誘惑の一手④
リディの不在に些かの違和感を抱きながら、健康診断の日はやってきた。
数日前もリディに起こされない朝を迎えたが、こうして繰り返されると違和感がひどくなる。ロレン自身、意外な心地がしてならないが、存外リディに慣れていたらしい。仕方がなく受け入れたインターンに親しみを覚えているというのは、どうにもきまりが悪かった。
初手、追い返そうとさえした相手だ。寂しいとまで言うつもりはないが、いないことに疑問を抱くほどなのだから、よほど領域を許していたのだと思い知らされた。
香が「静かですね」などと告げるものだから尚更だ。元より静かであるのだから、リディの不在はそこまで大きな要因ではない。しかし、それをわざわざ口にされてしまうと、意識を促されてしまうものだ。
ロレンはどこか落ち着かない気持ちで何もない一日を終えて、リディが復帰する予定日を迎えた。
たとえどんなに意識しようが、違和感を覚えようが、睡眠に影響が及ぶことはないので、いつも通りの朝であったが。
いつもと違ったのは、リディがロレンを起こしに来なかったことだ。
しかし、そのイレギュラーも、潜入捜査をした翌日から続いている。それに、リディは昨日、サキュバスの血と向き合ってきたはずだ。ロレンを起こしに来ないことにも理由がつけられる。そうした要素が絡まって、ロレンはまったく気にせずに睡眠を取り続けていた。
常々、眠っている時間は長い。だが、当然波はあった。朝方は、薄らと意識が浮上してくる。リディが起こしに来る時間辺りが、大体その波だ。なので、今朝も浅い頭で考えこそしたが、それを越えてからは深い眠りに再び落ちて、惰眠を貪っていた。
よほどであれば、香が起こしに来るだろうという打算も大いにある。それまではそうして事務所を回していたのだから、ロレンにとってはどちらにしても日常だった。
しかし、打算通りにやってきた香は、まったく日常から逸脱していたのだ。
「ロレンさん」
ぐいぐいと肩の骨を内側に押し込むかのごとく揺り動かされる。いくら起きなかろうとも、ここまで粗野なことはそうない。
小さな嫌な予感と鬱陶しさによって、ロレンは目を開く。そばにある香の顔は、へにょりと情けない顔をしていた。
「……なんだ」
「リディさんが来ないんです」
「こない?」
始業時間はもうとっくに過ぎているはずだ。ロレンの体感的にも、香がこうして話を持ってくることからも間違いなかった。真面目なリディが遅刻してきたことなど、今日まで一度だってない。流石のロレンも眉を顰めて身体を持ち上げた。
「何時だ?」
「十時です」
「……連絡はないんだな?」
「あったらロレンさんを無駄に起こしたりしませんよ!」
そうでもなければ起こしに来るつもりのない香のロレンへの慣れも考えるところだが、今はそれよりもリディだ。
香があまりにも不穏な顔をしてロレンを見るので、ロレンは本格的にベッドから起き上がった。応接間としているダイニングに出る。
当然、リディの姿はない。香が嘘じゃないでしょ、とばかりの顔をしてロレンを見る。別に疑って確認しにきたわけではない。現状の把握をしただけであるし、動き出すにしても起きる必要はある。
ロレンはぐるりと周囲を見回して、リディの痕跡がないかを確認した。
香だって、始業ギリギリまでは自室にこもっていることが多い。リディは余裕を持って出社しているはずなので、ここで何かが起こった可能性もゼロではなかった。
しかし、室内にリディの気配は微塵もない。新たに持ち込まれた荷物もなかった。エラン魔探偵事務所に異変はなく、ただただリディが来ていないという真実があるだけだ。
「学園に連絡はしてみたか?」
「いえ、まだしてません。寮のほうがいいでしょうか?」
「レナートを呼んできてくれ。電話は俺がする」
エラン魔探偵事務所は三階建てだ。一階は車の置いてある倉庫。二階がこの事務所の階。そして、三階は部屋を貸し出している。レナートはそこに住んでいた。
そのため、緊急の呼び出しは直だ。室内から直接繋がってはいないが、連絡を入れるよりも一階登ったほうが早い。
香に指示を出して近付いた電話は、ロレンが手に取るより先にコールを鳴らした。そのコールはどこからか鳴り響く警告のサイレンのようで、一瞬で緊張感が張り詰める。香の視線が鋭い。
