者が見れば、彼の剣の腕に驚嘆するだろう。素人が見れば、舞の様な美しさに目を奪われるだろう。
「あぁ、くそ!」
苛立たしげに頭を振った。
髪にまとわりついてた汗が飛び散って土に吸収されていく。
ため息がでるほどに美しい剣筋。恐るべき剣の腕を身につけた彼はしかし、現状に満足していなかった。
「どうすれば【煩悩断ち】を習得できるのか……」
【煩悩断ち】――それは桃川流剣術の奥義だ。
かつて父が放った奥義を一度だけ目にしたことがある。
(美しかった)
まさに至高の剣だと思った。
一目見たそのときから心を奪われた。美しいその奥義をなんとしてでも習得したいと思った。
だがその奥義を放った直後に父は姿を消してしまう。
祖父が生きていた頃、【煩悩断ち】について尋ねても「お前にはまだ早い」と教えてくれなかった。口伝で教えられるものだったのか、指南書にも【煩悩断ち】という名前が書かれているだけで、その詳細については一切書かれていない。
だからどうすればあの奥義を身につけられるのか全く分からなかった。
煩悩断ち――すなわち、煩悩を断つ剣。
あらゆる煩悩を断つことで至る境地。不浄なものを全て消し去って穢れなき精神を手に入れた上で放つ一刀。
それこそがきっと、かつて父が放った美しき奥義【煩悩断ち】に他ならないはずだと不動は考えている。
――煩悩を断たねばならぬ。
己のあらゆる煩悩を断たねばならぬ。
その先に求めてやまないものがあるに違いない。
不動は桃川流剣術の【煩悩断ち】という奥義を修得することに拘っている。憑りつかれていると言ってもいい。
何かに急かされるように、端から見れば苦行のようなことを毎日行っていた。しかし成果はまるであがっていない。
不動は今、壁にぶち当たっていた。彼がどれだけ才能ある剣士であろうとも、一人では限界があるのだ。
見えない壁に阻まれて、焦燥感がつのるばかりだった。
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