「レナートを頼む」
緩やかな声かけではなくなった。必要人員として招集をかける態度になったことを、香も察したのだろう。ロレンが受話器を手に取るのと同じほどの早足で部屋を出て行った。
「はい。エラン魔探偵事務所」
『ロレンシオ・エランか』
応えた声は電子器機か何かで加工された音だ。雲行きは怪しい。目的も何も告げられないうちから、ロレンは臨戦態勢を取った。
「ご依頼でしょうか」
『助手の女を預かった』
「助手、ですか」
そんなものはいねぇけど、と心の内で反駁を返す。
リディは勘違いをされて誘拐されているということだ。心当たりは先日の潜入捜査の一件しかない。それ以外で助手のように努めている場面はなかったはずだ。リディの勤務衣装は普段は制服になる。あのときだけが、イレギュラーだった。
相手の存在が薬関係の連中であることが確定する。
『大事な助手ちゃんなんだろ? 空惚けていていいのか?』
『きゃっ』
「っ、インターン!」
存在の確認ができて、はったりの線が消えた。ロレンはどんな情報だろうとも取り零さぬように、神経を張り巡らせて注意深く受話器に耳を傾ける。
ここからが正念場だというタイミングで、香がレナートを連れて戻ってきた。ロレンは受話器をスピーカーに設定し、人差し指を立てて唇に当てる。相手方には、ロレン一人が相手をしていると思い込ませたほうが賢明だ。
「……目的はなんだ?」
『無事に返して欲しくば、先日の潜入によって得た知識の報告書をすべて破棄すること。既に報告している場合は、偽の情報で上書きして秘密を守ることだ』
「……確認はどうするつもりだ?」
『そうだな。バックアップがあるとも限らない。破棄は俺たちの目の前でやってもらおう。すべての書類を準備して待っていろ。取り引きについては、また後で連絡する』
面倒なことだった。バックアップなど秘密裏に行うものだ。嘘などいくらでも吐ける。
リディが人質に捕られていなければロレンは間違いなくその手段を取ったし、取り合うつもりもなかったくらいだった。
しかし、今はそうはいっていられない。リディの安全確保は最優先される。
エラン魔探偵事務所の見習い。インターン。学生を危険な目に遭わせるなんて真似は、先輩の魔探偵としてやるわけにはいかなかった。
仮にも雇い主であり、リディは魔探偵を信用している。ヒーロー視しているような面には危うさも感じるが、尊敬しているものを覆すこともない。ロレンにもそれくらいの情操はあった。
『一刻も早く準備をするんだな。では、数時間後に』
「待ってくれ」
縋るような声は演技半分。半分は、本気で焦っていたかもしれない。
「声を聞かせてくれないか」
『……しょうがない。無駄なことを言ったら即座に切るぞ』
「ああ」
ごそごそと身動ぎする音がして、受話器が移動したのが分かる。
香の顔つきが随分と強張っていた。レナートの手が香の背を支えている。いつもはレナートの女癖に一定の警戒心を抱いているが、こんな場面では信用していないような態度は取らない。少なからず、エラン魔探偵事務所で時を過ごしている二人だ。
『ロレンさん』
「……無事か」
『はい。怪我はありません』
「落ち着いているな?」
『万全を尽くさなければなりません』
変なとこで肝が据わっているのは本来の性質だろうか。それとも、ロレンの悪影響を受けたのだろうか。
ロレンは多少苦笑を浮かべながらも、心強い言葉が返ってきたことに、場合も考えずに胸が弾んだ。
「分かっているならいい」
『助手らしいですからね』
「らしいな」
リディの声音には少しだけ茶化す気配があった。強がりかもしれない。その要素のほうがよっぽど高いだろう。だが、あえてそれを暴く必要もない。ロレンは調子を合わせて相槌を打った。
それから咳払いをして空気を変える。
「教えたことを忘れるな。万全を尽くせ。安心しろ。絶対に助ける」
『……はい』
勇ましく断言したロレンに、リディは震える声で返事をした。瞬間に、余韻も何もあったもんじゃない物音が飛び込んでくる。
『かっこいい探偵じゃないか。助けたければ条件を満たすんだな』
言いつけると同時に、ぶちんと電話が切れた。室内にはしんとした沈黙が横たわる。
受話器を置いたロレンは、眉間を揉んで長い息を吐き出した。それから、前髪を掻き上げて顔を持ち上げる。
「香、地図を持ってこい」
「場所の見当がつくのか?」
「少なくともそう遠くねぇだろ。連れ去られたのは今朝だろうしな」
「何故分かる?」
「昨日の夜からいなかったら寮で騒ぎになってる。その時点で、こっちに連絡がくるだろ」
「これでいいですか?」
香が持ってきた地図をテーブルに広げた。ここサロギを中心にした近辺の地図だ。ロレンはすぐにその辺りに放置されているペンを手に取る。迷いなく、エラン魔探偵事務所から半径三キロ当たりにぐるりと線を引いた。
「この辺りですか? 市街地ですけど」
「郊外に出る時間がないなら、市街地のほうがよっぽど潜伏しやすいだろうよ。書類の取り引きをするつもりがあるのなら、遠くに構えてもしょうがねぇ」
「でも、これでもかなりの距離があるよ。探せるのか」
「……取り引きをするつもりはねぇのか」
「助けるっていったのはロレンだろ? まさか前言撤回なんて面倒な真似はしないだろ?」
煽るように言うレナートに、ロレンは渋面を浮かべた。
無論、書類のやり取りなんぞする気は更々ない。魔探偵としても、それは飲めない。依頼人の情報を明け渡すはずもなかった。
「……この間の連中か?」
「どうだろうな。取り引きをしていたどこかの連中だろう。俺の調査を魔探偵局からの依頼と誤認して、動いたってところか」
「それにしても杜撰だな」
「インターンを攫うという手法もな」
「でも、この事務所のダメージを考えると一番効果がありますよ」
香の指摘はもっともだ。ここの誰かを誘拐するのであれば、一番効果的だ。よく分かっているとも言えるが、この行き当たりばったり具合を思えば棚ぼた感は否めない。運のいいことだ。
「ロレン、この距離は確実か?」
ダメージの大小を言い合っている場合ではない。レナートが話を進めて、ペンで引かれた線を指で叩いた。
「間違いない」
「今朝の誘拐だとしても移動手段があればもっと遠くまで行けるぞ」
「インターンが大丈夫だと言ったからな」
「? なんだそれは?」
ロレンが当たり前に用いる情報に、レナートは怪訝を浮かべる。それは香も同じで、二人揃って首を傾げた。
「大丈夫と言ったインターンが万全を尽くすと言ったら、視えてるってことだ。あいつの目視範囲で確実性があるのはせいぜい半径三キロってところだろ」
「なるほど。分かった。だが、ここからどうやって絞る?」
「特に犯人たち以外の物音はしていませんでしたしね」
レナートと香が地図と睨めっこをして状況を推測する。
「西だと海がすぐだが……」
「だからって行かないとも限らないですよ。海沿いには倉庫もあります」
「船ってことはないよな?」
「波の音はしてませんでした」
「じゃあ、海もないか?」
「倉庫なら聞こえないこともありますよ」
「いや……それを言い始めたら消音なんかの特殊魔術を持ってるやつがいたらどこだろうと関係がない」
「結界持ちがいれば場所もどこでもいいですもんね」
「野外ってことはないだろうけど、それこそ一般住宅にこもって何をやってもバレないな」
「寧ろ忍ぶには好都合でしょうから、そちらの可能性も高いですね」
「ロレン、お前が一番通話してたんだから、少しは参加しろ」
とりとめもない。虱潰しのやり取りは不毛と言えば不毛だ。だが、そうして多少なりとも擦り合わせを行う香とレナートを横目に、ロレンは顎に手を当てて黙り込んでいた。
レナートに会話に加われとせっつかれたというのに、ロレンの反応は芳しくない。
そうして、じっと黙っていたかと思うと、ふぅーっと肺の息をすべて吐き出すかのごとく深い吐息を零す。そのまま前髪を持ち上げてから髪を掻き乱すと、胡乱げな瞳になった。
すべての力を抜き去ったような表情に、香が不快な顔をする。
「ロレンくん?」
「しょうがねぇ」
「ちょっと待て」
「諦めろ。他に手段がない」
ロレンは粗略な物言いをして、眼鏡を外して伸びをした。
「後は任せる」
すべてを放り出すかのような言葉だ。香とレナートが厳しい顔つきになる。ロレンは傲然とソファに腰を下ろして、いつものように深々と身体を休めた。
それはまさに、堕落の魔探偵そのものであった。
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